第5話 再開 1



 目が覚めた時、天井は、やけに白すぎた。

塗りたてのペンキみたいな、陰影のない白。

日本のどこにでもあるマンションの天井。

少し寝返りを打つと、壁の向こうから生活音が滲んでくる。

エアコンの低い唸り。

遠くの車の走る音。

階下のドアが閉まる“ドン”という鈍い響き。

 

――安全な音だ。

 

九郎はベッドの上で仰向けになったまま、しばらく瞬きもしなかった。


視界の端に、長い髪が見える。

隣には女がいる。昨夜、行きずりで一夜を共にした女だ。

名前は、聞いた。

ちゃんと聞いて、ちゃんと返された。

だが、もう輪郭が薄れかけている。


シーツの中の体温。

規則正しい寝息。

肌に残る、昨夜の熱の名残。

それらは、戦場から日常へ戻るための、一時的な装置みたいなものだった。

 

――それでも、戻り切れていない。

 

心拍は、戦闘時よりは落ちている。だが、まだ低く一定のリズムを保っている。

呼吸は浅く、乱れない。耳は、無意識に外の音を拾い続けていた。

 

(……切れてねえな)

 

仕事は終わった。

敵は倒した。現場も片付いた。依頼は完遂した。

それでも、戦場のスイッチは、まだ入ったままだ。

 

九郎は、ゆっくりと上体を起こした。

床に落ちた衣服。

椅子に掛けられたジャケット。

散らかったようで、出入りの導線だけは残してある配置。

癖だ。


無意識に、部屋の死角を一つずつ確認する。

窓。

ドア。

キッチンの影。

ベランダへ続くサッシ。

視線を滑らせるたび、「異常なし」と頭のどこかで判断する。

それでも、身体の芯は納得しない。

 

「……ん……?」

 

背後で、女が寝返りを打つ。シーツが擦れる音。肩が触れそうになる距離。

九郎は、反射的にほんの少しだけ距離を取った。

 

(違う)

 

ここは日本だ。

ここは、戦場じゃない。

自分に言い聞かせる。

だが、キレている時の冷静さは、言葉でスイッチを切れるような代物じゃない。

 

 

―――――

 

 

キッチンで水を飲む。

薄いガラスのコップ。その縁が、やけに頼りなく感じた。

冷たい水が喉を落ちていく。

胃のあたりで、ようやく「生きている」という感覚に変わる。


流しの前に立ち、窓の外を見る。

ゴミ出しをする住民。

通勤前らしいスーツ姿の男。

自転車に乗った学生が、イヤホンをつけたまま走り抜ける。

どこにでもある、平和な朝。

 

(……守ったんだよな)

 

誰に対しての確認か、自分でも分からない。

守った。壊した。終わらせた。

それは、事実だ。

なのに、達成感はない。


あるのは、次に備えるための余白――

「次の戦場のために体力を残しておく癖」だけ。

 

背後で、足音が近づく。

裸足の、軽い足音。

 

「もう起きちゃった?」

 

女の声。気怠げで、日常的だ。

昨夜と同じ声なのに、今は別物のように聞こえる。

 

「……ああ」

 

短く返す。

 

「コーヒー、飲む?」

 

何でもない一言が、妙に遠く感じた。

 

「頼む」

 

言葉だけは、いつも通りに口から出る。

女は、何も疑わない。

九郎の目の奥にまだ残っているものにも、気づかないふりをしてくれる。それが、ありがたかった。

 

ドリップパックを破る音。

ポットの湯が注がれる音。

立ち上るコーヒーの匂い。

それが、戦場から離れたことを告げる「匂いの合図」になる。

 

九郎は、差し出されたカップを受け取り、両手で包む。

温度を確かめるみたいに、指に熱を馴染ませる。

 

(……戻れ)

 

心の中で、短く命じる。

戦場にいた〈鴉〉を、この部屋に連れてくるな。

けれど、〈鴉〉はまだ、肩の上に止まったままだ。

 

