第17話 彼女になった日 side 深雪
朝、目が覚めて最初に確認したのは、枕元のスマホだった。
通知は特に増えていない。
それなのに、画面を見ているだけで胸のあたりが少しくすぐったい。
昨夜、送ったメッセージの履歴が、そのまま残っている。
『今日は来てくれてありがとう
ちゃんと伝えてくれて、すごく嬉しかった
明日も、いつも通り、教室でね
——彼女より』
送信するとき、最後の一行をつけるかどうか、かなり迷った。
素直に「彼女」と書けるほど、年齢を重ねたつもりはない。
でも、いつまでも「先輩」でいたくもない。
ほんの少し勇気を出して、「彼女」と打った。
送信ボタンを押したあと、布団に顔を埋めてしばらく転がっていたのは、さすがに誰にも見られたくない。
(返事、来るかな)
そんな不安も、悠人くんからのまっすぐな返信で消えていった。
寝る前の最後の文字には、照れながらも「嬉しいです」と書いてあって、
それを見た瞬間、思わずスマホを胸に抱きしめてしまった。
――だから今朝、目覚ましより早く目が覚めたのも、無理はない。
◇
キャンパスへ向かう道は、いつもと同じはずだった。
でも、妙に世界の色が違って見える。
これまでも「先輩」として歩いてきた道で、
今日からは、“誰かの彼女”としても歩いている。
その“誰か”は、まだ一年生で、真面目で、不器用で、
高校のときからずっとどこか気になる存在だった。
(やっと、隣に立てたんだな)
少しだけ頬が緩むのを自覚しながら、教室に向かう。
先に席についてノートを広げ、なんとなく窓の外を眺めていると、
扉の方から足音がした。
「おはよう、悠人くん」
いつもと同じ言葉。
でも、今日はちゃんと、「彼氏にかける挨拶」として口に出した。
「おはようございます、深雪さん」
返ってきた声は、ほんの少しだけ上ずっている。
顔も、少し赤い。
(かわいい)
心の中で素直な感想が浮かんで、
それを悟られないように、わざと軽口を挟んだ。
「顔、ちょっと赤い」
「気のせいです」
気のせい、ね。
こういうときの彼の「気のせい」は、だいたい“図星だけど恥ずかしい”の意味だ。
◇
講義が始まると、できるだけいつも通りを装った。
ペンを動かし、先生の言葉をノートに整理しながら、
横から視線を感じるたび、少しだけ口元が緩みそうになる。
(見ないで授業聞きなさい)
本気で怒っているわけじゃない。むしろ、嬉しい。
だけどここで甘やかしすぎると、彼はきっと自分を後回しにしてしまう。
あの高校生のときみたいに。
だから、黒板を向きながら、こっそり口パクで「授業」とだけ伝えた。
ちゃんと伝わったようで、慌てて前を向く動きが視界の端に見える。
それを見て、胸の奥で小さく笑った。
(ほんと、変わってないところと変わったところが、いいバランス)
◇
昼休み、学食は案の定混み合っていた。
列を見てすぐに、「これは時間をずらした方が賢いな」と判断する。
「先に、ちょっと外歩かない?」
そう提案すると、悠人くんは少し驚いたような顔をしてから頷いた。
学部棟の裏で風に当たりながら、他愛もない会話をしているうちに、
ふと、どうしても確認しておきたいことが胸の奥に浮かび上がってきた。
(今のうちに聞いておかないと、きっと後で後悔する)
テストをがんばって、告白まで受け止めてくれた彼に、
「大事な確認」をするのは少しだけ意地悪かもしれない。
だけど、自分の年齢も立場も考えると、
「曖昧な関係」のまま流れていくのが一番怖かった。
「ひとつ、大事な確認してもいい?」
そう切り出すと、悠人くんの肩が少しだけ固くなる。
「昨日、ちゃんと“付き合おう”って言ったけど――
今日から、私のこと、“彼女”って認識してくれてる?」
自分で聞いておきながら、返事を待つ間、心臓がやたらとうるさい。
バカみたいな質問だと分かっている。
でも、言葉にしてもらわないと、不安が完全には消えない。
「当たり前じゃないですか」
返ってきたのは、迷いのない声だった。
「昨日、あれだけ俺の感情を引っ張り出しておいて、それで“ただの先輩に戻ります”なんて言われたら、多分立ち直れません」
その言葉に、思わず笑ってしまう。
