第13話|弟子たちの拳

第13話|弟子たちの拳


夕闇が冒険者ギルドの石畳を赤く染める頃、その熱気は最高潮に達していた。


「見てくれ、この拳ダコを! シルヴィア様に一歩でも近づけたかな」 「昨日の彼女の動きを思い出すんだ。風を斬るんじゃない、風に身を任せ、最短距離で相手の顎を撃ち抜く……」


ギルド裏の空き地では、ルークを筆頭に十数人の若者たちが、一心不乱に拳を突き出していた。革の焼ける匂いと、弾けるような汗の飛沫。彼らの瞳には、かつての冒険者たちが持っていた「功名心」や「野心」とは異なる、危ういまでの純粋な崇拝が宿っている。


「シルヴィア様は仰った。暴力ではなく理だと。ならば、この拳が理だ!」


一人の若者が、練習用の木人を粉砕した。乾いた破砕音が響き、少年たちは快哉を叫ぶ。その中心に立つルークは、自分の拳を見つめていた。シルヴィアから学んだはずの「守るための力」。だが、今、彼を包囲している空気は、まるで鋭利な刃物のように研ぎ澄まされ、攻撃的な色を帯び始めている。


その時、石畳を叩く規則正しい靴音が響いた。 喧騒が、潮が引くように止まる。


「……随分と、騒がしいですわね」


銀髪を夕陽に輝かせ、シルヴィア・フォン・アステリアが現れた。彼女の立ち姿は、相変わらず一陣の涼風のように無駄がない。だが、その碧眼に宿る温度は、凍てつくほどに低かった。


「シルヴィア様!」 ルークが駆け寄り、弾んだ声で報告する。 「見てください、みんな貴女の技を学ぼうと必死なんです。貴女こそが『拳の聖女』。貴女の強さこそが、この腐った力の世界を変える福音だと信じて――」


「黙りなさい」


その一言は、物理的な衝撃を伴ってルークの言葉を遮った。 シルヴィアはゆっくりと歩を進め、粉砕された木人の残骸を見つめる。木の焦げたような匂いが、彼女の鼻腔を突く。それは、かつて前世で見た「力を履き違えた者たち」と同じ、独善の香りだった。


「私を崇める? 私を真似る? 冗談ではありませんわ。あなたたちが今やっていることは、ただの粗野な模倣。言葉を飾っただけの暴力に過ぎません」


「そんな……僕たちは、貴女のように、正しくなりたいだけで!」


一人の若者が食ってかかった。彼はシルヴィアの戦い方に倣い、あえて武器を捨てていた。だが、その剥き出しの拳からは、相手を屈服させたいという「力への執着」が、どす黒い熱気となって立ち昇っている。


シルヴィアは、ふっと息を吐いた。 彼女の視界には、彼らの筋肉の強張り、荒い呼吸、そして何より、自分という存在を神格化することで「思考」を放棄した怠惰な精神が、手に取るように見えていた。


「いいですか。私を真似しないで。……理解しなさい」


彼女は静かに、半身に構えた。 それは、襲いかかる敵を待つ「守主攻従」の構え。


「ルーク、あなたから来なさい。一歩も動かず、一滴の血も流さず、あなたたちの『間違い』を分からせてあげますわ」


ルークは戸惑いながらも、今の自分なら届くはずだという過信に突き動かされ、踏み込んだ。シルヴィアから学んだはずの、最短距離を突く一撃。拳が空気を切り裂く鋭い音がした。


だが、次の瞬間。 ルークの視界から、シルヴィアの姿が消えた。


(――いない!?)


背筋に走る戦慄。ルークの右拳は虚空を打ち、自分の重心が制御不能なほどに前方に流されるのを感じた。シルヴィアは、彼の力に抗わなかった。ただ、彼の衣服の袖を、羽毛が触れるような軽やかさで引き、彼の「進もうとする力」をそのまま「倒れる力」へと変換したのだ。


ドォォォォォン。


石畳に倒れ伏したルークは、何が起きたのか理解できなかった。痛みはない。ただ、自分の全身の骨が、地面に吸い付いたかのように動かない。


「柔法……。相手の力を利用し、関節を制し、自由を奪う。これは、相手を傷つけるための技ではありません。相手と自分、双方の尊厳を守るための『調和』の術ですわ」


シルヴィアは倒れたルークを見下ろすことなく、集まった若者たち全員を見据えた。


「あなたたちの拳には、怒りと選民意識が混じっている。それはカイル皇太子が振るう魔法の暴力と、何が違うというのです? 聖女? 英雄? そんな安いラベルで自分を飾り立て、思考を止め、ただ強い力に縋りたいだけなら、今すぐ拳を解きなさい。それは武ではなく、ただの凶器です」


沈黙が空き地を支配した。 夕闇が深まり、冷たい夜風が汗ばんだ彼らの肌を撫でる。若者たちは、自分たちが手にしていた「正義という名の高揚感」が、いかに脆く、醜いものであったかを突きつけられていた。


「強さとは、誰かを屈服させることではありません。己の中にある醜い衝動を、どれだけ理(ことわり)によって制御できるか。その克己の果てにあるものが、私の歩む道です」


彼女の声は、低く、しかし、震えるほどに凛としていた。 ルークは地面に顔を伏せたまま、震える指先で石畳を掴んだ。今まで感じていた万能感は消え去り、代わりに重く、深い「責任」という名の重圧が胸にのしかかる。


「……私を、神のように崇める暇があるのなら、自分の心と向き合いなさい。理解できないのなら、一生、拳など握らぬことです」


シルヴィアは翻り、去っていく。 その背中は、かつて彼女が少林寺の門下生たちに背中で説いた「師」のそれであった。


残された若者たちの間に、もう歓声はなかった。 ただ、静まり返った闇の中で、自分たちの荒い呼吸の音だけが響いている。


マリアが遠くからその光景を見て、深く溜息をつき、帳簿を閉じた。 「あーあ、嫌われ役まで買って出るなんて。あのお嬢様、本当に損な性分だわ」


だが、マリアの目には見えていた。 打ちのめされたルークが、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って立ち上がる姿を。彼の目から、狂信の光は消えていた。代わりに宿ったのは、静かで、消えることのない「内省」の灯火。


それは、暴力が理へと昇華される、最初の一歩だった。


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