女が、何気なく問いかける。

 

「今日、どうするの?」

 

ただの会話。

世間話レベルの質問。

 

「……まだ、決めてない」

 

それは、休暇の予定に対する答えであり、

九郎の生き方そのものへの答えでもあった。

 

コーヒーを一口飲む。苦い。

ちゃんと、現実の味がする。

それでようやく、スイッチがほんの少し緩んだ。

完全には切れない。切れなくていい。

ここが日本で、今が日常で、

それでも自分が“レイヴン”である事実は、変わらない。その境目で、九郎は静かに朝を過ごしていた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

朝の光は、容赦がない。

カーテンの隙間からまっすぐ差し込んできて、

部屋の輪郭を、否応なくはっきりさせる。

ここは、私の部屋。

いつものベッド。

いつもの天井。

――なのに、空気が少しだけ違う。

 

テーブルの上には、冷めきったマグカップ。

さっきまでそこに“誰か”がいた気配だけが、部屋の中に残っている。

 

(……行ったんだ)

 

女――彼女は、ゆっくりと目を閉じてから、もう一度開いた。

彼の名前は、ちゃんと聞いた。

覚えている。

ただ、今それを口にする必要はない気がした。

昨晩のことを思い出そうとすると、胸の奥が、きゅっと縮む。

優しかったわけじゃない。

甘い言葉も、約束もなかった。

それなのに――安心してしまった自分がいる。

 

キッチンに立ち、マグカップにお湯を注ぐ。

インスタントコーヒーの匂いが立ち上る。

これは、いつもの日常の匂い。

けれど、鼻の奥にはまだ、別の気配がこびりついていた。

金属の匂い。

煙。

それから、言葉にはしづらい“緊張”の残り香。

 

(……危ない人だった)

 

そう思う。

根拠はない。

職業も知らない。

住んでいる場所すら、分からない。

でも、あの目。

ぼんやりしているように見えて、

何かを常に測っている目。

 

ベッドの上で、ふとした物音に反応して、

一瞬だけ身体が強張ったのを、私は見てしまっている。

 

(普通じゃない)

 

それでも。

 

(……だから、惹かれたんだ)

 

私は平凡だ。

普通の会社。

普通の仕事。

普通の人間関係。

危険なことなんて、ニュースの中にしか存在しない世界で生きている。

 

でも、昨夜は――

その境界線の向こう側に、ほんの少し触れてしまった気がした。

抱かれている時、守られているようで、

同時に遠くに置かれているような感覚。

踏み込ませない距離。

でも、完全には拒まれない距離。

 

(ずるい)

 

少しだけ、そう思う。

 

(……もう、会わない)

 

それが、正しい。

連絡先は交換していない。

約束もない。

だから、今日も普通に出勤する。

メールを打って、会議に出て、同僚と笑う。

それでいい。それが、正解だ。

 

それなのに――

マグカップを持つ手が、ほんの少しだけ震えた。

 

(……また、会ったら)

 

どうなるんだろう。

期待じゃない。

恋ですらない。

ただ、「危険な匂い」を知ってしまった後の、静かな渇き。

 

窓の外を見る。

通勤する人たち。

変わらない朝。

 

「……忘れよ」

 

小さく呟いて、コーヒーを一口飲む。

苦い。ちゃんと、日常の味がする。

それでも、心のどこかではもう分かっている。

昨晩の男は、私の人生には“必要のない存在”だ。


それなのに――一生に一度くらい、

ふとした瞬間に思い出してしまう相手。

そういう人が、確かにいることを。

 

朝の光は、すべてを平等に照らしていた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

ドアが閉まる音は、小さかった。

九郎は廊下を数歩進んでから、無意識に一度だけ立ち止まる。

足音が、やけに響く気がしたからだ。

 

(……日常だ)

 

