第一部 後篇

裁判が開かれた。三上みかみ春子はるこ――それがハルの本名だった――は自分のやったことや動機を率直に述べた。かつての友人が、同じ学校に通うその姉の主導でいじめられていたこと。家庭においても両親は姉を優遇し、その妹を粗末に扱い、巧妙な手口で虐待してきたこと。ハルはそれをまざまざと目撃してきた。ハルは友達と同じように無力な十代の子供に過ぎなかったから、そうしたすべてに抵抗できなかった。できることは二人で寄り添って過ごすことだけで、いつかは社会に出ればそうしたくびきから解放されるはずだという望みを持っていた。しかしそれも友人の自殺という無残な現実の前に砕かれた。友人の両親と姉による攻撃はそれだけ苛烈であり、また執拗しつようであったのだ。


友人の両親は彼女が学生であったころから引っ越しておらず、ハルにとって住所や電話番号はあらかじめわかっていた。そこで彼女は電話をして、自分は亡くなった娘の学生時代の友人であり、位牌いはいを拝みたいと申し出たのだ。相手は渋ったが、ハルは粘り強く頼みこんで了承を得た。そして一軒家に上がった。父親はおらず、母親だけが家にはいた。ハルはその時点では何も考えてはいなかった。憎いはずの相手の顔を見ても何も感情は湧かなかったのだ。ただ老いたみにくい女だな、と思っただけだ。


位牌を拝んだあと、出された茶をハルが飲んでいる途中に母親がトイレにいった。居間にはハルひとりだけが残され、辺りはしんとした。そこで初めて霊感がハルを襲った。彼女は突然立ち上がって居間の棚を物色し始めたのだ。自分でもなぜそんなことを始めたのかはわからない。そのとき、もしも母親がすぐにトイレから出ていたら、水洗の音とドアを開閉する音がハルに聞こえていたなら、物色は中断され、事件は起こらなかったかもしれない。


しかし偶然がハルに味方をした。彼女はその家の鍵を発見したのだ。母親がトイレから戻ってきてからハルは何食わぬ顔をして挨拶あいさつをし、家を退去した。そして真夜中の午前二時に再びそこへ舞い戻ってきた。鋭く光る、大振りのナイフを二本手にして。


殺害はたやすくおこなわれた。父親も母親も熟睡していた。ハルは昼間に手に入れた鍵で家へ侵入すると、息を殺し、静かな足取りで寝室を見つけ出した。そして懐中電灯でベッドに横たわった対象の位置を確認すると、そっと上がって、体重をかけないように相手の上半身をまたいだ。ナイフを逆手に持って振り上げ、全身の発条ばねを使って力いっぱい頸動脈けいどうみゃくを突き刺した。刀身が深く潜り込み、血が噴射する。ハルはすぐに相手の口を左手でふさいだ。痙攣けいれんする相手の体にのしかかり、暴れないようにと抑え込んだ。やがて相手の体は静止した。そこまで来たらもう止まらない。ハルはもう一本のナイフで残った相手を同じように処理し、殺害した。それだけのことで簡単に人が死ぬという事実に彼女は驚かざるを得なかった。血みどろの手とナイフ。それらとともにハルは長いこと震えていた。


でもしばらく経つとまた冷静になった。ハルは家中の電気をつけてまた捜索そうさくを始めた。こいつらは古い人間だ。なら娘の今の住所も紙という形で残されているのではないか。


予想は当たった。ハルは犯行をおこなった寝室でメモ書きを手に入れた。ご丁寧に死んだ友人の姉の名もそこには記されていた。間違いない。


ハルは朝になるのを待ってからそこへ向かった。タクシーで一時間ていどの距離だった。やはりそこも一軒家だったが、表札を見たものの判然としない。ひょっとしたら結婚をして姓が変わってしまったのかもしれなかった。ハルは焦りを覚えた。


そこで運命がまたもハルの味方をした。相手がその家から出てきたのだ。あれから八年の歳月が経っていたが、間違いなく友人の姉だった。様子を見ると、どうもゴミ出しに出てきたらしい。彼女は忍び足で入れ違いにその家に侵入した。鍵はかかっていなかった。ハルはもはや何も考えてはいなかった。家に相手の夫がいたらどうしようなどと、想像すらしなかった。侵入する。そして姉の娘を見つける。四歳の幼い娘だ。幸運なことに他には誰もいない。ハルは娘を発見次第、蹴り倒し、のしかかって首を絞めた。ものの十分で絞殺は完了した。遺体を居間に放り出したまま、ハルは奥の部屋に引っ込んだ。


すぐに姉が帰ってきて娘を発見した。悲鳴と混乱が巻き起こり、憐れな姉は腰を抜かして床に座り込んだ。ハルはそれを冷徹れいてつに扉の隙間から観察した。やがてその姉は電話にすがりついて警察へ通報しようとこころみた。姿勢がハルから見て後ろ向きになる。そこでハルはすみやかに扉から飛び出し、姉の背中をナイフで突き刺した。脚を蹴って相手を倒し、馬乗りになって何度も胸と首に刃物を突き立てた。すぐに新たなしかばねがひとつ出来上がった。


やりたいことがすべて終わったので、ハルはバスルームを借りて自分の全身をくまなく洗うと、元の血みどろの服を着て、最寄りの駅の前にある交番まで出頭した。


五ヶ月ほどで裁判は終わった。第一審の判決のあと、彼女は控訴を拒否した。ハルの死刑が確定した。


☨☨

 

「大変なことになっちゃったね」


私の言葉にもハルは反応を示さなかった。我々は仙台市の処刑場内にある面会室にいた。死刑囚は皆ここへ移送されて独房に入れられる。アクリル板の向こうでハルはずっとうつむいていた。


善悪については、私は何も考えていなかった。ハルのしたことを責める気にはなれない。何が正しいか何が悪いかは世間が決めることだし、そもそも私にはハルがどれだけ大きな荷物を背負っていたのか、どれだけ彼らを恨んでいたのかはわからないのだ。自分にハルを裁く権利はないし、その資格もないと思っていた。ただ私は少しでもハルと話がしたくて、彼女に笑ってほしくて、言えることは何でも言ったつもりだった。ハルのしたことに共感すると言い、あなたは悪くないとまで告げた。それでもハルは反応を示さない。無表情のままうつむいていた。


