第2話 ルカとの出会い
ユウキに会うのは一年ぶりだった。大学を卒業してお互い就職、その後何度か一緒に飲みに行ったりしたけれど、だんだんと会う回数も減っていった。私は埋まらない淋しさを紛らわすようにどんどん忙しい仕事に体を慣らしていった。ウェブ制作のディレクション業務を担当する会社で、制作そのものは契約している個人のデザイナーやアーティストに任せる。夜中に帰宅、納期が迫っている時などは泊りがけ。とんでもなく多忙な会社なのは、わざわざ客観的に考えなくともわかる。でも私は日常の中で悩む時間を作りたくなかったから丁度よかったのかもしれない。土日暇ができると部屋の中でぼうっとする。リュートのポスターが目に入ると涙が浮かんでしばらく泣いてしまう。そして苦しくて悲しくて忘れたくて無理やり眠ろうとする。私にとっては何もない休日のほうが辛かった。だから好んで休みの日にも働いた。そうして忙しくしている間にユウキの事も少しずつ思い出す時間が減っていった。たまに思い出すとどうしているか気になったが、なんとなく連絡を取るタイミングを失っていた。だから彼からライブの告知をもらった時は素直に嬉しかった。同時にライズレッドの、今となっては切なくなった思い出も蘇る。ユウキとは本当に同じ思い出を共有してきたから、ふと思い返して、二度とは戻る事のない時間に心が揺れた。
約束の日、下北沢にあるライブハウスを訪れた。土曜日の夜の時間帯に、下北沢の少しは名のあるライブハウスに出演するとは、思った以上にユウキは頑張っているのかもしれない。いつもパンツスーツで仕事に出掛ける私だが、今日はワンピースにカーディガンを羽織り、ワインレッドのパンプスを履いた。春風がまだ少し冷たい夜。下北沢特有の細い道に若干迷いながらもライブハウスに辿りつく。階段を下りると小さなカウンターがチケット売り場になっていた。金髪を逆立てたパンキッシュなお兄さんが「こんばんは」とあんまり楽しく無さそうに話しかけて来た。
「こんばんは」
当たり障りなく返事をする。
「バンド名は?」
「バンド名?」
そうだ、こういう所ではどのバンドを見に来たのか聞かれるのだが、うっかりユウキの所属するバンドの名前を聞いておくのを忘れたと思い、彼の本名をフルネームで告げてみた。
「あいつか。あなたのお名前は?」
急にお兄さんは親しげな調子になった。それで私は名前を告げた。
「セナさんね。名前、あった」
彼はノートに書かれた、おそらく来る予定になっている人の名簿から私の名前を探しているようだった。
「チケット代はドリンク込みで、あ、いや、ドリンク代だけでいいです。五百円」
言われるままに私は五百円玉を財布から出してパンキッシュ君に渡した。代わりに緑色のドリンクチケットを受け取る。
「じゃ、この扉からどうぞ。もう始まっているけど、暗いから足元気をつけて」
そう言っているうちに他の客が上から階段を下りてやってきたので私はとりあえず中に入ることにした。ライブハウス特有の重厚なドアを開けると、途端に体全体に音が殴りかかってくる。さらに階段を降りてバーカウンターまで進む。読唇術でも使うしか無さそうな大きな音の中、声を振り絞って中にいる女性に「ビール」と告げる。出てきたグラスを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、後ろから違う手が伸びてきてそれを持って行かれた。あっ、と思って振り返ると見覚えのある横顔が勝手に人のビールを飲んでいた。見覚えはあってもその顔は明らかに以前より人目を引くものになっていた。丁度よく音が止まり、そのバンドの演奏が終わった。
「ユウキ」
「久しぶり。そんな格好してるから最初おまえだって思わなかったよ」
そう言って笑った顔は私の覚えている記憶のままだった。それでほっとしてビールを取り返した。
「チケット代、おごってくれたの?」
私は入り口でドリンク代しか払わなかったのを思い出して言った。
「ああ、久しぶりだし、おまえ意外と貧乏だったら気の毒かと思って」
私はそんなことを言われて笑ってしまった。
「いや、でも実際俺の方が貧乏かも。実は本格的に音楽始めてしまって。すっかりフリーター。この歳で」