何度目かの確認。意味はないのに、やらずにはいられない。

エレベーターで下に降り、建物を出る。

朝の街は忙しい。

通勤の波。

自転車。

コンビニの前で立ち止まる人。

誰も、こちらを見ていない。

それが、少しだけ落ち着く。

 

ジャケットの下。

身体に馴染んだ重さがある。

拳銃。

ナイフ。

九郎は意識的に、そこへ思考を向けない。

 

(今は――違う)

 

必要ない。

使う場面も、想定しなくていい。

ただ、歩く。

 

交差点で信号を待つ。

赤。

青。

子どもを連れた母親。

スマートフォンを見ながら横断する若者。

眠そうなサラリーマン。

視界の端に入るたび、一瞬だけ「守る対象」として認識しそうになって――

すぐに、押し込める。

 

(仕事じゃない)

 

今日は、違う。

コンビニに入り、ペットボトルの水を一本取る。

レジで何気ないやり取り。

 

「袋、いりますか?」

 

「いや」

 

声は普通だ。

響きも普通。

――問題ない。

 

外に出て、近くのベンチに腰を下ろす。

キャップを開け、水を飲む。冷たい。

ちゃんと、現実の感触がある。

 

遠くで、救急車のサイレンが鳴る。

一瞬、身体の奥が反応しかける。

 

(……違う)

 

拳を、ゆっくり開く。

指先に残った緊張を抜くように、呼吸を整える。

街は続いている。

誰も壊れていない。

それでいい。

 

視線を上げる。

近くのビルのガラスに、自分が映る。

武装を隠した、ただの男。

 

(これが、日常か)

 

慣れない。

だが、拒むほどでもない。

立ち上がって歩き出す。

特に目的地はない。

ただ、人の流れに紛れる。

ジャケットの下にある武器の存在を、意識の外へ押しやる。

今は使わない。

使う理由も、必要もない。

それだけで、心拍が少しずつ落ちていく。

 

街は、何も言わない。

ただ、受け入れている。

それで十分だ。

ベンチの木目は、ところどころ擦り切れていた。

誰かが何度も腰を下ろし、立ち上がった跡。

背もたれに軽く身体を預け、人の流れを眺める。

街は平和だ。

少なくとも――今は。

 

ポケットの奥で、短い振動。

音は鳴らないようにしてある。

すぐには動かない。

一拍。

呼吸をひとつ落としてから、スマートフォンを取り出した。

 

画面には、登録されていないアドレス。

 

(……来たか)

 

ため息にもならない息が、鼻から抜ける。

 

九郎はフリーの戦闘屋だ。

組織には属さない。

肩書きも名刺もない。

街の喧嘩の仲裁。

裏路地の揉め事。

人に見えないものの始末。

小さい仕事も、大きい仕事も、区別しない。

呼ばれれば行く。

詳しい内容は、会ってから聞く。

それで十分だ。

 

画面を一度だけ確認し、メールの冒頭を目に入れる。

言葉の荒さ。文字の震え。

行間に滲む「追い詰められた気配」。

それで十分、判断はつく。

 

スマートフォンをポケットに戻す。

周囲を見る。

通行人。

学生。

買い物袋を提げた老人。

誰も、彼に関心を向けない。

それでいい。

 

ベンチに置いたボトルを手に取り、一口だけ飲む。

冷たい。

日常の感触が、まだ喉に残っている。

 

「……終わりだ」

 

何が、とは言わない。

もう少しだけ続いていた“休暇”が、とりあえず終わった。


ゆっくりと立ち上がる。

ジャケットの裾が揺れる。

その下の重さを、今度は意識して、きちんと「仕事モード」に戻す。

 

街の中に溶け込む足取りで、

指定された喫茶店の方向へ歩き出す。

日常は、もう一度、仕事に席を譲った。

 

――次は、どんな用件だ。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー





 

 