「その演劇部の友達のことが好きだったの? つまり、実際には友人以上の関係があったのかな」


無言。


「ハルが死んだら、私も死んじゃいたいな。生きていることに意味なんてないし」


無言。


「また来るよ。時間はそんなに残っていないかもしれないけれど、私は少しでもあなたのそばにいたいんだ」


ハルは何も言わなかった。私は面会室を辞した。そのようにして一回目の面会は終了した。


ただ二回目も三回目も結果は同じだった。ハルは会うことを了承はしてくれる。だが何も語ってはくれなかった。彼女の重い沈黙を前に私の心は少しずつ消耗しょうもうしていった。ハルは何もかもを拒絶しているのだ。話すことなどない、というわけだ。いっそのこと私は次の面会を申し込むための手続きをやめようと思った瞬間もないではなかった。それでも私は粘り強く幾度もハルに会った。処刑場では執行人の身分証を見せると特別な措置そちを図ってもらえた。ほとんど毎日私はそこへ足を運ぶことできた。時折ハルは不思議そうな顔をしたものだ。親族でもないのになぜ我々はこうも頻繁ひんぱんに面会ができるのだろう、と疑問を顔に表していた。


無論、ハルのやったことはゆるされることではない。彼女のなしたことはあまりにもむごかった。それは私にもよくわかっていた。でも恋人とそれ以外のものを天秤てんびんにかけたら、簡単に是非の結論が出てくるものではなかった。私の心の中は荒れ狂った。嵐が渦巻き、颶風ぐふうが心の家屋を吹き飛ばした。ハルが、死ぬ? そんなことがあって良いのだろうか。それもみじめに誰かの手によって殺されるのだ。斬首。それはおよそこの世で一番無残な死に方だ。誰かに首を斬り落とされるだなんて。


誰かに、首を。


私はそこで初めて罠に気がついた。この日本に女を相手取る処刑人は二人しかいない。私ともうひとりだ。つまり私が法務大臣から執行を命令される可能性もゼロではないのだ。


どうする。


私は処刑人の試験を合格した際に渡された連絡先のことを思い出した。もうひとりの女処刑人。自分の先達の連絡先を私は与えられたのだ。「どうしてもこの仕事で行きづまることがあったときにだけ、連絡を取るといいでしょう」私はそのように役人から告げられていた。


私は自室の棚の奥にしまっていた書類を引っ張り出すと、そこに記されていたメールアドレスにメールを出して、事情を説明した。翌日に相手から返信が来て、直接自宅まで来るようにと告げられた。


☨☨

 

その女の名はみなみ切鬼せっきといった。家は奈良県の片田舎にある。


四月のことだった。私は東京駅から新幹線に乗った。鋭いやいばを思い起こさせる形をした車両が駅のプラットフォームに滑り込んできて、扉を開けてこの身を招いた。内部では、金属でできた獣の臓腑ぞうふのようにあらゆるところに座席が立ち上がっており、狭かった。私は指定席の上で身を縮めて時を過ごした。


さまざまな風景が高速で窓の外をよぎっていった。でもそれは私に何の感慨かんがいも起こさなかった。あらゆる家屋、あらゆる畑が目の前を通過していく。日本という土地。そこに住んでいる人々。そこで働いている人々。結局はそういった無垢むくな人たちの集合がハルの命を取ることを求めているのだ。彼らと私の間にはだいぶ距離があった。この窓越しよりも遥かな距離が。


京都駅に着いた。ちょうど正午だった。私は朝起きてから何も食べていないことに気づいたので、改札を抜けてから駅ビルをうろつき、適当な店を探した。蕎麦そば屋があったのでそこで昼食をとったが、味はしなかった。多分今は何を食べても味はしないのだろうと思われた。


店を出て近鉄の改札を通過し、列車がやって来るのを待った。急行に乗り、座席に座った。しばらくして列車は出発したが、その速度は古い時代の死刑囚を移送する馬車のようにゆるやかなものだった。目的地に着いて閉じ込められてしまう前に、憐れな囚人が束の間の自由を味わえるよう、わざとゆっくりと走っているのだ。


私はちょうど一時間で目的の駅に着いた。プラットフォームに降りる。改札を出て、駅に隣接した土産屋の店内を覗いてみたが、客はひとりもいなかった。そこには隅に肉屋と餃子ぎょうざ屋があって出来合いのメンチカツや餃子を売っていたが、そんな小さな餃子屋にも店員は複数人いた。


駅前のロータリーにも人影はなかった。がらんとしている。バス停の時刻表を見たが、次にバスが来るのはずいぶん先だった。タクシーも見つからない。なんだか世界の果てまでやって来たような気分だな、と私は思った。私はスマートフォンの地図を見ながら歩くことに決めた。かなりの距離があるが一時間も歩けば目的地に着くだろう。


私は駅前の大通りを進んだ。途中で郵便局と地方銀行を見かけたが、いずれの建物も看板は古臭く、色褪いろあせていた。十字路を左に曲がって、国道沿いを歩いた。ここまで来ると様子は違って、車はたくさん通っていた。排気ガスや騒音とともに私はどこまでも歩き続けた。途中から両脇に何もない土地が広く横たわった。無と空間だけが豊かな場所。


私はハンバーガーショップやコンビニエンスストア、天理教の詰め所を通り過ぎ、高速道路と一般道路の接続箇所までやってきた。交通量の多いそこを苦労して越すと、ようやく目的地まで近づいてきた。右折し、傾斜した坂を登っていく。急に緑が増えた。近くには失われた昔の時代をいたむように神社と古墳が存在していた。さらに歩く。


スマートフォンの地図アプリが、あらかじめ登録しておいた一軒家の前まで来たことを私に知らせた。よく見ると「南」と表札が出ている。ここだ。私はインターフォンを押して反応を待った。


