第16話 彼女になった先輩

 告白をして、告白を受けて、二人とも「好きです」と言葉にしたはずなのに、翌朝の目覚めは意外なほどいつも通りだった。

 布団の感触も、天井のシミも、鳴り響く目覚ましも、何も変わっていない。


 それでも、スマホの画面だけは、昨日までとは違って見えた。

 通知の一覧の中に、「藤堂深雪」という名前が、特別な意味を持っている。


 昨夜の最後のメッセージを開く。


『今日は来てくれてありがとう

 ちゃんと伝えてくれて、すごく嬉しかった

 明日も、いつも通り、教室でね

 ——彼女より』


 最後の一行を読み返すたびに、布団の中で転げ回りたくなる。

「彼女より」と締められたメッセージを、人生で初めて受け取った。


(……ほんとに、付き合ってるんだよな)


 胸の真ん中を、じんわりと温かいものが広がっていく。

 夢じゃないかと疑って、何度も画面を閉じては開いた。


 結局、寝坊しかけて慌てて支度をするあたり、根本的な生活力は変わっていない。



 キャンパスに着くと、いつもの人の流れがあった。

 行き交う学生の中に紛れて歩いていると、ふっと自分だけ別の世界にいるような不思議な感覚がする。


(この中で、“付き合ってる相手がいる”って自覚があるの、どれくらいなんだろう)