大学の中庭は、いつも通りだった。

昼休み。ベンチに座る学生。

スマートフォンを見ながら歩く人たち。

芝生の上でコンビニおにぎりを食べているグループ。

笑い声。

何も変わっていない。

はずなのに――

胸の奥だけが、ずっと落ち着かなかった。

 

女子大学生――佐伯みなみは、肩に掛けたバッグのストラップを、無意識に強く握っていた。

視線が勝手に動く。

後ろ。

建物のガラスに映る影。

通り過ぎる男。

 

(……いない)

 

ひとりひとり確認するたび、心臓が少しだけ跳ねる。

それでも、「いない」と分かると、次の瞬間にはまた不安が戻ってくる。

 

「……はぁ」

 

小さく息を吐いた。

――始まりは、些細なことだった。

 

SNSのメッセージ。

知らないアカウントからの「いいね」と、他愛もない感想。

最初は、ただのファンかと思った。

無視すればいい。そう思った。

次は、構内での視線。

気のせいだと思おうとした。

でも、帰り道で名前を呼ばれた。

そこから、「気のせい」で済まなくなった。

 

「……由衣」

 

声をかけると、由衣はすぐに気づいて振り返った。

 

「みなみ? ……どうしたの? 顔色悪いよ」

 

その一言で、張り詰めていたものが、すこし緩む。

由衣は、最近少し変わった。

前よりも姿勢がよく、視線が落ち着いている。

 

(……強くなったんだ)

 

みなみは、思い切って言った。

 

「……ちょっと、相談してもいい?」

 

「うん。ベンチ座ろ」

 

二人は、人の多い場所を意識して選び、ベンチに腰を下ろした。

それだけで、少し安心する自分がいる。

 

――一人じゃない。

その事実が、ぎりぎりのところで自分を保たせていた。

 

 

 

「……ストーカー、されてて」

 

言葉にした瞬間、喉が詰まった。

声が、自分のものじゃないみたいに震える。

由衣はすぐ遮らない。ただ、聞く態勢を整える。

 

「いつから?」

 

「春休み前くらい……最初は、変なメッセージだけだったんだけど……」

 

画面に届いていた文章。

「可愛いですね」「ファンです」

最初は、ありがちなものだった。

それがいつの間にか、「どこにいるのか知ってますよ」に変わっていった。

 

「最近は……」

 

「……ついてくる?」

 

「……うん」

 

講義の終わる時間に合わせて現れる影。

帰り道で、一定の距離を保ちながらついてくる足音。

由衣の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。

怯えではない。何かを判断する時の表情。

 

「警察には?」

 

「……行った。でも、証拠が弱いって……」

 

言われると思っていた答え。

「様子を見ましょう」

「何かあったらすぐに通報してください」

それを聞いて、どうすればいいか分からなくなる感覚。

 

由衣は、少し考えてから言った。

 

「……今、私、護身術習ってるんだ」

 

「……え?」

 

「道場で。怪我しない逃げ方とか、距離の取り方とか」

 

みなみは、思わず聞き返した。

 

「……怖くないの?」

 

「怖いよ」

 

即答だった。

 

「でも、何もしない方が、もっと怖かった」

 

その言葉が、胸にすとんと落ちる。

 

 

 

由衣は、声をさらに落とした。

 

「……それでね。道場で聞いた話なんだけど」

 

みなみは、無意識に身を乗り出す。

 

「荒事なら何でも受けてくれる戦闘屋がいるって」

 

「……戦闘屋?」

 

「うん。表に出ない問題を、ちゃんと“終わらせる人”」

 

冗談みたいな話。でも、由衣は笑わない。

 

「喧嘩の仲裁、用心棒とか、そういうのもやる人らしい」

 

「……そんな人、本当に……?」

 

由衣は、スマートフォンを取り出した。

 

「とあるサイトがあってね」

 

画面には、必要最低限の文字だけが並んだ無骨なページ。

 