「入りなさい」


玄関を開けて家の中に入った。狭い一本の廊下があった。入ってすぐの左手の部屋から扉越しに「来なさい」と声がしたので、私はそこを開けて内部へと足を踏み入れた。


そこにはせた体躯たいくの、四十代後半と思われる歳をした、厳しい目つきの女性がいた。部屋には向かい合った二つの椅子以外には何も置かれていなかった。がらんどうの部屋。この女性こそがおそらくはもうひとりの女処刑人、南切鬼だろう。


私は名乗った。


「尾形と申します」


南切鬼は口を閉ざしたままあごでもうひとつの椅子を指し示した。座れ、ということだろう。私はそこに腰を据えると、まっすぐに南切鬼に相対した。その女の顔には歴史のある年輪とも言うべきしわが刻まれていた。髪はすでに一部が白い。そして深みのある眼をしていた。それはまるで深く冷たい湖のようだった。とても豊かな水をたたえているが、んでいるために底まで見通すことが可能な、森の奥にある湖だ。


私はその眼に見据えられて、ぎくりとした。南切鬼はすでにこちらの心の混乱や絶望を何もかも知っているように思われた。この事件が起こる前から彼女はすべてを予見し、透徹とうてつしていたのではないかと思われるほど、その眼は賢者のそれを想起させた。


「語りなさい」


南切鬼はそれだけ言うと腕を組み、目を閉じた。事情をすべて説明しろ、ということだろう。私はハルについて知っていることを何もかも話した。初めての出会いや逢瀬、そしてハルが殺人を犯したことまで詳細を話した。私とハルは互いに深く愛しあっていること。だから私は彼女の処刑に立ち会いたくないこと。それを強く訴えた。


南切鬼は目を開き、言った。


「つまり、もし自分が斬首を依頼されたら、私に代わってくれとお前は言いたいのかね」


私はうなずいた。ハルの死は避けられないとしても、せめてそれぐらいは許されていいはずだ。


しかし先達の返事は無情だった。


「それはまかりならん」


私は予想外の返事に焦って言った。


「どうしてですか。こういうときのために、助け合うために我々はいるのではないのですか?」


南切鬼は首を横に振った。


「それは違う。我々はあくまでもスペアの関係に過ぎないのだ。一人が死んだときのために備えてもう一人がいる。それだけの関係性なのだ。我々は本質的には一個の存在。一個の斧に過ぎん」


「スペア?」私は驚いて声を上げた。


「私たちがただの物だって言うんですか?」


南切鬼は答えた。


「そうだ。我々はある意味においては人間ではない。我々は共同体に排斥はいせきされた存在だ。そして、そのような形でこそることを求められている」


「わかりません。大体、なぜ共同体は自分から排斥したものを再び求めるのですか? わけがわからない」


「では聞くが、お前は自分がこの社会の一員だと日々感じながら過ごしているのかね」


そう問われると、答えはいなだった。私は本質的な意味においてはいかなる共同体にも属していなかった。生まれ育った家庭。学校。インターネット上のコミュニティ。処刑を遂行する組織。多くの人々が働く社会。日本という国。どんな場所においても私は異邦人なのだ。今までの生涯で、何につけても帰属感というものを抱けたためしがない。


私は不承不承答えた。


「違います」


南切鬼は続けた。


「私も同じだ。私もお前もいかなるところにも属せない。そしてそのような人間をこそ、正しい共同体は必要とするのだ。けがれを引き受けさせる存在として」


「でもそれとこれが、どう関係します? 私はただ、あなたがハルのことに責任を持ってくれればそれでいいんだ」


南切鬼は断固として拒絶した。


「その仕事はお前がやりたまえ。いいかね、仕事はそれで終わりじゃないんだ。これからも任務は続いていく。何十年もだ。お前は〝引き受ける〟存在として生涯を貫く。役割というやつだよ。私やお前に限らず、誰もがこの世界の中では何らかの役割につかざるを得ない。自分自身を演じざるを得ないのだ。本当の自分などどこにもいない」


女処刑人はおごそかに最後の言葉を告げた。


「帰りたまえ。そして義務をやり通すのだ」


☨☨

 

ハルの担当処刑人が決定した。指名されたのはこの私、尾形阿羅多だった。


呪われている。なぜ私なんだ?


私は何らかの方法で自分の仕事をこばむことを考えないでもなかった。執行のその瞬間に斧を打ち捨てて、逃げ出すのはどうだろう。でもそうしたところで物事が解決するとも思えなかった。私は公務を放棄した罪を問われ、拘留こうりゅうされることだろう。そしてハルは南切鬼によって殺される。なんにせよ最終的な結果に変わりはない。


この二ヵ月間、私はハルと面会を続けていたが、進捗しんちょくはなかった。ハルは石のように身を固くし、口を閉ざした。でも彼女だっていつまでもそうしているわけにはいかないはずだ。これから四ヵ月以内にハルは死ぬのだ。その不安と恐怖に耐えられるとも思えない。


私は仙台市のホテルに宿泊して、その場所から連日ハルとの面会に通っていた。南切鬼との対話から一週間後に、我々はアクリル板の仕切りがない面会室へと通された。それは大層不思議なことだった。決まりの外にある措置そちだ。案内した刑務官に理由をたずねたが答えは返ってこなかった。あるいは南切鬼がそのような特別な措置を図ってくれたのかもしれない。


私は刑務官の監視の下にハルと相対した。


ハルの様子はいまや大きく変わっていた。その顔には血の気がなかった。表情もなく、すでに冥界へと案内されて、自分の行く末を確かめた人のように思われた。


私はハルを強く抱きしめた。


「ごめんなさい、ハル。あなたを守ることができなくてごめんなさい。私が代わりに死ねたらいいのだけど」


ハルは最初されるがままになっていた。でもやがて静かに泣き出した。次第に声が生まれ、彼女の嗚咽おえつは大きなものとなって部屋に満ちた。親を失くした幼い子供が泣いて、母を呼ばわる声のように、それは悲痛なものとして私の耳朶じだを打った。


ひとしきり泣くと彼女は落ち着いた。でも我々は何を話せばいいのかわからなかった。終わりはすぐ前に迫っている。ただ、それを直視できないのだ。いや、したところで抵抗のしようもない。話すことなど何もないのだ。


