赤ちゃん、ケチャップ、バーコード
壱:散らばる卵、落下と目覚め
地上を覆うマンホールは、リアルな鉄の蓋ではなく、タブレットで簡単に持ち上げられるイミテーションと化していた。
それはただの点検口のふりをしており、その下に
「日本人ってさ、なぜか自分は安全だと思ってる。こんな状況だってのにさ。俺はあめの安全なんて信じちゃいない」
あのとき、タカシが、白い整った顔を歪めて言うのを見た。
落下は一瞬だった。サイキはタカシを信じていた。信じていたが、あの瞬間、彼は手を離した。目を逸らして。
「信じる相手を精査するのは、大事だぜ」
ぽいぽいと白い丸いものがいくつかタカシの手からこぼれ落ちた。
半年の間、ずっと仕事をしてきたじゃないか、と、今更ながらに思い出した。
••✼••
「……っ」
衝撃とともに、視界が暗転する。鉄骨の軋む音、遠ざかる警報、そして、絶対的な静寂。
次に目を覚ましたとき、サイキは冷たい地面に横たわっていた。頭が重い。視界がぼやける。
白い、丸くひび割れ崩れたもの。
卵だった。殻はひび割れ、いくつかは飛び散り、白と黄色がばら撒かれていた。
ゆで卵特有の匂いがあたりに漂っている。
食料を、気にしてくれた、のか?
いや、卵なんて。
耳元で、甲高い声がした。
「おい、人間。立てるか? ここで寝てたら奴らの餌にされるぞ」
目を開けると、丸っこいポワポワの毛玉が、土埃にまみれた茶色の毛並みを揺らしながら、じっとこちらを睨んでいた。
「……犬?(もしかして、ポメラニアンか?)」サイキは掠れた声で呟いた。
「違うな。お前の知ってる犬ではない。俺はタロ。呼び方はそれでいい」
タロの背後から、場違いなほどのんきな声が響いた。
「タロー!怖がらせるなよー。タロは、自己紹介下手なんだよ」
金色の毛を揺らし、愛嬌のある顔で笑うレトリバーが近づいてくる。その表情は豊かで、場の重い空気を一気に和ませた。
「オレはポン太!まあ、ただのレトリバーだ! 仲良くしてくれよ!」
さらに、薄暗がりからのっそりと姿を現す柴犬がいる。低い声がゆったりと緊張を持って響く。
「群れるつもりはない。この場所に臭いが立っていたから来ただけだ」
ツンとした顔で刺すような目を向け、彼は短く「シバ」と名乗った。
「お前もか。ここの犬はどいつもこいつも喋るんだな」
サイキは背中をさすりながら立ち尽くす。そこへ遅れてドタドタと走ってくる影があった。
「おーい! ここかー!?」
灰色のハスキーが笑顔で
その時、後方からさらに声がした。
「……お前、地下に落ちたら犬に囲まれる運命だったのか?」
リュウジだ。彼は肩で息を整えながら、胸に巻かれたベビーキャリアをトントンとあやした。キャリアの中では、こちらに向かった小さな顔がにこにこと笑っている。
カエルのように手足がキャリアから伸びていた。
「なんだよ、落ちてくるなら、連絡くらい寄越せよ」声は軽いが、彼の目は鋭い。
言いつつ大急ぎで、割れかけの、屑になっていない卵を拾い集めた。
リュウジは犬たちにサイキを紹介した。
「こいつはサイキ。昔の同僚さ。俺がやらかすまではな」
「お前のやらかした話は、長いから、話すなよ」と、タロが口を挟んだ。
「……赤ん坊だと?」サイキがようやく絞り出す。
リュウジは肩をすくめた。
「そう見えるなら、そうなんだろ」
「バーコードは?」サイキは反射的に問う。
「ない。だから、ここにいる」
「どこから?」
「拾った。制度の外側になったんだろう。誰かが置いていった。名前もない。犬たちはリンゴって呼んでる」
「……リンゴ、って呼んでるのか」サイキが言うと、ポン太が嬉しそうに尻尾を振った。
「そう。ほっぺたが赤くて、美味しそう」
「食べるなよ」とサイキは言い返し、ポン太は「冗談だって!」と笑った。
ハッチは尻尾を振りながら続ける。散らばったゆで卵を舐めている。
「見たまんま、感じたまんま。それでいいじゃん」
シバは一歩引いて、低い声で真実を突きつける。
「制度の中じゃ、名前は管理のためにある。ここでは、呼ぶためにある」
サイキは黙り込んだ。
地上では、名前はバーコードと紐づいていた。出生届、登録番号、識別コード。
彼は赤ん坊に語りかける。
「こんにちは、リンゴ」
リンゴに笑顔を向けると、赤ん坊は無邪気に、明るく笑った。
そのとき、背後から引きずられる嫌な音が聞こえた。
ズズ……ズズズ……
シバが素早く振り向き、ハッチが耳を立てる。犬たちの表情が一瞬で硬直する。
タロが低く呟いた。「……ちょっとしたデカブツが出るんだよ」
ポン太がおどけて言う。「また怖がらせてるー」
その瞬間、タロの耳がピクリと動いた。
「……噂をすればなんとやらだ」
ポン太が顔色を変え、唸り声を滲ませた。
「ヤバい、これ本物だ」
「逃げろ!」
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