第24話
貴弘が玻璃からの報告を受けていた頃。
都心の夕闇は、華やかなイルミネーションと共に、明日香の心を「家族」や「未来」という甘い幻想へと誘(いざな)っていた。
明日香は仕事帰りの人波を縫い、同僚への妊娠祝いを探していた。街中の至る所にある、年末年始の旅情を誘う鮮やかな広告。
「……恭介さんと一緒に、どこかへ行けたらいいな」
そんなささやかな願いが胸をかすめる。まだ見ぬ新しい命への贈り物として、男女を問わず使える上質な入浴剤を選び、丁寧にリボンをかけてもらった。その温かな包みを抱えて店を出た時、彼女を待っていたのは、冬の風よりも冷たく、そして甘い運命の再会だった。
「――お疲れ様、明日香ちゃん。相変わらず、いい顔してるね」
そこに立っていたのは、佐伯だった。 彼は玻璃の動向をすべて把握し、狙い澄ました獲物を待つ猟師のように、そこにいた。
かつてホテルで誘いを断られたことなど、微塵も気にしていないような軽い微笑。その軽薄さが、今の明日香にはかえって「重荷を感じさせない救い」に見えてしまう。
「あの時の謝罪、まださせてもらってないし。コーヒー一杯、付き合ってくれないかな?」
一度は拒んだはずの男。けれど、幸せの象徴である贈り物を選んだ直後の高揚感と、どこか満たされない孤独の隙間に、彼の軽やかな誘いは滑り込むように入り込んだ。
通されたカフェで、佐伯は鮮やかな手つきで会話を回していく。 女性の扱いに手慣れた彼の、淀みのない言葉。明日香を「一人の自立した女性」として扱いながらも、その奥にある脆さを優しく撫でるような視線。
(……この人、本当は悪い人じゃないのかもしれない)
恭介との間に流れる時間は、今、凪のように穏やかで満ち足りていた。その揺るぎない幸福の渦中にいるからこそ、彼女の心の隅には、かつて佐伯の誘いを拒絶し、ホテルから逃げるように飛び出したあの夜の記憶が、消えない染みのように残っていた。
不意に現れた佐伯の軽やかな微笑を前にして、明日香がその歩みを止めてしまったのは、好奇心などではない。それは、一人の男の矜持を無残に跳ね除けてしまったという、真面目すぎる彼女ゆえの、湿り気を帯びた「罪悪感」だった。
恭介との関係が順調であればあるほど、彼女は自分の過去を「綺麗な状態」にしておきたかった。その潔癖なまでの誠実さが、皮肉にも佐伯という猛毒が入り込むための、唯一の、そして致命的な隙間となってしまったのである。
「この店のコーヒー、君の口に合うと思って。明日香ちゃんは少し深煎りが好きだったよね?」
「よく覚えてたね!でも最近は、恭介さんが淹れてくれる少し酸味のある豆も好きになったの。彼、私の体調に合わせて細かく調整してくれるから……。今では、その味が私にとっての一番の贅沢になっちゃった。」
その隙間を、佐伯は見逃さなかった。彼はテーブルの上で組んだ指先に視線を落とし、まるで明日香の心に空いた穴を、温かな泥で埋めるように言葉を重ねる。
「彼は君を大切にしているんだね。細部まで気を配り、君のすべてを管理してくれる……。けれど、そんな完璧な愛の中にいて、君は息苦しくなることはない?」
「……俺がこんなことを言うのは、お門違いかもしれないけれど。今の君の幸せが、どうか『完璧なまま』で続いてほしいと思ってる。ただね、男という生き物は、時としてその完璧さに耐えきれなくなることがあるんだ」
佐伯は、冷めかけたコーヒーを一口啜り、自嘲気味な笑みを浮かべて視線を落とした。その横顔には、いつもの軽薄さはなく、どこか遠い過去を悼むような陰影が宿っている。
「……俺もね、かつては信じていたんだよ。完璧に幸せな関係なんてものがあるって。でも、男のだらしなさが、一瞬でそれを砂の城に変えてしまう」
彼は、ある「失敗談」を静かに語り始めた。
「当時、俺には結婚を考えていた大切な人がいた。関係は順調そのものだった。でもある日、本当に些細なこと――仕事仲間の女性と、ただ相談に乗るために食事をしただけだったんだ。下心なんて一欠片もなかった。でも、彼女はそれを『裏切り』だと決めつけた」
佐伯の声は、湿り気を帯びて低くなる。
「浮気でも何でもなかった。ただの誤解だ。でもね、一度芽生えた不信感っていうのは、真実がどうかなんて関係なく、愛を腐らせていくんだよ。彼女の目から信頼の光が消えて、代わりに『疑念』という毒が住み着いた。そうなったらもう、何を言っても届かない。結局、俺たちは壊れた。……皮肉だよね、実際には何も起きていなかったのに、彼女の『勘違い』だけで、俺たちの数年間はゴミ屑になったんだ」
彼はふと顔を上げ、射抜くような視線で明日香を見つめた。
「明日香ちゃん。男のだらしなさっていうのは、浮気そのものじゃない。そういう『疑われる隙』を作ってしまうことなんだ。そして、女側の賢すぎる想像力が、何もない場所に地獄を作り出してしまうこともある。……君たちの関係が、そんなつまらない誤解で終わらないことを、切に願うよ」
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