「ねえ、ハル。私も一緒に死のうかな? もし執行の前に私が死んだら、あなたも死ぬのが怖くなくなるかもしれないし」


その提案はハルにとって救いとして機能したらしい。彼女は小さな驚きの表情をつくり、しばしのためらいのあとに、かすかに首を縦に振った。


「じゃあ私も死ぬよ。それでさ、そのしらせがここに届くように取り計らう。だから私たち、次の世で一緒になれるね」


我々はキスを交わした。そのまま時間が来るまで部屋の隅で抱き合い、身動きひとつしなかった。久々に感じる人のぬくもりと肉体の柔らかさが私を救ってくれた。自分も同じようにハルになぐさめを与えられていたらいいのだがと、願わずにはいられなかった。


それから毎日ホテルから処刑場へ通った。抱き合い、キスをして、私はハルに慰めの言葉を与えた。会話らしい会話などはなかった。彼女が涙を流し、私が抱きしめる。泣きやんだらキスをし、また泣き始めたら抱きしめる。あるのはそのくりかえしだけだった。


「明日はここに来れない。その代わり、私が死んだらすぐにここへ連絡が来るようにするよ。そのための準備に時間を使うから」


しかし今度はハルに拒まれた。「いいのよ、アラタ。あなたは死ぬ必要がない。あなたが死んだら私はもっと悲しくなるから、やめてほしい」


「でも、あなたが死んだあとの人生は無味乾燥なものだよ。私に生きる意味なんてない」


ハルはそこでうつむき、しばらく考えてから言った。


「また新しい恋人を見つければいいじゃない。私より素敵な女の人を」


「そんな人はいない」


「いるのよ。きっと。あなたが必要とし、また必要とされる人が、どこかに」


「なんでそんなことを言うのさ。私のことが嫌いになっちゃったの?」


「違うわ」彼女は怒っていた。聞き分けのない子供を叱るように、ハルは私の眼を見据えて言った。


「ともかく、死んではいけないわ。もしあなたの死の報せが届いたら私は打ちのめされる。絶対によしてちょうだい」


その拒否は私の胸を突き刺した。重い沈黙が我々の間に横たわった。


「ところで、どうしてあなたはこうも頻繁に私と面会できるのかしら。すでに規定の面接回数を越えているように思うのだけれど」


ハルの問いは私を動揺させた。私はたぶん表情をなくしてしまったのだろう。ハルはまじまじと私の顔を見つめて、首を傾げた。その後は時間いっぱいまで抱きしめ合って過ごした。


我々はさまざまな話をした。私もハルもできる限り今の状況を忘れるようにした。もしもここから出ていくことができたらどこへいきたいか。どんな場所を旅したいかを熱心に語り合った。イタリアへいって地中海を見たい。フランスもいいだろう。ノートルダム大聖堂を一度は見たいものだ。そうした空想を語り合った。


あるいは〝両腕のない女〟についても話をした。


〝両腕のない女〟は架空の人物ではあったが、たまには落ち込むことがある。女は十四歳のとき、抵抗しようとする体を親族に取り押さえられ、父親から両腕を切り落とされた。そこには何日間にも渡る致命的なまでに激しい痛みと、発熱があった。女は大量の出血にもかかわらず幸運なことに一命をとりとめ、これからの生活について村の長老から教えを受けて、森の奥にある家屋へと放逐ほうちくされた。


女はある晩に寝床でそのような古い記憶を思い起こしていた。悲しい記憶。文字通りの意味において決してえることのない傷だ。


女はそういうときは家から出て星空を眺める。幼いころに祖母から教わった星座を探し、見つけた星の図形に心を託す。女は自分も空に浮かび上がり、星の連なりの一員になったような気持ちになる。身が透明になり、自分というものが消えていく思いがする。すると、不思議と心が休まるのだ。


我々はそういうおとぎ話をつくって共有した。


それにしても、疑問のとげは確実にハルの中枢ちゅうすうに突き刺さったようだった。彼女は時折体を離しては、疑問を投げかけるような視線を私に向けるようになった。確かにヒントはすでに与えられていた。すなわち私の給料はいい。いつも暇である。人からまれる業種。そして死刑囚と無制限に会える。


ある日のことだ。ハルは自分の中で答えに達したのだろう。今までで一番真剣な顔をして、ほとんど私をにらむようにして問うてきた。


「アラタ。あなたの仕事は何?」


私は答えられずにただ「ごめんなさい」とだけくりかえした。でもそれはハルの確信をますます深める材料にしかならなかった。彼女の顔に貼りついた絶望が深まり、眉間の皺をつくりあげた。


ハルは私の頬を打って言った。


「答えられないの? 卑怯者」


私はついに観念して打ち明けた。「私はね、あなたを殺す役割についているんだ。あなたの刑を執行するのは私だよ。今までに私は九人の女をほふってきたんだ」


辺りはしんとした。すべての音は退場し、空気の分子運動は停止した。冷たい無だけが横たわり、事物を覆っていた。そこには壁もなければ扉もない。明かりもなければ闇さえない。私もハルも、本当にはそこにいないのだ。無だけの空間で、なにもない。


ハルはやがてぽつりと呟いて拒否の意を示した。


「出ていってちょうだい」


☨☨

 

ハルの執行日が決まった。ちょうど今から一ヵ月後だった。


私はやはり毎日処刑場まで通って面会の申請を出したが、ハルから拒まれて会えなかった。最初の一週間は仕方がないものと受け入れていたが、次の一週間も会えずにいることに私は耐えられなかった。私は祈った。もう時間がないんだよ、ハル。怒っているのはわかるよ。今まで隠していてごめん。でも、どうか赦してほしい。このままお別れなんて嫌だ。


執行日の五日前に私は面会を許可された。


ハルと会った。彼女はひどく痩せていたが、同時に驚くほど落ち着いた顔をしていた。死を前にした人間とは思われない。ハルは私が刑に当たることをすでに納得していると言った。考えてみれば他の人に手をかけられるよりはずっといいとのことだった。


