第21話 熱と鼓動
翌朝、店を開ける準備をしていたカイルの背後で、酒瓶を拭いていたヴィンセントの手が止まった。
「……止まれ」
地響きのような低い声。
カイルが足を止めると、ヴィンセントは手元の布を放り出し、無骨な手でカイルの右足を掴んだ。
「座れ。軸がわずかに外側に流れている」
ヴィンセントはカイルの返事も待たず、床に膝をついた。
エプロンのポケットから、使い込まれた細い工具を取り出す。
「……そんなことまで分かるのか」
カイルが眉を寄せると、ヴィンセントは顔を上げずに鼻を鳴らした。
「歩き方を見れば十分だ。一ミリの狂いが、数年後のガタになる」
ヴィンセントの指先が、義足の関節部分に触れる。
その瞬間、カイルは背筋が凍るような感覚を覚えた。
ヴィンセントの指が動くたび、まるでカイルは、神経そのものをなぞられているかのような感覚にぞぞけがたつ。
工具を差し込み、ネジを回す僅かな手応えさえも、カイルの脳にジンジンと響いた。
それにしても。
ただの酒屋が、これほど精密な調整を、手感覚だけで行えるはずがない。
「……あんた、何者だ」
問いかけに、ヴィンセントは答えなかった。
カチリ、と硬質な音が響き、調整が終わる。
「立て。……試せ」
カイルが立ち上がり、一歩踏み出す。
先ほどまであった僅かな重みが消え、指摘されるまで気づかなかった微小な違和感は綺麗さっぱり消えていた。
まるで本当に、自分の足であるかのように。
「……完璧だ」
カイルが短く漏らすと、ヴィンセントは立ち上がり、また黙々と酒瓶を拭き始めた。
「完璧な道具などない。使う奴が道具に合わせるんだ」
その背中を見つめながら、カイルは自身の右足を見下ろした。
ミラと、そしてこの、得体の知れない技術を持った男。
自分はこの街で、単なる平穏の中ではなく、「何か」の中に身を置いている。
戦場で研ぎ澄まされ、鋭く磨かれた勘がそう言っている。
「カイル、顔色が悪いわよ。大丈夫?」
不安そうに寄ってきたミラの肩に、カイルは無言で手を置いた。
「なんでもない」
不器用な手の重みに、ミラが、そう?と短く返す。
オイルランプの匂いが漂う店内で、カイルは自分の身体の一部へ対する疑念を、心の奥底へと押し込んだ。
その日の閉店後、ヴィンセントはカイルを裏の作業場へ呼び出した。
ランプの火が爆ぜる音だけが響く中、ヴィンセントは酒を煽ることもなく、使い古された工具を見つめていた。
「カイル」
いつになく低い声だった。
「俺の命は、もう長くねえ」
カイルは表情を変えなかったが、わずかに視線を鋭くした。
「……病か」
「ガタが来ただけだ。だが、先は見えている」
ヴィンセントは、脂じみた手で作業台を叩いた。
「この店を任せたい」
カイルは黙って聞いていた。
この男が、ただの気まぐれでこんな話をしないことは分かっている。
「……ミラはな、本当はこの街を嫌っていた。二度と戻りたくなかったはずだ。それでもここへ帰ってきたのは、お前を生かすためだ」
ヴィンセントの視線が、カイルの右足へ向く。
「俺のわがままだが、あいつを頼んだぞ。あいつには、お前が必要だ」
沈黙が場を支配した。
カイルは、右足に力を込める。
目の前の男が自分に託そうとしているものの重さをしっかりと感じる。
「……酒の作り方も、店の回し方も知らん」
カイルは吐き捨てるように言った。それは拒絶ではなく、彼なりの「覚悟」の裏返しだった。
「教えろ。……あんたが動けるうちに」
ヴィンセントは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに口角を上げた。
「……フン、厳しいぞ。死神」
「……構わん」
カイルは短く答えると、作業場の入り口でこちらを見守っていたミラの気配に気づいた。
彼女は何も言わず、ただ暗闇の中で静かに立っていた。
カイルは彼女の方は見ず、ヴィンセントの手にある古びた工具を見つめた。
戦うための武器ではなく、生きていくための道具を。
カイルは、失った足の代わりに手に入れた新しい運命を、静かに、そして強く握りしめた。
ヴィンセントが奥へ消えた後、店内の明かりはカウンターの上のオイルランプ一つだけになった。
ミラが、静かに歩み寄る。その瞳は、隠しきれない不安で揺れていた。
ヴィンセントの言葉が、重く沈殿している。
彼女が唇を震わせ、何かを言いかけたその時、カイルは何も言わずに彼女をその胸に引き寄せた。
「……っ」
ミラの小さな吐息が、カイルの胸に吸い込まれる。
カイルはただ黙って、彼女を強く抱きしめた。
回された腕の強さが、何よりも雄弁に「ここにいる」という意思を伝えていた。
ミラの指先がカイルの背中を掴み、次第に力がこもる。
やがて、カイルの胸元が彼女の静かな涙で湿っていった。
カイルは、その重みを、震えを、ただ無言で受け止め続けた。
やがてミラが落ち着いたのを見計らい、カイルはゆっくりと腕を解いた。
彼はカウンターのランプを無造作に吹き消す。
「……帰るぞ」
短く、それだけを告げた。
カイルは、暗がりに立ち尽くすミラの冷えた手を、迷いなくその大きな手で包み込んだ。
ミラは何も言わず、ただその手の熱を確かめるようにぎゅっと握り返した。
二人は、煤けた酒場の扉に鍵を下ろし、夜の冷気の中へ踏み出した。
街灯の乏しい暗い道。
カイルは彼女の手を引いたまま、義足を一歩ずつ、静かに踏みしめて歩く。
言葉はない。
けれど、繋いだ手から伝わる鼓動だけが、冷たい夜の空気の中で二人を確かに繋いでいた。
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ルナタリア彷徨譚 Rilla. @rilla_kthb
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