「この歳って、私と一緒じゃない」
「俺は五月生まれだからそろそろまた歳取るよ。おまえは三月でいいよな、誕生日」
「二月」
「そうだっけ?まあいいや。俺達この次の次だから、それまで帰んなよ」
そういうとユウキは消えてしまった。
私は適当に壁際の椅子に座り、次のバンドの演奏を聴いていた。それなりにまとまりのある演奏が聴けた。個々の技術は突出していないけれど、各パートのバランスがきちんと取れている類だ。これまでもユウキがヘルプで手伝ったバンドや友達のライブに連れて行かれた事はあるけれど、どうも音のバランスが悪くて何を演奏したいのか理解できなかった事も多々ある。だから今日はどんな演奏が聴けるのかだんだん楽しみになってきた。まだアマチュアもアマチュア、駆け出しもやっと運動靴でも買ったか程度の駆け出しだろうけれど、ユウキの弾くギターは悪くないはずだ。
やがて演奏が終わる。薄いスクリーンのようなものが下りてきて一応ステージを隠す形になる。中で片付けと次のバンドの準備が行われているようだ。私はぼんやりそれを眺めていた。グラスのビールはとっくに無くなっている。ユウキのおかげで浮いたチケット代でもう一杯飲もうかとバーカウンターをチラリと見た。あれ?と思う。知り合いでは無いけれど、私はその人を知っている。いや、違う。そんなはずは無い。でもいつもあの人の隣に映っていたし、側にいたから、嫌でも顔は覚える。初めてライブを見に行った時に、リュートに夢中になった私が、正面にいるにも関わらず、髪が短くなった事に気付かなかったその人。
「ルカ…?」
いや、そんなはずはない。こんなところにいるはずがない。他人のそら似だ。薄暗いし、ロックンローラーなんてある程度雰囲気が似てくるし、憧れて格好とか真似しているだけの人かもしれないし。もう少し近づいてみようかと思った瞬間、照明が落ちて薄いスクリーンの向こうでステージに灯りがついた。ゆっくりと幕が上がってゆく。それと同時に澄んだ声が響き渡る。ルカらしき人物の姿を暗闇の中に見失うと同時に耳に流れ込んできた声に、体中の神経が毛先まで吸い込まれるように逆立つ。細く凛と耳に流れ込み、頭の奥底で広がってゆくような不思議で美しい声。聴き覚えがあるというよりは聴きすぎて忘れようが無くなってしまった声。ゆっくりとステージに目を向ける。静かに開けてゆく視界の真ん中で歌うその人の姿はユウキだった。私は自分が呼吸をしているのかどうかも忘れた。ユウキはずっとギターをやっていた。だから歌っているのに驚いたのも事実。けれどもそれ以上に、なぜこんなにもユウキの声はリュートに似ているのか。リュートよりハスキーで芯が若干太い。だから聴く人が聴けば声の質が似ているとしか思わないだろう。でもそうじゃない。根底に流れる何かが同じだ。
それから五曲の演奏が終わるまで約三十分。私は目を閉じて歌声に神経を集中させた。歌が終わり、ただの話し声になると途端にいつものユウキの声に戻ってしまう。どこからあんな声が出ているのかと不思議に思う。さっき入り口にいたパンキッシュ君はユウキの後ろでドラムを叩いている。見かけによらずスネアの音が繊細だ。合間に私は人がひしめくライブハウスの中を見渡す。ルカに似た人が気になって仕方が無い。ルカ本人のはずはないと思うけれど、あまりにも何もかもがぴたりと瞼の裏にあるものと一致する。リュートの隣に写っていた時の横顔、好きでかけているサンクラスの形、肩にかかるツンツンした金髪、編み上げのブーツ、皮製のロングジャケット。ユウキの声とルカの姿に混乱しながらステージが終わるまで私はなにもできずにただ座ってぼうっとしていた。音が止む。ユウキがいつも通りの声で「ありがとうございました」と言って軽く頭を下げる。緞帳代わりのスクリーンが再びゆっくり下がり始めると同時に私は一旦見失ったルカらしき人が、出口に向かう階段を上る姿を目にした。それでなんだかつられるようにして席を立った。ユウキとはまた戻ってきて話をすればよいかと思い、そのままその人物を追った。