ハルは処刑場から与えられた分厚い服のカタログを出してきて私に言った。この中から自分が当日に着るものを選んでほしい。


「私が選んでいいの?」


ハルはうなずいた。「何でもいいのよ。あなたが好きなものを選んでちょうだい。それを着ている私を想像しながら選んでね」


私はカタログをめくりながら考えた。ハルはいつも冷静だった。地味な服を着て、必要以上に目立たないようにしていた。顔の造作は明確に美人と言えたが、化粧は薄く、そして笑うことは少なかった。だから多分、ハルの美しさがわかる人は世間にそう多くはなかったはずだ。なぜなら人は顔というものを単なる静的な形として認めているのではなく、動きをともなう表情としてとらえ、美醜びしゅうの判断をするものだからだ。


それと服。ハルはいつも着飾ることの核心であるそれをあえて簡素なものにしていた。私から服を贈られるのも拒んでいた。だが彼女はここに来て、とうとうその態度を変えたようだった。死を前に、着飾ることを受け入れるということ。私はその意味を考慮しながら、慎重に彼女の服を選ぶことにした。


迷った末に、私は水色の可愛らしいワンピースを選ぶことに決めた。いつもハルが着ていたものよりは華やかだ。しかし豪華に過ぎるということもない。これを着たハルの横に並び、デートをしたいものだと私は思った。


「これにするの? とても可愛いわね。ありがとう」


ハルは素敵な笑顔を見せた。私はそれに耐えきれなくて泣き出した。どうして今まで会ってくれなかったの? もうすぐなんだよ。我々は終わりの目の前まで来てしまっているんだよ。


ハルは私を抱き寄せて頭をなでた。「もちろん私だってあなたに会いたかったわよ。でも、ためらいを覚えたの。おぼれるように愛し合えば愛し合うほど、きっとあなたがあとで受ける傷は深くなってしまう。あなたが立ち直れなくなったらどうしよう、って思ったの」


その発言を私は理解できなかった。私は部屋の隅の壁にもたれて座りながら、ハルを抱きしめた。何度もキスをし、愛の言葉を熱心にささやいた。


面会の終わりにハルは手紙を渡してきた。


「私が死んだらこれを読んでね」


私は何も言わずに受け取った。


「そして、会うのはこれでもうおしまい。あとは当日に顔を合わせましょう。執行する者とされる者として」


私はその拒否に深く傷ついた。これは本当は明かしてはならないのだけれど、実は執行日はもう近づいているんだよ。でも逆に言えば、まだもう少しだけ日があるということじゃないか。どうして会ってくれないんだ。私はハルにそう強く訴えた。


しかしあくまでもハルは穏やかに私を拒んだ。


「私は心を安らかにして旅立ちたいの。許してちょうだい」


☨☨

 

当日になった。ホテルを出て処刑場へおもむく。タクシーを呼んでもよかったが、やはり私は歩くことに決めた。三十分ほど歩いたところで門前までたどり着いた私は、建物を見上げた。殺意を湛えたいかめしい構えの塀が高くそびえ立っていた。それは剣呑けんのんな鉄条網を掲げて、内部に捕らえた者を決して逃さないことを宣言していた。独房。処刑器具。斧。仮面をつけた数々の刑務官たち。それらの殺人機構の中心を成す要素として私は内部へ入っていった。最後の歯車、斬首人として。


裏口の門衛に身分証を見せたあと、私は控室ひかえしつに連れていかれ、いつも使っているものと同じ斧と仮面を与えられた。私は服を着替えたあと隣接した広い部屋に移り、何度か斧の素振りをした。今までに経験したことのない緊張感と危険な気配が私の耳の後ろににじり寄ってきた。五六回斧を振っただけでわきの下に汗をかく。これも初めてのことだ。冷たい滴が肌をつたった。体が熱いのか冷えているのかわからない。


足音が遠くから聞こえてきた。一般から募集された、三十人ほどの見物人たちが処刑の間に入場したのだろう。彼らは用意された安いパイプ椅子に座り、その時が来るのを待ち受ける。この国に唯一用意された野蛮な風習。一種のショーだ。


囚人が連行されて来るのはそのあとになる。処刑室は分厚いガラスで二つに区切られており、手前の見物人が座るスペースと、奥の処刑が実施されるスペースとに分けられていた。そこへハルが連れてこられる予定だった。もちろん彼女の両脇はしっかりと屈強な警備隊員が固めていることだろう。ハルはすでに囚人の控室で水色のワンピースを着て、化粧を施しているはずだ。


控室の扉がノックされた。私は仮面を身につけると静かに扉を開けて廊下へ出た。もちろん斧も携えている。無愛想な薄暗い廊下がまっすぐに目的地へと続き、私を招いていた。この廊下もやはり何十年もの間、こうやって覚悟を決めた処刑人の歩みを支えてきたのだろう。しかしその歴史の中で自分の恋人をあやめた者が、果たしてひとりでもいただろうか。


処刑室に繋がる扉の前に立った。脇に立った刑務官が扉を開けてくれた。まず見えたのは、ガラスの仕切りの向こうにいる見物人たちだった。彼らはここへ案内される際にカメラやその他の機械をすべて取り上げられる。だから無遠慮な光が私の仕事の邪魔をすることはない。また、彼らは経歴や素行を役所に調査され、問題ないと判断された者だけが選定されていたから、大声を上げることもない。最初から最後まで静粛せいしゅくにしてくれる。それはひとつの救いではあった。


次に見えたのは囚人の体を固定する金属製の器具だった。その横にハルが立っている。私の選んだ服を着たハルが。ここからは背中しか見えなかったが、彼女は両脇に立った警備隊員たちによってくびきに繋がれる前に、束の間私と相対した。水色のワンピースを着ている。くちびるはべにを引き、睫毛まつげはいつもより輝いて見える。ハルと私の視線が交錯した。私の全存在がまなざしになった。目の前の絵が放つ光を必死になって私の目玉は吸収し、記憶の大切な倉へと運び込んだ。


しかしその映像もすぐに溶けて消える。ハルは頭を見物人たちの方へ垂れる形で器具に体を繋がれた。それで今の私の位置からは脚と背中しか見えなくなった。そのためだけに待機していた刑務官が彼女の頭にとりつき、髪を切った。


