第6話 王国の人は香りに敏感
私は今、自室にいる。
正確には、
天使を招いた家の、自分の執務室だ。
あの方には、
すでに客間を用意してある。
客間と言っても、
使われていなかった静かな部屋だ。
窓が高く、
人の往来が見えない場所。
部屋まで案内したあと、
ドアの前には侍女を一人付けた。
若いが、口が堅く、
空気を読むことに長けた者だ。
触れない。
話しかけない。
必要なときだけ、控えめに声をかける。
――それだけを、厳命した。
扉を閉めた瞬間、
ようやく息を吐いた。
……連れ回してしまった。
戦場から、
大聖堂から、
馬車に乗せ、
この家まで。
休ませるためとはいえ、
結果的に移動ばかりだ。
天使という存在を、
人の都合で動かす。
その重さが、
今になって、じわりと胸に来る。
机の上には、封書が積まれている。
王城から。
聖庁から。
周辺諸侯から。
すでに、
国としての動きが始まっている。
面会の要請。
滞在期間の確認。
儀礼の簡略案。
護衛の配置。
……早い。
あまりにも。
まだ、
あの方は
自分がどう扱われているのか、
完全には理解していない。
それが、
一番、胸に刺さる。
ペンを取り、
返書を書く。
慎重に。
できるだけ、時間を稼ぐ文面で。
「体調が優れない」
「静養が必要」
「無理をさせるべきではない」
嘘ではない。
むしろ、
言葉が足りないくらいだ。
ふと、
案内したときの姿が脳裏をよぎる。
あの方の装いは、
まず、生地が分からない。
見たことがない。
絹でもない。
麻でもない。
毛織物でもない。
薄いのに、
寒そうではなく、
重なっているのに、
重たくも見えない。
光を受けても、
艶が出るわけではない。
ただ、
そこに在る。
触れたことはないが、
触れてはいけないと、
誰もが直感する。
縫い目も、奇妙だった。
細い、とか。
揃っている、とか。
そういう話ではない。
人が針を通した跡が、
見当たらない。
縫われた、というより、
最初からその形だったように見える。あまりに整いすぎている。
どう作られたのか、
考えようとすると、
思考が止まる。
そして、
何より。
香りだ。
香を焚いた匂いではない。
花でも、
樹脂でも、
獣でもない。
甘いようで、
清いようで、
どれにも当てはまらない。
それなのに、
近づくと、
自然と息が浅くなる。
強いわけではない。
ただ、
空気が変わる。
部屋に入った瞬間、
そこだけ、
別の場所になる。
長く嗅いでいると、
気持ちが静まる。
声を荒げる気が、
失せる。
……理由は分からない。
分からないが、
これは人の作るものではない。
少なくとも、
我々の知る範囲の
「手仕事」の延長にはない。
だから人は、
あの方を
天使と呼ぶ。
姿形が
似ているからではない。
説明が、
つかないからだ。
…しかし、あれほど異質なのに、
歩き方は驚くほど小さく、
視線は常に低い。
自分が
目立っていることを、
分かっていないわけではない。
分かっていて、
耐えている。
……それが、
いちばん、天使らしい。
威厳でもなく、
奇跡でもなく。
場を壊さないために、
自分を小さくする姿勢。
あの部屋で、
今も同じように
身を縮めているのだろう。
一人にしてしまった。
守るためとはいえ、
閉じ込める形になってしまった。
私は机に肘をつき、
額を押さえる。
国としての責務と、
一人の人間としての後悔が、
きれいに噛み合わない。
……申し訳ない。
だが、
ここから先は、
もう戻れない。
あの方を中心に、
予定は組まれ、
人は集まり、
意味は積み重なる。
せめて。
せめて、
今日だけは。
あの部屋が、
本当に
「自室」だと思える時間であってほしい。
私は立ち上がり、
封書を一つ、脇に分けた。
“今後の予定”と書かれたものだ。
――それは、
明日でいい。
今日は、
天使を休ませる。
それができる立場にいる者の、
最低限の責任だと、
自分に言い聞かせながら。
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