第23話
貴弘の豪華なオフィスの一室。重厚なマホガニーのデスクの上には、一滴の無駄もないデザインのタブレット端末が置かれ、夜の帳が降りた窓の外には、まるで彼が支配する箱庭のように、煌めく都会の夜景がどこまでも広がっていた。
貴弘は、グラスの中で揺れる琥珀色の液体には目もくれず、タブレットに表示された報告書を冷徹な視線で読み進めていた。画面には、スーパーの喧騒の中で、魂を抜かれたように立ち尽くす弟・恭介の姿が鮮明に映し出されている。その顔は、単なる驚きを超え、過去という名の亡霊に遭遇したかのような、痛々しいほどの情熱に溢れていた。
報告書には、コードネーム「玻璃」の、感情を排した無機質な筆致でこう記されている。
「ターゲット、恭介。接触成功。
調合した『遺失の香』による嗅覚刺激により、対象の精神状態に顕著な動揺を確認。深層心理における母親の記憶との強力な結びつきを予測。
初期段階の目的、完遂。」
その無機質なテキストをなぞるように読み終えると、貴弘は薄く、しかしどこか三日月のように歪んだ笑みを浮かべた。微かに震える指先で恭介の顔を画面越しに撫で、彼の唇から乾いた囁きが漏れる。
「……やはり、母親の思い出には敵わないか。人間とは、なんと御しやすい生き物なんだろうな、恭介」
貴弘の表情には、弟への深い哀れみと、それ以上に、自らが描いたシナリオが完璧に進行していることへの冷酷な期待が入り混じっていた。彼は確信していた。この「香り」という鍵さえあれば、恭介の理性など脆くも崩れ去り、明日香との積み重ねてきた時間は、一瞬で色褪せた古紙のように捨て去られるはずだと。
貴弘にとって、恭介は自らの血脈が生んだ最高傑作であった。才気に溢れ、立ち居振る舞いの一つひとつに天性の品格を宿す弟は、まさに「選ばれた人間」として世界の頂点に立つべき存在なのだ。
それゆえに、貴弘には到底受け入れられない「汚れ」があった。それが明日香という女だ。
「明日香……。どこの馬の骨ともしれない、派遣社員の女が」
貴弘は不快感を隠そうともせず、吐き捨てるように呟いた。特別な血筋も、人を惹きつける才覚も、野心すらも持たない。ただ懸命に働き、ささやかな幸せを願うだけの、砂粒のような「普通」の女。そんな、替えの効く消耗品のような存在が、恭介の清らかな時間を奪い、将来を共に歩もうなど、貴弘にとっては神への冒涜にも等しい愚行だった。
「あんな女が、恭介の隣にいる資格など万に一つもない。泥を宝石箱に詰めるようなものだ」
貴弘の胸中に渦巻くのは、恭介への盲目的なまでの深い愛情と、それゆえに恭介を「平凡」という名の檻に閉じ込めようとするものへの強烈な嫌悪だった。
彼の歪んだ兄弟愛は、すでに純粋な善意を通り越し、狂気へと変貌していた。恭介をより高みへと、自分と同じ孤独な高嶺へと導くためなら、たとえ弟の心を一度壊してでも、どんな残酷な手段も厭わない。
「恭介には、もっと相応しい相手がいる。知性に溢れ、家柄も、美意識も、彼の価値をさらに高めるような女性が」
貴弘の目的は明確だった。恭介を明日香という「泥沼の平凡」から引き離し、彼が本来あるべき、知的で洗練された階層へと連れ戻すこと。そのための第一段階として、玻璃という「別れさせ屋」の仕事も遂行可能な人物を雇ったのだ。
玻璃は恭介にとっての真実の相手ではない。彼女はあくまで、恭介の心に深く刻まれた「母性」という名の脆弱な急所を突き、明日香との安っぽい絆を断ち切るための、鋭利なメスに過ぎなかった。
恭介が明日香との拙い恋から目を覚まし、彼女を捨て去ること。そして、兄である自分が用意した「真に相応しい舞台」へと上がる道筋をつけること。それこそが、貴弘が定義する「弟の幸福」であり、彼が心血を注いで作り上げる、美しくも独善的な未来予想図だった。
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