ライブハウスの外へ出た瞬間ふわりと風が吹き、思わず目をつぶる。春へ向かう香りがした。目を開けるとルカらしき人の影はだいぶ遠ざかっていた。慌てて後を追いかける。途中交差点で危うく車とぶつかりそうになった。車も急ブレーキを踏んだのでその音でひやりとする。しかし気持ちはそれどころではなかった。車に頭を下げる。明らかに不機嫌そうな表情のドライバーを尻目に私はルカに良く似た後姿を追う。どれだけ彼は早足なのかと思うほど不思議と距離が縮まらない。それとも私が思った以上に鈍くさいのだろうか。これでも少しは足に自信があるのだけれども。
そうこうしているうちに気がつけばまったく見知らぬ場所にいた。今来た道を引き返して下北沢の駅に辿り着けるかどうか自信が無い。代官山といい、自由ヶ丘といい、この街も本当に私の方向感覚を狂わせる。ルカらしき人を見失わないようにするのがやっとだった。彼が角を曲がったので私も追いかけて曲がる。すると意外にもすぐそこで彼は立ち止まり、ある建物をじっと眺めていた。私も立ち止まる。そしてその人を見つめた。すっかり深くなった夜の闇の中。道端の電灯がひっそりとルカらしき人物を照らす。後をつけてきた自分は怪しまれるだろうと気が付く。街頭の下で佇むその人はサングラスも外し、青白い横顔で建物を見上げているようだった。私はどきりとする。どちらかと言えばひょうきんなイメージが強いルカは、ミステリアスなリュートに比べて美しいとか繊細という形容詞は似合わなかった。だからその人が夜の中でそっと淋しそうに佇む姿に、私は今自分が何をしているのか忘れて見入ってしまった。彼は私の気配に気がついたのかゆっくりとこちらを振り返る。そっと吹いてきた風に髪を流され、それを綺麗な指がかき上げる。長く細くありながらも男性的な骨格を持ったその手。ルカの手は私が見てきた中でも抜群に綺麗だった。手だけならリュートよりもルカのほうが好きだ。その手にそっと招かれる。まるで夢でも見ているかのような状況にぼんやりしていた私は我に返る。彼はそのまま建物の中に入ってゆく。見上げてみると、それはどうやら芝居小屋のようだった「レキシントン」と言う看板が出ている。バラック外装の建物は七十年代くらいのアメリカを想起させる。
おそるおそる中をのぞいて入ってゆく。入り口には誰もいない。木造の玄関ホールには二階へ上る階段もある。右手の手前には誰もいない受付スペース、左奥には扉が二つ付いていて手前が開いていた。そこから光が漏れている。そっと中に入り辺りを見回す。そこは二百人くらい収容できそうな客席だった、街角の芝居小屋にしてはわりと大きめのホール。そろりそろりと入ってゆくと、後方に立ってじっとステージを見つめているルカの姿があった。もう別人ではないという確信を持つ。この顔は、あの手はルカのものに違いない。
「こんばんは」
とりあえずそんなあいさつをしてみた。すると彼はふっと微笑んだ。
「君はさっきライブハウスにいた子だね」
私は気付かれていたのかと少々驚いた。
「はい。友人が歌っていたので、聴いていました」
「そう」
彼は近くのイスに腰掛けた。古い映画館のようなシートだ。
「こんなところで何をしているんですか?」
本物のルカなら私は聴きたい事が山ほどある。リュートの事、ライズレッドの事、ルカ本人の事。この人はあの事故以来メディアからぱったりと姿を消してしまったのだ。その人に出会えて嬉しく思うけれど、ルカがなぜこんな所にいるのだろう。それが一番の疑問だ。三年前にリュートがあんな事になってから、そのショックでメディアに姿を見せなくなっていたというルカ。メンバー四人のうち他の二人は違うバンドを組んだり、ソロで活動を続けていた。だから三年前と大して変わらない姿で現れたルカに私は少し驚いた。
「そうねえ…」
ルカはなんだか考え込むように返事をした。私は今の状況が不思議で仕方ない。リュートではないにせよ、彼の側で彼の歌う曲を作り、誰よりもその歌を聴き続けてきた人が私の目の前にいる。
「誰にも気付かれないと思ってたんだけど」
「はい?」
何のことかわからず、間抜けな声を出してしまう。
「むしろ誰にも気付かれないと思って俺が気を抜いていたのかもしれない。これまで街を歩いていても誰にも気付かれなかったんだ」