相談・依頼はメールのみ

名前不要

状況だけ送ってください

 

「ここから、メール送れる」

 

「……これ……」

 

みなみの指先が、わずかに震える。

怪しい。

危ない。

普通なら、近づかない。

でも――

 

(……今のままの方が、危ない)

 

由衣は、はっきりと言った。

 

「無理にとは言わない」

 

「……」

 

「でも、私は――」

 

一瞬、言葉を選んでから続ける。

 

「助けられた」

 

それだけ。

詳しい説明はしない。

それでも、その言葉だけで十分だった。

 

みなみは、スマートフォンを握りしめる。

 

「……考える」

 

「うん」

 

由衣は、微笑んだ。

 

「一人で抱えなくていいよ」

 

「……ありがとう」

 

それは、ようやくこぼれた本音だった。

 

昼の校内は、相変わらず賑やかだ。

その中で、みなみは初めて、「逃げ道があるかもしれない」と思えた。

 

――そして、この数十分後。

九郎の元に、一通のメールが届くことになる。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

――依頼メール ――みなみ

 

スマートフォンの画面が、やけに明るい。

講義棟の隅。

人通りの少ない自販機の前。

それでも完全に一人になれる場所じゃない。

だからこそ、ここを選んだ。

佐伯みなみは、指先を画面の上に置いたまま、動けずにいた。

 

(……送るだけ)

 

ただのメール。

名前も要らない。

顔も知られない。

それなのに、心臓が、うるさい。

 

 

彼氏の顔が浮かぶ。

昨日じゃない。

一週間前でもない。

「――あの日」。

 

目の前で、突然知らない男が割り込んできて。

何も言わず、ただ――

地面。

人だかり。

悲鳴。

彼氏は動かなくなり、救急車で運ばれていった。

骨折。

内臓損傷。

「命に別状はないですよ」

その言葉だけが、現実から浮いていた。

 

(……私のせいだ)

 

誰も、そうは言わなかった。

彼氏も、家族も。

それでも、そう思うしかなかった。

 

それ以来、彼氏は変わった。

優しかった人が、目を合わせなくなった。

 

「……もう、関わりたくない」

 

責める声じゃなかった。

怯えた声だった。

みなみは、別れを告げられた。

否定できなかった。

 

 

警察に行けばいい。

それが正しい。

頭では分かっている。

でも――言えない。

あの男が、どこで見ているか分からない。

もし、話したことが知られたら。

彼氏みたいに。

今度は、家族かもしれない。

 

指が震える。

文字を打とうとすると、誤字になる。

一度、画面を消し、深呼吸をする。

 

(……助けて、って言うだけ)

 

それだけのはずなのに。

 

 

件名:なし

宛名:空白

本文欄に、カーソルが点滅している。

みなみは、震える指で、文字を打ち始めた。

 

ストーカー被害にあっています。

大学内と帰り道で付きまとわれています。

 

一行書いて、指が止まる。

 

(……足りない)

 

喉が、再び詰まる。

 

彼氏が、私の目の前で暴力を受け、病院に運ばれました。

 

画面が、滲む。

 

怖くて、警察には言えていません。

彼氏とは、別れました。

 

そこまで打って、一度、スマートフォンを膝の上に置いた。

 

(……これで、いいの?)

 

誰かに、読まれる。

知らない誰かに。

でも――今のままよりは、いい。

由衣の声を思い出す。

 

「一人で抱えなくていいよ」

 

みなみは、もう一度、画面を見る。

 

どうしたらいいか、分かりません。

助けてください。

 

最後の一文。

送信ボタンが、目の前にある。

親指が、ほんの少しだけ浮いた。

 

(……お願いします)

 

誰に向けた祈りか、分からない。

ただ、今この場所から逃げたい。

 

みなみは、目を閉じて、送信をタップした。

 

――送信完了。

 

