第11話 三人で囲む、焼きそばパン
川に流された、その瞬間。世界から、音が消えた。
——無音。景色がバラバラに崩れていく。次の瞬間、叩きつけるような雨音が耳に戻ってくる。息を吸う。冷たい空気が肺に刺さる。先ほどまで登っていた木の横で眠っている。さっきまでの景色は、もうどこにもない。濁流も、木の下も、男の背中も——全部、消えている。どうやら、現実に戻ってきたようだった。
「……ありえません。何をしているのですか」
声がする。抑揚のない、聞き慣れた声。だが、なぜかさっきよりも遠く感じた。
「先ほど言いましたよね? あなたの行動は、極めて非合理的です」
「ああ、分かってる。俺のやってることは、お前の言う合理的には全部間違ってる」
俺の発言を予想していなかったのか、沈黙を貫いている。俺はその顔を見ながら続ける。
「でもさ、感情で動いたからこそ分かったんだ。救えなかった理由も、救える理由も」
「答えが見つかったのですか!?それは一体——」
「……何をしてるのですか?」
そんな彼女は、俺をじっと見つめている。あまりの想定外だったのだろう。何せ、
——俺は、怨念のすぐ隣に座っていた。伸ばせば、触れてしまいそうな距離。怨念の少女は、まだ膝を抱えたまま、俯いている。けれど、さっきまでとは違って、雨に紛れて小さな息遣いが聞こえた。先程握った方の手が、ほんの一瞬、ピクリと動いた気がした。気のせいだと言い切れない、かすかな反応だった。
「……離れてください。今すぐ。次に触れられたら、もう」
「触らなきゃ、大丈夫なんだろ?」
「……ですが」
それは、これまで一度も聞いたことのない、切迫した声だった。視線も定かではなくて、どこに焦点が向いているかわからない。
俺は視線を逸らさず、雨に濡れる地面に腰を下ろしたまま動かなかった。俺は一度だけ、怨念と彼女を交互に見てから、手にかけていたビニール袋に手を突っ込んだ。そしてガサゴソと中を弄りながら、先程買ったパンを差し出す。
「まあ座れって、ほら、さっき買った焼きそばパン」
差し出されたパンを見て、彼女は一歩踏み出しかけ、すぐに引いた。指先が、宙を探るように震えている。
さっきとは違う。今度は、怨念を“どうにかする”んじゃない。ただ、隣にいるだけだ。それだけで、ここに流れていた空気が、少しだけ変わった。
「一緒にいるだけでいい。……多分、それだけでよかったんだ」
「とにかく、座れって」
俺は半ば強引に彼女を座らせ、その手の上に焼きそばパンを置く。彼女は俺とパンを交互に見て、動かない。
「ロボットだから、パン食えないとか?」
「……いえ。食事でエネルギーを得ることは可能ですが」
「なら食おう」
その時、隣から視線を感じた。怨念の少女だ。
「今は俺たちが一緒にいる。だから——もう、一人じゃない」
少女は、ゆっくりと顔を上げ、ただ俺を見つめる。
「お前も、焼きそばパン食べるか?」
差し出すと、少女は警戒しながらも、そっと受け取った。包装の擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
「二人とも、いくぞ。いただきます」
一口。俺は親指を立てる。少女はそれを見て、恐る恐る口に運んだ。目を見開く。もう一口。そして、また一口。
「美味しいか?」
問いかけると、口いっぱいのまま、こくりと頷いた。気づけば、雨は少しずつ弱まっていた。まるで、世界がこの場所だけ、泣くのをやめたみたいに。
「……ありえません」
そう言いながら、彼女は否定する理由を見失っているようだった。手のひらの上に置かれたパンをまじまじと見つめている。
「ただ食べているだけで、私の演算結果を超えた……?」
「違う」
俺は首を振る。
「ただ食べてるんじゃない。寒い中で、同じもん食って、同じ時間を過ごしてるだけだ」
「……思いを、共有……」
その言葉を、彼女は初めて、噛みしめるように繰り返した。彼女自身、その揺れを“エラー”と認識できずにいたようだった。
「早く食べろって。三人で食べたほうが、うまい」
少し遅れて、彼女も包装を開いた。小さくちぎり、一口ずつ、確かめるように食べる。雨音だけが、静かにそこにあった。俺たちは三人で、黙って焼きそばパンを食べていた。
「ごちそうさまでした」
そして、気付けば全員が焼きそばパンを食べ終えていた。女の子がポツリと呟く。
「……あったかい」
女の子は、胸元をぎゅっと押さえた。まるで、冷えていた場所に、初めて血が通ったみたいに。その一言が落ちた瞬間、空気がふっと緩んだ気がした。雨はまだ降っているのに、冷たさだけが確実に薄れている。
「……ひとりじゃ、なかった」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、息を吐くのを忘れた。彼女は、言葉を失ったように二人を見つめていた。瞳の奥で、何かが高速で処理されているのが、はっきり分かる。それを見た彼女は、かすれように言う。
「怨念が、儀式を挟まず、この状態になるケースは……存在しないはずでした」
女の子の体から、淡い光が滲み始めた。雨粒に溶けるような、優しい光だ。さっきまでまとわりついていた重さが、少しずつ剥がれていく。誰も、言葉を発しなかった。ただ、雨音だけがそこで響いていた。
「……お父さん」
女の子が空を見上げる。
「お父さん、ね。あのね——」
言葉の途中で、光が一段、強くなる。
「ちゃんと、待ってたよ」
次の瞬間、女の子の輪郭が、雨の中に溶けるように崩れ始めた。恐怖はなかった。代わりに、安心したみたいな、静かな表情。
「消える……!?」
俺が立ち上がろうとすると、彼女が静かに首を振った。
「違います」
声が、はっきりと揺れている。
「……これは、解放です」
女の子は、最後にこちらを見て、にこっと笑った。
「ありがとう。……一緒に、いてくれて」
「……また、焼きそばパン、食べような」
そうして、女の子は空高くに、溶けて消えていった。空は、先ほどまでの豪雨が嘘だったみたいに、静かに青く澄んでいた。
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