そう言われて私は改めてまじまじと彼の姿を見つめる。その格好で街を歩いていれば間違いなく人目を引く。確かに渋谷だ原宿だの歩いていればもっと個性的な人間は沢山いるけれど、ルカはその人達より地味な格好でも間違いなく人目を引く。そんなタイプだ。リュートはミステリアスな部分があって、そこが一種異様なオーラを醸し出しているからそういう意味で目立つが、ルカはすれ違ったときにふと振り向いてしまうような、そんな不思議な雰囲気を持っている人だ。だから誰にも気付かれないというのはありえない。今日だって、ライブハウスにいれば金髪やらパンクやらはたくさんいるので、とりわけ目立った格好ではないけれど私は一目でルカだと気が付いた。
「そんな不思議そうな顔しないでよ。実際今日だってぼけーっと下北ウロウロしてたのに、だぁれも俺だって気付かなかったぜ。逆に忘れ去られたかと思って不安だよ。俺ってそんなに存在感なかったのかなあ、って」
私はふるふると首を横に振った。そんなことはない。彼は私の顔を見てふふっと笑う。
「だから今日も誰も俺の事なんて気付かないと思ってたのに、君が後をつけてきたからどうしようかと思ってね。もちろん撒く事もできたんだけど、なんで君だけ気がついたのかそれも知りたくてね。わざと目立つように歩いてた。他の人たちは振り返るけど俺だって気付いてるのか気付いてないのか、まったくわからない」
ルカは私をじっと見つめてくる。ミステリアスで憂いを込めた表情のリュートは知っているけれど、隣で呑気そうにギターを弾いていたルカは軽やかに笑っている印象が強かった。意外にも瞳の奥が深い事に気付く。それは今まで私が知っているルカよりもずっと鋭い眼差しだった。少し戸惑いを覚えて目線を彼の首元に落とす。胸元には黒い紐が見える。チョーカーのようなアクセサリーを着けているようだ。
「今日はただライブを見ていただけなんですか?」
そう言いながらそっと視線をルカの顔に戻す。少し考えるように彼はぽりぽりと頭を掻いた。
「いや、探してるんだ」
「何をですか?」
「ネットで噂になっていたから聴きに来てみたんだ。もしかして、まさかと思いながらね。でもやっぱり違ったよ。それでもよく似てたね、あのバンドのボーカル君の声」
そこまで言われると私はどきりとした。ルカは間違いなくユウキの事を言っていると思った。
「似た声の人を探しているんですか?」
もしそうなら、再びボーカルを迎えてライズレッドを再結成するのだろうか。
「いや、そうじゃない」
ルカの表情がだんだん真剣に、かつ険しくなってゆく。芝居小屋の外を車が通り抜け、建物が少し揺れた。どこかで空調設備か何かが作動するような鈍い音が響いた。ルカは私がテレビや雑誌で見ていた呑気そうな顔では無い。彼は立ち上がると正面にあるステージに向かい、一息深くため息をつくと、天井を仰いだ。その背中に言葉をかける。
「リュートに声が似ていたのは私の友達です。私も彼もライズレッドのファンだった」
そういうとルカはゆっくりこちらを振り向いた。これまで彼の明るい表情しか知らなかった私は、その鋭い瞳に心の全てを見透かされた気分になる。
「そう。いい声の友達だね。正直聴き入ってしまったよ。本当は人違いだと分かったら、さっさと帰るつもりだったんだけど。あんまりよかったからそのまま聴いてた。いいボーカルになるよ」
「でも学生の頃からずっとギターを弾いてきたんです。今更歌うなんて思ってもみなかったし、あんなに声が似ているなんて、今日聴かされるまでこれっぽっちも知らなかった」
私も彼の眼差しに負けないくらいじっとルカを見つめてみた。ユウキを誰と間違って探しに来たと言うのだろう。電気の電圧が下がったのか、一瞬ふっと回りが暗くなる。
「誰かを探しているんですか?」
彼は黙り込む。綺麗な指で髪の毛を掻き分ける。片耳にぶら下がった小さなリングが二つ揺れる。指にはめられた青い石の指輪が薄暗い灯りに照らされて鈍く輝く。一つ大きく息を吸い込むと彼は何かを決心したように宙を睨んだ。次の瞬間、ルカの口から信じられない一言を聞かされる。
「リュートが、生きているかも知れない」
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