画面が、元のホームに戻る。

それだけ。

何も変わらないはずなのに。

胸の奥で、張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

みなみは、スマートフォンを胸に抱え、小さく息を吐いた。

 

(……届いて)

 

それが、彼女にできる精一杯だった。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

喫茶店の中は、思っていたよりも静かだった。

昼のピークを外した時間。

カップが受け皿に触れる、控えめな音。

エスプレッソマシンの低い駆動音。

それらが、一定のリズムで空間を満たしている。

 

みなみは、両手でカップを包み込むように持っていた。

中身はもう、ぬるい。

 

(……まだ、来ない)

 

視線が、無意識に入口へ向かう。

ドアが開くたび、肩が強張る。

 

知らない人。

常連らしい年配の男性。

学生のカップル。

違う。

違う。

 

「……落ち着こ?」

 

横に座る由衣が、できるだけ柔らかい声で言った。

 

「大丈夫。今はここ」

 

みなみは、曖昧に頷く。

 

「……ごめん」

「何が?」

「こんな……巻き込んじゃって……」

 

由衣は、首を横に振る。

 

「巻き込まれたって思ってないよ」

「……」

「心配はしてるけど」

 

その言い方が、正直で、優しくて、みなみの胸に刺さる。

 

(……由衣も、怖いよね)

 

当たり前だ。自分の問題じゃない。

それでも、ここにいてくれている。

みなみは、視線を落とした。

 

 

 

由衣は、みなみの様子を横目で見ながら、心の中で何度も反芻していた。

 

(……大丈夫かな)

 

自分が、あのサイトの話をしたこと。

メールを送ることを勧めたこと。

間違っていなかったと、思いたい。

 

(でも……)

 

由衣は、無意識に背筋を伸ばす。

護身術の道場で習ったこと。

距離の取り方。

視線の置き方。

それでも、本物の“荒事”の世界は知らない。

 

(……どんな人が来るんだろう)

 

優しい人か。

怖い人か。

無愛想なだけの人か。

由衣は、“あの時”のことを思い出しそうになって――

意識的に、そこから思考を逸らした。

 

(……考えちゃだめ)

 

みなみを守るために、自分が怖がってどうする。

 

 

 

「……ねえ」

 

みなみが小さく言う。

 

「もしさ……」

 

「うん」

 

「誰も来なかったら……」

 

「……」

 

由衣は、少し考えてから答えた。

 

「その時は、私が一緒に考える」

 

「……」

 

「警察に行くタイミングも、別の方法も」

 

嘘ではない。でも、強がりでもある。

みなみは、唇を噛んだ。

 

「……私、弱いよね」

「違う」

 

由衣は即座に言った。

 

「ちゃんと、助けを求めてる」

「……」

「それ、簡単じゃないよ」

 

みなみの目が、少し潤む。

 

「……ありがとう」

 

その言葉に、由衣の胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 

(……来て)

 

誰に向けた祈りか、自分でも分からない。

ただ――

ここで、この時間を「無かったこと」にしてほしくなかった。

 

 

ドアベルが鳴った。

 

二人の視線が、同時に入口へ向く。

スーツ姿の男。

コーヒーをテイクアウトで買っていく女性。

違う。

みなみの肩が、わずかに落ちる。

由衣はそれを見て、何も言わずカップに手を伸ばした。

 

「……飲も。冷めちゃう」

 

「……うん」

 

二人は、同時に一口飲む。

苦い。現実の味。

喫茶店の窓の外を、人が通り過ぎていく。

その中の誰かがこちらを見ている気がして、

みなみは思わず由衣に、身体を少し寄せた。

由衣は逃げない。ただ、そこにいる。

 

(……一人じゃない)

 

その事実だけが、今のみなみを支えていた。

 

そして――

その喫茶店へ向かって、静かに歩いてくる男がいることを、

二人はまだ知らない。

 

時間は、確実に進んでいた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

佐倉 由衣(さくら・ゆい)