部屋の内部へと私は歩を進めた。歩くにつれて視界の中の映像は移り変わり、ハルの履いた靴の裏と、裸の足首と、水色のワンピースの可愛らしいスカートが見えた。回り込むように横へと進む。するとまた映像は変化を遂げ、器具に苦しそうに固定された両腕と胴体が目に映った。さらに進み、ハルの頭部があらわれる。空気が重かった。私は水の中に全身を沈め、泳ぐ人のようにゆっくりと手足を動かして処刑室の中を歩いていった。あなたの言った通りだよ、ハル。確かに人間は脚だけでバランスが取れるものではない。歩くときにさえ腕が必要だ。とりわけこれだけ重く、長い柄の斧を手にしている時には。


そしてついに私はハルの頭の脇にたどり着いた。彼女の長い髪は無残に切られ、真っ白で綺麗なうなじが見えた。刃が滑らないための措置だ。私は思った。この息をすることさえ困難な部屋に足を踏み入れてから、私は今までに何人の彼女を見てきたろう。正面に立つハル。倒れて横向きになったハル。真っ白な首のハル。変わりゆく映像たち。でもまだ、彼女の変化は残されているのだ。


私は両足を前後に開くと斧を高く掲げた。ぴたりと空中で刃を停止する。私はいつも以上に長く間を取った。私は上手くやれるだろうか。あるいはみじめに失敗するのではないか。そうした逡巡しゅんじゅんがなかったと言えば嘘になる。でも今までに九人を屠ってきた処刑人の経験が私を支援した。何度目かの呼吸をした、その瞬間に周囲の空気の色が変わるのが感じられた。皆が私を見つめている。完全な静謐せいひつがおとずれ、柄を握りしめる手に必要なだけの力が入る。私は刃をかすかに振って、反動をつけてから斧をまっすぐに下ろした。勢いよく振り下ろされた重い鋼鉄の刃の真ん中の一点が確かに白い首の中央に当たり、肉の抵抗を押し返したが、それもすぐに柔らかく切り裂かれ、硬い頚椎けいついにいき当たったものの、もはやその勢いは止められるものではなかった。確かな手応えとともにハルの首はすっぱりと切断された。それは床に落ち、残った胴体はすさまじく血を噴射した。すなわち床に惨たらしく転がった女の首。それが十人目のハルの映像だった。


私はその首の表情を見ないようにそっと目をそむけながら拾うと、見物人たちの前に掲げた。両手が生臭い血にまみれる。しばらくそうやって立ち尽くしたあと、私は控えていた警備隊員に首を手渡し、処刑室から出ていった。私は自分を平静に保つことに全力を傾けながら、控室へと戻った。仕事は終わった。


後日に簡素な葬式が営まれた。私も参列することができた。私はそこで初めてハルの親族を見かけたが、母親がひとり、喪主としてあらわれた。他には四人の親族らしき人々がいた。我々は始めに挨拶あいさつを交わしたのみで、それ以上口を利くこともなかった。私は葬式のあいだ母親の様子を観察していたが、彼女は衝撃のあまり口も利けないというよりは、単に娘に対して怒っているように見えた。たぶん二人は仲が良くなかったのだろう。他の者たちも思わぬ形で迷惑をかけられて、うんざりしてるように見えた。それでも葬式に参列しただけ、彼らは親切な人達なのかもしれない。


でも、別にどうでもいい。


私は遺骨が墓石の下に収められたのを確認してから母親と挨拶をして、その場を離れた。


葬式から自宅に戻ってきた日の夜に、私は初めてハルから渡された手紙を開いた。そこにはこう書いてあった。


「アラタへ。このような形になってしまって本当にごめんなさい。まず最初に言っておきたいのは、私の犯した罪はとてもつぐないきれるものではない、ということです。私は極悪人です。やってはいけないことをやりました。今ではそのことを後悔しております。それは死によってのみあがなわれるたぐいの罪なのであって、今や私は誰にも反論や自己弁護をするつもりがありません。私は黙ってむごたらしく死にます。それが自分に合った処遇だと心から思っております。そういうわけですから、あなたは自分のしたことで傷つかないでください。あなたはこの社会の総意を実現しただけの話です。それは公正な仕事です。これからもきっちり犯罪者を裁きつづけてください。何ひとつ後ろめたいことはないのです。あなたを愛しております。あなたの次の恋が素敵なものでありますように。三上春子」


☨☨


一年あまりが経過した。


私は最初の半年間でずいぶん衰弱してしまった。自室のベッドに横たわり、身を折り曲げて、時間が経過することに耐えた。恋人が死に、にもかかわらず自分だけが生き延びているという事実に耐えた。ある時間帯においては自分は無であり、心は透明で、いかなる感情もやって来なかった。そこでは私はただ麻痺しているだけで無傷でいられた。


しかし別の時間帯においては違った。やって来るのはハルが失われてしまったという悲しみの奔流ほんりゅうであり、その悲哀は刃となって私の心を突き刺した。心には服もなければ鎧もなく、剥き出しの裸だった。だから刃に切られれば血を流した。私は流れた血を抱きしめるためにベッドの上で必死に身を丸めた。血は生ぬるい温度をしており、どろりと粘つき、独特の臭みがあった。嫌だ、と私は思った。ハル、なぜあなたは消えてしまうんだ、と私は胸中で叫んだ。実際に叫ぼうとして喉がひどく渇いている事実に気づき、苦労してベッドから身を起こして台所までいき、水道水を飲んだ。飲み終えたあとは私はまたベッドに戻って倒れ込んだ。


自分で殺したんじゃないか、と誰かが耳元でささやいた。その通りだった。私は自分を守ろうとして弁護人を呼び寄せた。顔のない、影だけの男である弁護人は直立して法律を述べた。被告は決まりにしたがって斧を振るっただけで、無罪であります。それは例外的な殺人として法律上も許可されております。それはまさに正義の鉄槌てっついであります。


違う。


私は役立たずの弁護人を足蹴にして追放すると、涙を流した。熱い涙は次から次へと目からあふれ出してきて、止まらなかった。私は懸命に体を折り曲げて自分で自分を守ろうとした。しかし、何から? 私は何からこの身を守ろうとしているのだ? 私は自分を害するものの正体を見極めようとして、闇に向かって目を凝らした。


