第17話 彼女になった日 side 深雪

 朝、目が覚めて最初に確認したのは、枕元のスマホだった。


 通知は特に増えていない。

 それなのに、画面を見ているだけで胸のあたりが少しくすぐったい。


 昨夜、送ったメッセージの履歴が、そのまま残っている。


『今日は来てくれてありがとう

 ちゃんと伝えてくれて、すごく嬉しかった

 明日も、いつも通り、教室でね

 ——彼女より』


 送信するとき、最後の一行をつけるかどうか、かなり迷った。

 素直に「彼女」と書けるほど、年齢を重ねたつもりはない。

 でも、いつまでも「先輩」でいたくもない。


 ほんの少し勇気を出して、「彼女」と打った。

 送信ボタンを押したあと、布団に顔を埋めてしばらく転がっていたのは、さすがに誰にも見られたくない。


(返事、来るかな)


 そんな不安も、悠人くんからのまっすぐな返信で消えていった。

 寝る前の最後の文字には、照れながらも「嬉しいです」と書いてあって、

 それを見た瞬間、思わずスマホを胸に抱きしめてしまった。


 ――だから今朝、目覚ましより早く目が覚めたのも、無理はない。



 キャンパスへ向かう道は、いつもと同じはずだった。

 でも、妙に世界の色が違って見える。


 これまでも「先輩」として歩いてきた道で、

 今日からは、“誰かの彼女”としても歩いている。


 その“誰か”は、まだ一年生で、真面目で、不器用で、

 高校のときからずっとどこか気になる存在だった。


(やっと、隣に立てたんだな)


 少しだけ頬が緩むのを自覚しながら、教室に向かう。


 先に席についてノートを広げ、なんとなく窓の外を眺めていると、

 扉の方から足音がした。


「おはよう、悠人くん」


 いつもと同じ言葉。

 でも、今日はちゃんと、「彼氏にかける挨拶」として口に出した。


「おはようございます、深雪さん」


 返ってきた声は、ほんの少しだけ上ずっている。

 顔も、少し赤い。


(かわいい)


 心の中で素直な感想が浮かんで、

 それを悟られないように、わざと軽口を挟んだ。


「顔、ちょっと赤い」

「気のせいです」


 気のせい、ね。

 こういうときの彼の「気のせい」は、だいたい“図星だけど恥ずかしい”の意味だ。



 講義が始まると、できるだけいつも通りを装った。

 ペンを動かし、先生の言葉をノートに整理しながら、

 横から視線を感じるたび、少しだけ口元が緩みそうになる。


(見ないで授業聞きなさい)


 本気で怒っているわけじゃない。むしろ、嬉しい。

 だけどここで甘やかしすぎると、彼はきっと自分を後回しにしてしまう。


 あの高校生のときみたいに。


 だから、黒板を向きながら、こっそり口パクで「授業」とだけ伝えた。


 ちゃんと伝わったようで、慌てて前を向く動きが視界の端に見える。

 それを見て、胸の奥で小さく笑った。


(ほんと、変わってないところと変わったところが、いいバランス)



 昼休み、学食は案の定混み合っていた。

 列を見てすぐに、「これは時間をずらした方が賢いな」と判断する。


「先に、ちょっと外歩かない?」


 そう提案すると、悠人くんは少し驚いたような顔をしてから頷いた。


 学部棟の裏で風に当たりながら、他愛もない会話をしているうちに、

 ふと、どうしても確認しておきたいことが胸の奥に浮かび上がってきた。


(今のうちに聞いておかないと、きっと後で後悔する)


 テストをがんばって、告白まで受け止めてくれた彼に、

「大事な確認」をするのは少しだけ意地悪かもしれない。


 だけど、自分の年齢も立場も考えると、

 「曖昧な関係」のまま流れていくのが一番怖かった。


「ひとつ、大事な確認してもいい?」


 そう切り出すと、悠人くんの肩が少しだけ固くなる。


「昨日、ちゃんと“付き合おう”って言ったけど――

 今日から、私のこと、“彼女”って認識してくれてる?」


 自分で聞いておきながら、返事を待つ間、心臓がやたらとうるさい。

 バカみたいな質問だと分かっている。

 でも、言葉にしてもらわないと、不安が完全には消えない。


「当たり前じゃないですか」


 返ってきたのは、迷いのない声だった。


「昨日、あれだけ俺の感情を引っ張り出しておいて、それで“ただの先輩に戻ります”なんて言われたら、多分立ち直れません」


 その言葉に、思わず笑ってしまう。


(ごめん、ちょっと意地悪だったね)