年齢:20代前半

立場:一人暮らしの大学生

身長・体型:平均的。華奢ではないが、守ってあげたくなるライン。

 

容姿:

・派手さはないが、整った顔立ち

・清潔感のある可憐さ

・柔らかい表情が多く、警戒心が薄く見えがち

・実際には、視線の配り方や立ち位置に「無意識の警戒」が滲んでいる

 

性格:

・基本、穏やかで優しい

・他人を気遣いすぎて、自分のことを後回しにしがち

・一度「やる」と決めたことには、意外なほど強情で折れない

・自分の怖さや弱さを、あまり人に見せたがらない

 

過去:

人身売買組織に拉致され、海外に売られかけた過去を持つ。

救出が数日遅れていれば、「変態の性奴隷として消費される未来」がほぼ確定していた。

九郎に救われ、「帰ってこられた側」の人間。

 

現在への影響:

・夜道や人混みに対する警戒心

・無意識に出口や、逃げやすい位置を確認する

・「助けを求めること」の重さと難しさを、身をもって知っている

・だからこそ、誰かが助けを求めた時、簡単には無視できない

 

現在の行動:

・護身術を学び始めている(逃げ方、受け身、距離の取り方など)

・同じように追い詰められた人を、放っておけない

・それでも、自分が“戦う側”になるイメージは、まだ持ちきれていない

 

九郎との関係性:

・命を救われた相手

・だが「戦闘屋=九郎」とまでは、まだ認識していない

・彼との遭遇が、人生観を静かに変えた

・「世界には、本当に危ないものも、それを止める人間もいる」という現実を受け入れ始めている

 

ーーーーーーーーーー

 

佐伯 みなみ

由衣の友人/今回の依頼人

 

年齢:由衣と同世代(20代前半)

立場:女子大学生(都市部の大学)

身長・体型:

・平均よりやや高め

・軽く、細身でスタイルが良い

・歩いているだけで、無意識に視線を集めてしまうタイプ

 

容姿:

・目鼻立ちがはっきりした美形

・本人は自覚が薄いが、写真映えする顔

・笑うと場が明るくなるが、現在はその笑顔がほとんど出てこない

 

性格(本来):

・明るく社交的

・人と関わることが好きで、場を和ませるのが得意

・相手の気持ちを汲もうとしすぎて、自分を後回しにしてしまう面もある

 

現在の性格傾向:

・常に緊張状態

・「自分のせいで他人が傷つく」ことを極端に恐れている

・後ろを何度も振り返る癖がつき、視線に過敏

・眠りが浅く、夜中に何度も目を覚ます

 

ストーカー被害:

・執着型で、質の悪いタイプ

・大学内・帰宅路での付きまといが、徐々にエスカレート

・SNSでの監視、名前を呼ぶ、距離感を無視した接近

・周囲に相談しても「気のせいかも」「怖がりすぎ」と処理されやすいパターン

 

転機:

・空手三段の彼氏が、目の前でストーカーに襲われ、病院送りにされる

・「強い人ですら守れない」という現実を突きつけられる

・彼氏は恐怖から距離を取り、別れを選択

・みなみは彼を責められず、余計に自責感を抱く

 

警察に行けない理由:

・報復への恐怖

・周囲(家族・友人)が巻き込まれる不安

・「話した瞬間に、全部終わる」という感覚

・ストーカーが見ているかもしれない、という強迫的な意識

 

現在の状態:

・人通りの多い場所ですら安心できない

・「普通の会話」ができる相手が、由衣くらいしかいない

・それでも「助けを求めるメール」を打てたことで、ぎりぎりのところで踏みとどまっている

 

由衣との関係:

・唯一、本音を話せる相手

・由衣が救出された過去の“詳細”までは知らない

・それでも、彼女の中にある「どこか折れない芯」を感じている

・今回、自分から助けを求める行動を取れたのは、由衣が背中を押してくれたから

 


 


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