それは、私だった。自分がこの身を背後から攻撃していた。私は深い諦観ていかんとともにそっと目を閉じて、ただ打たれるままに任せた。苦悶くもんは果てしなく続いた。


ハルは消えた。ハルは失われてしまった。もう二度とふれられない。そして、それをやったのは自分なのだ。斧を振りかぶり、分厚い刃を首筋に叩きつけて命を奪った。


私がハルを殺した。


またしても限りない苦悩が私を襲った。悲しみ、喪失そうしつの念。別に名前は何だってかまわない。ありとあらゆる否定的感情が一ヶ所に集結してこの身を強く打った。死の雨が広い土地に降りかかり、それを全長何キロメートルにも渡る巨大な装置が受けて集めている。それが私という人間の上にだけ落とされているのだ。死の雨は結集すればするほど重たくなり、毒性を帯びて、この身に刺すような痛みをもたらした。鼓動が激しくなり、私はぎゅっと拳を強く握った。辛い。何という残酷な刑だろう、これは。


私は半年に渡ってベッドの上で煩悶はんもんを続けた。それは時折トイレや食事のためだけに起き上がる以外にはずっとベッドの上で身を折り曲げるだけの生活だった。果てしのない痛苦のくりかえしに私は自分の身をさらした。なぜ自分が死ななかったのか、本当に不思議なぐらいだった。


暗黒の半年間を抜けると私は外を歩けるようになってきた。私はふらふらと近所をさまよい、なんとなしに喫茶店に入ると、カウンターに座って、向こう側で男の店員がコーヒーをれる手順を眺めた。


店員は慣れた手つきでフィルターを濾過機ろかきにかぶせて固定した。彼は濾過器を漏斗ろうとにつけると、漏斗の底の中央に濾過器が来ているかどうかを竹べらでつついて確かめた。彼は温める目的で一度フラスコに熱湯を注ぐと、しばらく待ってからフラスコの湯をカップにも移した。店員は再度フラスコに十分な量の熱湯を注ぐとビームヒーターにセットした。そのかたわらでコーヒーの粉を漏斗に入れ、漏斗をフラスコに差し込む。彼は竹べらを使ってコーヒーの粉を湿らせると、漏斗の湯を攪拌かくはんした。


時間が経過した。店員は律義にストップウォッチで時間を確認してからビームヒーターの火を止め、湯がすべて漏斗からフラスコに移動するのを待った。漏斗を取り外し、カップの湯を捨てる。


彼はそのフラスコを私のところまで持ってきて、まずカップをテーブルの上に差し出した。次にフラスコよりカップへとコーヒーを注いだ。どうぞお楽しみください。明瞭な声で店員はそう言ってから立ち去っていった。


私はその一連の動作を見て思った。人は生きているな、と。その店員だけではない。他の席にも客という人間がいて、息をし、何かしらの食べ物や飲み物を摂取していた。私もそうだ。私もその内の一人で、生きるために物を食べ、コーヒーを飲んでいた。他人事ひとごとじゃない。命は他人事じゃない。


私は泣きじゃくりながらコーヒーを飲んだ。私のそばを通ろうとした新たな客がぎょっとした顔で私を見ていた。久しぶりに飲むコーヒーはうまかった。


私はこのままではいけないな、と思った。


私は喫茶店を出て、買い物をしてからマンションに戻ると、紙とシャープペンを取り出して机に向かった。手紙を書こうと思った。ハルに向けて長い手紙を書くのだ。


私はその日から半年をかけて文面をつくった。文面は最初は混乱していた。何を言いたいのかわからない、ありのままの自分の感情だけをぶつけた、幼い子供のような手紙だった。私はそれをくりかえし消しては書き、徐々に自分の言いたいことをひとつに収束させていった。ととのえることが肝心だ、と私は思っていた。みっともないところをハルには見せられない。なぜなら私はもう十分なほど苦しんだからだ。そしてこれからもこの荷を背負っていく。ならば、せめて一度はハルに対してしっかりとした自分を見せたい。自分は大丈夫だと言いたい。


手紙を書いている途中で私はハルとの思い出を幾度も反芻はんすうしていたが、どうしてか単なるおとぎ話でしかない〝両腕のない女〟が頭に浮かんでくるのだった。それが私の中で消化しきれず、課題として残っているような感じがあった。といっても重荷としてではなく、胸の中にできた空洞くうどうにぽっかりと浮かんでいる小さな精霊として、それは存在していた。ぼんやりとした光をまとった、寡黙かもくな、癒えることのない傷を負った、でも実はたくましい人物として、それは存在していた。〝両腕のない女〟はいつの間にか私の中に住んでいた。私はそれも手紙に書くことにした。すると自分の言いたいことがきちんとひとつにまとまっていく感覚がしたのだ。


長い手紙が完成した。私は机の前で深く息を吐いた。


☨☨

 

私は一年ぶりにハルの墓前にやって来た。


季節は夏で、野では多くの花々が烈日にしぼんでいた。町では熱い危険な陽光が人々の体を照りつけ、彼らを執拗にさいなんでいた。私は墓地までの道中でたっぷりと汗をかいた。


私は何ひとつ日をさえぎるところのない場所に立ち尽くし、恋人の墓標を眺めやった。持ってきた花束を挿して、線香に火をつけて供えた。墓地には私以外に人影は見当たらなかった。


私は手紙を取り出すと、墓石に向かってそれを読み上げた。


「ハル。あなたにこれだけは伝えておかないといけないと思って私はここへやって来たよ。戻ってくるまでにずいぶん時間がかかってしまった。ごめんね。でも仕方のないことだったんだよ。私は本当に落ち込んで、自室から外に出るだけでも大変だったんだ。鏡を見たら頬もこけていた。どうも私は大分痩せてしまったようだ。


でもきちんと半年をかけて回復を図った。だから最近は調子がいい。ようやくあなたのいる場所に戻ってくる決心がついた。それでさ、私から伝えたいのはこういうことなんだよ」