(ごめん、ちょっと意地悪だったね)
そう心の中で謝りながらも、胸の奥があたたかくなる。
「じゃあ、もうひとつ」
本当に聞きたいのは、ここから。
「これからさ。誰かに聞かれたら、“彼女です”って言ってくれる?」
少し間が空いてから、彼ははっきりと答えた。
「……言います」
“言えます”じゃなく、“言います”。
そこにきちんと、自分で決めた意志を感じて、嬉しくなった。
「じゃあ、私も同じこと言うね。聞かれたら、“彼氏です”って言う」
思っていた以上に、その言葉を口にするのは照れくさかった。
けれど、悠人くんの耳まで赤くなったのを見て、「言ってよかった」と心から思った。
◇
学食で食事をしているとき、予想通り、近くのテーブルから小さな声が聞こえた。
「ねぇ、あれ藤堂先輩じゃない?」
「ほんとだ。隣の一年、またあの子か」
大学には噂がつきものだ。
特に、自分のような立場の人間が一年生と頻繁に一緒にいれば、なおさら。
(そりゃそうだよね)
少しだけ肩に力が入るのを感じる。でもすぐ、それを抜いた。
「さっきの、聞こえてた?」
悠人くんの表情を確かめながら、小さな声で尋ねる。
「……少しだけ」
正直でいい。無理に「気づいてませんでした」と言われるよりずっと。
「嫌だった?」
本当に心配だった。
高校のときの彼は、「自分が噂の中心になる」なんて想像もしていなかっただろうから。
「……正直、怖くないと言えば嘘になります」
そこまでは予想通りだった。
けれど、その直後に続いた言葉は、完全に想定外だった。
「でも、それ以上に、嬉しいです」
胸の奥で、何かが鳴った気がした。
「“一緒にいるところを見られるのが怖い”より、“この人の隣にいてもいいって思ってもらえてる”方が大きいので」
箸を持つ手が、ほんの少しだけ震えた。
(ずるいな、この子)
思わず口から漏れてしまった言葉は、本音だった。
「それ言われたら、私の方がもっと噂とかどうでもよくなっちゃう」
大学三年にもなって、こんなふうに誰かの言葉一つで揺らぐ自分が、少し可笑しくて、でも誇らしくもあった。
「“この人の隣にいていい”って、私もずっと思ってたからさ」
本当の気持ちを、少しだけ混ぜて返す。
彼はきっと、まだ自分がどれだけ特別視されているか気づいていない。
それでいい。
時間をかけて、少しずつ伝えていけばいい。
◇
放課後、長谷部くんに声をかけられたときは、なんとなく予感がしていた。
「今日、みんなでテストお疲れ飲み行くけど、お前もどう?」
それに対して、悠人くんがこちらをちらりと見る。
(さて、どうするかな)
“先輩”としてなら、「行ってきなよ」と背中を押すところだ。
でも“彼女”としては、彼が自分でどう言うかを見ていたかった。
「えっと、今日は――これから、深雪さんと一緒に過ごす約束があって」
言ってくれた。
ちゃんと、自分の意思で。
長谷部くんの顔に一瞬驚きが浮かび、そのあとすぐにニヤニヤした表情に変わる。
(あの子も、いい友達だな)
「先輩、大事にしろよ」
そう言い残して去っていく背中を見て、
心の中で「ありがとう」と小さく呟いた。
◇
駅前に向かう夕方の道を、並んで歩く。
周りには他にも学生や会社員がいて、誰も私たちを特別視してはいない。
それでも、自分にとっては、ここが世界の中心だった。
信号待ちのとき、
何となく、彼の手首に指先を伸ばして、軽くつまむ。
驚いた顔でこちらを見る悠人くんに、思わず笑ってしまった。
「練習」
「練習?」と聞き返す顔が、あまりにも真面目で、余計に笑いそうになる。
「いつかちゃんと、手、繋ぐための」
高校のとき、図書室の窓から見ていた後輩。
あのときは遠すぎて、名前も呼べなかった。
今は、名前を呼べる。すぐ隣にいる。
指先ひとつで、触れられる。
(急ぎすぎなくていい。ゆっくりでいい)
彼の歩幅に合わせながら、そう思った。
「……がんばります」
真剣な顔でそう言う彼を見て、
胸の奥で何かがきゅうっと締めつけられる。
「期待してる」
その言葉に、
自分自身の期待も、静かに重ねていた。
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