 そう心の中で謝りながらも、胸の奥があたたかくなる。


「じゃあ、もうひとつ」


 本当に聞きたいのは、ここから。


「これからさ。誰かに聞かれたら、“彼女です”って言ってくれる?」


 少し間が空いてから、彼ははっきりと答えた。


「……言います」


“言えます”じゃなく、“言います”。

 そこにきちんと、自分で決めた意志を感じて、嬉しくなった。


「じゃあ、私も同じこと言うね。聞かれたら、“彼氏です”って言う」


 思っていた以上に、その言葉を口にするのは照れくさかった。

 けれど、悠人くんの耳まで赤くなったのを見て、「言ってよかった」と心から思った。



 学食で食事をしているとき、予想通り、近くのテーブルから小さな声が聞こえた。


「ねぇ、あれ藤堂先輩じゃない?」

「ほんとだ。隣の一年、またあの子か」


 大学には噂がつきものだ。

 特に、自分のような立場の人間が一年生と頻繁に一緒にいれば、なおさら。


(そりゃそうだよね)


 少しだけ肩に力が入るのを感じる。でもすぐ、それを抜いた。


「さっきの、聞こえてた?」


 悠人くんの表情を確かめながら、小さな声で尋ねる。


「……少しだけ」


 正直でいい。無理に「気づいてませんでした」と言われるよりずっと。


「嫌だった?」


 本当に心配だった。

 高校のときの彼は、「自分が噂の中心になる」なんて想像もしていなかっただろうから。


「……正直、怖くないと言えば嘘になります」


 そこまでは予想通りだった。

 けれど、その直後に続いた言葉は、完全に想定外だった。


「でも、それ以上に、嬉しいです」


 胸の奥で、何かが鳴った気がした。


「“一緒にいるところを見られるのが怖い”より、“この人の隣にいてもいいって思ってもらえてる”方が大きいので」


 箸を持つ手が、ほんの少しだけ震えた。


(ずるいな、この子)


 思わず口から漏れてしまった言葉は、本音だった。


「それ言われたら、私の方がもっと噂とかどうでもよくなっちゃう」


 大学三年にもなって、こんなふうに誰かの言葉一つで揺らぐ自分が、少し可笑しくて、でも誇らしくもあった。


「“この人の隣にいていい”って、私もずっと思ってたからさ」


 本当の気持ちを、少しだけ混ぜて返す。


 彼はきっと、まだ自分がどれだけ特別視されているか気づいていない。

 それでいい。

 時間をかけて、少しずつ伝えていけばいい。



 放課後、長谷部くんに声をかけられたときは、なんとなく予感がしていた。


「今日、みんなでテストお疲れ飲み行くけど、お前もどう?」


 それに対して、悠人くんがこちらをちらりと見る。


(さて、どうするかな)


“先輩”としてなら、「行ってきなよ」と背中を押すところだ。

 でも“彼女”としては、彼が自分でどう言うかを見ていたかった。


「えっと、今日は――これから、深雪さんと一緒に過ごす約束があって」


 言ってくれた。

 ちゃんと、自分の意思で。


 長谷部くんの顔に一瞬驚きが浮かび、そのあとすぐにニヤニヤした表情に変わる。


(あの子も、いい友達だな)


「先輩、大事にしろよ」


 そう言い残して去っていく背中を見て、

 心の中で「ありがとう」と小さく呟いた。



 駅前に向かう夕方の道を、並んで歩く。

 周りには他にも学生や会社員がいて、誰も私たちを特別視してはいない。


 それでも、自分にとっては、ここが世界の中心だった。


 信号待ちのとき、

 何となく、彼の手首に指先を伸ばして、軽くつまむ。


 驚いた顔でこちらを見る悠人くんに、思わず笑ってしまった。


「練習」


「練習?」と聞き返す顔が、あまりにも真面目で、余計に笑いそうになる。


「いつかちゃんと、手、繋ぐための」


 高校のとき、図書室の窓から見ていた後輩。

 あのときは遠すぎて、名前も呼べなかった。


 今は、名前を呼べる。すぐ隣にいる。

 指先ひとつで、触れられる。


(急ぎすぎなくていい。ゆっくりでいい)


 彼の歩幅に合わせながら、そう思った。


「……がんばります」


 真剣な顔でそう言う彼を見て、

 胸の奥で何かがきゅうっと締めつけられる。


「期待してる」


 その言葉に、

 自分自身の期待も、静かに重ねていた。

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