私は目を閉じ、深く呼吸をすると、また目を開いた。


尾形おがた阿羅多あらた三上みかみ春子はるこのことが好きだ。大好きだ。私はあなたから色んなものを受け取ったし、これからもそれを大事にしていく。いかなる時でもあなたを胸の奥に大切にしまっておいて、折にふれて思い出す。そのことを約束するよ」


私は持ってきたペットボトルの水を飲んで一息ついた。


手紙の次のページを取り出した。ここから先は自分なりに今回の事件をふりかえって導き出した結論について述べていた。


朗読する。


「あなたは、人は何かを産み出せばそれに責任を持たなければならない、と言ったよね。それについて私は自分なりに整理してみたんだ。あなたは多分こう言いたかったんじゃないかな。人は傷つけられたり、大切なものを取り上げられたりすると、悲しみという負の感情をつくり出してしまう。そこから逃げることはどうしてもできない。感情に対して何らかの処遇を決定し、対応を取らないわけにはいかない。たとえば、ずっと背負うという道がある。耐え続け、やがては背負った荷物に自身が押しつぶされてしまう生活。我々は時にそういう、おしひしがれた人を通りで見かけることもある。


あるいは悲しみを怒りに育て、決然と立ち上がり、報復するという道もある。これはあなたがやったことだね。でもこれだって場合によっては本人は破滅する。感情はときにコントロールを失い、自分自身を勝手にあやつってとんでもない場所へと導いてしまう。あまり好ましい道じゃない。


きっと我々には第三の道が必要だ。背負い続けながらもそれに押し潰されず、闘い続けながらも人を傷つけることのない第三の道が。私はそれを探してみるよ。私だって結局は〝排斥された者〟だからね。このことは話していなかったけれど」


私はそこで自分の育ちについて説明した。家庭のこと。いつも仮面をつけていた父親と、裸で相対することを求めてきた母親。誰にも抱きしめてもらえず、穢れた者として扱われていた少女時代。私は一種の神であり、また犠牲であった。


「〝両腕のない女〟は有効なイメージだ。だから私がそれを引き継ぐよ、ハル。構わないよね? だってあなたはもう地上での仕事を全部終えたわけだし、私はまだここに残っている身分だからさ。私には何らかの武器が必要なんだ。この人生をやり抜いていくための武器が。たぶん彼女はそれになり得る存在だ。たとえ架空の人物だとしてもね」


牢獄の中でも我々は〝両腕のない女〟について熱心に話をしたものだ。私はどのようにして女が食べ物や酒を得ているかをハルにたずねた。でもハルはきちんと答えられなかった。巫女みこと呼ばれる、まだ結婚していない村の女子が女に食べ物や必要な物資を運ぶ役割を背負わされる。ハルはそう説明した。けれどもその巫女がどんな少女か、また〝両腕のない女〟とどんな会話を交わすのかといったことについては、ハルは確かな細部ディティールを与えることができなかった。ハルの言葉はいつもそこでぼやけてしまい、失われてしまった。


「あなたはおそらく、〝両腕のない女〟が村と結びついていくところを上手く想像できなかったんじゃないかな。あなたにとって〝両腕のない女〟はまったくの異邦人でなければならなかったから。


でもそれだけではないと私は考えている。女は完全に疎外されているわけじゃないはずだ。だって〝両腕のない女〟は排斥された者として村から求められていると、あなたはそう言っていたじゃないか。つまり彼女には何らかの仕事があるはずなんだ。私が社会から斬首という任務を与えられているように。何らかの特殊な仕事が。


それはたとえば病気をはら祈祷きとうだったりするんじゃないかな。あるいは夢占い。あるいは罪を清める何かしらの役についている可能性もある。ともかくさ、私があなたに代わって、これからそれを考えていくつもりだよ。本からの受け売りじゃなくて、自分の頭で緻密ちみつに考えていくつもりだ。それも呪われた仕事じゃなくて、もっと前向きなものを。


いや、その前に陶芸かな。酒器について考えて、実際につくっていかなくちゃならない。思えば体の柔軟性も頼りない。色々とやらなきゃいけないことがある」


言いたいことはすべて言ったと思った。


私はため息をつき、手紙をたたんで懐にしまい込んだ。何かが自分の中でに落ちる気配がした。どうやら私はやるべきことをなしたようだ。少なくともハルに対して恥じることのない自分でいられたという、明瞭な心の動きが私の中で生まれた。


私はふたたびペットボトルの水を口に含んだ。


すると恐ろしいほどに強い日差しが顔に降りかかり、一瞬眩暈めまいがした。空を見上げると、入道雲が白亜でできた巨大な塔のように聳え立っている。その威容に背中がぞくりとした。背後にできた影が伸びていき、立ち上がって自分を呑み込むのではないかという幻想がこの頭をよぎった。


お前は結局人殺しだぞ、と父親が呼びかけてくる思いがした。その幻聴は鳴り止むことなく、別のイメージに繋がっていった。幼いころ私が初めて義務を放り出し、勉強をなまけたときのことだ。母は、泣いた。彼女の心からの悲しみと涙が私を強く縛った。そして私は以降は謹直に修練にはげむようになった。何ものにも目を奪われず、一心に修羅の道を進んだ。


自分はそこから逃れられないとも思う。事実、この仕事を放り出す未来など考えられない。きっと私は引退まで斧をふるうことになるだろう。胸の軸に築かれた天秤てんびん、その一方の皿には個人の希望があり、愛がある。そしてもう一方の皿には斧が置かれ、断罪の義務と使命がある。すなわちこの国すべての人からの要求がある。


私を中心として二つの力がせめぎ合っている。


私は頭を振った。周囲を見渡し救いをさがす。だが、ハルはもうどこにもいない。彼女は灰になって消えてしまった。私に残っているのはこの身ひとつだけだ。


そして、その体に宿っている心。


秋になったら、植物園に秋薔薇あきばらを見にいこう、と私は思う。最後に頼れるのは自然だけだ。なぜ植物はどれほど華美に装っても派手に見えないのだろう。実直で素朴で、ただ美しい。一方で人の身には、咲くことはむずかしい。我々にできることは正しく老いていくことだけだ。


私はそっと墓地を離れた。線香はまだ黙って煙を吐き出しつづけていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る