 そんなことを考えながら教室に入ると、いつもの席に、いつものように深雪さんが座っていた。

 窓際、ノートを広げてペンを手にし、少し遠くを眺めてからこちらに気づいて笑う。


「おはよう、悠人くん」


 同じ言葉なのに、まるで違って聞こえた。


「おはようございます、深雪さん」


 一瞬「おはよう、深雪」と呼びかけそうになって、喉の奥で慌ててブレーキをかける。

 昨日、あれだけ“自分の言葉で言う”ってがんばったのに、一晩明けたら急に小心者に戻っていた。


「顔、ちょっと赤い」

「気のせいです」

「ふふ、そういうことにしといてあげる」


 冗談のように笑いながら、隣の席を軽く叩く。

 自然な仕草なのに、「隣に座ること」が急に特別な意味を持ち始めていた。


 講義が始まると、いつものように先生の声と黒板のチョークの音が教室に満ちる。

 深雪さんは真面目にノートを取り、俺もそれを手本にペンを走らせる。


 ただ、時々、彼女の横顔を見てしまうのは仕方がないことだと思いたかった。


 頬杖をついている指先、視線を走らせるときの目線の動き、自分のノートに少しだけ眉をひそめて考え込む癖。

 今までも見ていたはずなのに、「自分の彼女」と思うだけで、全部が少しだけ違って見える。


 やがて視線が重なる。


 深雪さんは、ペンを持ったまま小さく口だけ動かした。


――授業。


 無言の口パクで注意され、慌てて前を向く。

 胸の中で「すみません」と呟きながら黒板に目を戻したが、しばらくは文字が頭に入ってこなかった。



 昼休み。


 学食は、いつも以上に混んでいた。

 テストが終わった解放感からか、大盛りメニューを頼んでいる学生が多い。


「どうする? 学食で並ぶ?」

「けっこう時間かかりそうですね」

「じゃあ、少し時間ずらそっか」


 そう言いつつ、深雪さんが俺の袖を軽くつまんだ。


「先に、ちょっと外歩かない?」


 二人で学部棟の裏手に回ると、そこは昼休みの喧騒から少し距離を置いた静かなスペースになっていた。

 ベンチがいくつか置かれていて、数人の学生が思い思いの時間を過ごしている。


 その一角に座ると、風が少しだけ涼しい。


「テストが全部終わった日の朝ってさ、どんな気分?」


 深雪さんが、ペットボトルの水を一口飲んでから尋ねてくる。


「晴れやか、というより、抜け殻に近かったです」

「分かる。私も最初の期末のときそうだったな」


 少し懐かしそうに笑いながら、彼女は続けた。


「でもさ、今回はそれだけじゃない感じする」

「それだけじゃない?」

「うん。悠人くん、顔が“少し誇らしそう”」


 誇らしそう――と聞いて、思わず視線を落とす。


「自分で決めて、自分でがんばったテストだったから、かな」


 そう言われて、胸の中の何かにそっと光を当てられた気がした。


「高校のときの私、多分その感覚をちゃんと味わえなかったからさ」


 図書室にこもって「ちゃんとした自分」でいようとしていた頃の話だろう。


「だから、悠人くんが今、そうやって少し誇らしそうに“終わった”って言えるの、見るの好き」


 言葉の端々に、温かさが滲んでいる。

 それが嬉しくて、照れくさくて、胸が忙しい。


「ねぇ、悠人くん」


 ふと、深雪さんが真顔になる。


「ひとつ、大事な確認してもいい?」


 大事、という言葉に少し身構える。


「き、確認?」

「うん。昨日、ちゃんと“付き合おう”って言ったけど」


 そこで、少しだけ間が空く。


「今日から、私のこと、“彼女”って認識してくれてる?」


 あまりにもストレートな確認に、反射的に背筋が伸びた。


「当たり前じゃないですか」


 今度は、即答だった。


「昨日、あれだけ俺の感情を引っ張り出しておいて、それで“ただの先輩に戻ります”なんて言われたら、多分立ち直れません」


 深雪さんは、目を丸くしたあと、ふっと笑った。


「よかった。……じゃあ、もうひとつ」


「まだあるんですか」


「これからさ」


 彼女は少しだけ視線を落とし、いつもより慎重に言葉を選んでいるように見えた。


「誰かに聞かれたら、“彼女です”って言ってくれる?」


 喉がきゅっと鳴る感覚。


「……言います」


 少し間を置いてから、はっきりと答えた。


「“言えます”、じゃなくて、“言います”なんですね」


 深雪さんが、どこか嬉しそうに目を細める。


「自分で決めたことなので」


 そう言うしかなかった。

 周りの目がゼロになることはない。

 噂が完全に消えることもないだろう。


 それでも、「誰と一緒にいたいか」を選ぶ権利は、自分たちのものだ。


「じゃあ、私も同じこと言うね」


 彼女は小さく笑って続けた。


「聞かれたら、“彼氏です”って言う」


 その一言が、心臓に直接刺さった。


「……心の準備が」

「もう遅いよ。昨日の時点で覚悟してもらってます」


 そう言って、肩を軽くぶつけられる。

 その何でもない接触さえ、やけに意識してしまう。



 少し遅めの時間に学食へ向かうと、ピークは過ぎていて、いつもよりは空いていた。

 二人でトレーを持って列に並び、日替わり定食とサラダを選ぶ。


 ふいに、近くのテーブルから声が聞こえた。


「ねぇ、あれ藤堂先輩じゃない?」

「ほんとだ。隣の一年、またあの子か」

「最近いつも一緒にいるよね。もしかしてさ――」


 途切れた言葉の続きは、想像がついた。

 一瞬だけ足が止まりそうになる。


 けれど、隣でトレーを持った深雪さんは、表情を変えなかった。

 並んで席に座り、箸を手に取る。


「いただきます」

「いただきます」


 普通の会話をしながら、食事が進んでいく。

 少しだけ落ち着いた頃、深雪さんが小声で言った。


「さっきの、聞こえてた?」


「……少しだけ」


 嘘ではない。全部聞こえていた。


「嫌だった?」


 問いは、柔らかいけれど真剣だ。


「……正直、怖くないと言えば嘘になります」


 ごまかさずに言葉にする。


「でも、それ以上に、嬉しいです」


 そこまで言って、自分で驚く。

 嬉しい。そう感じていることに。


「“一緒にいるところを見られるのが怖い”より、

 “この人の隣にいてもいいって思ってもらえてる”方が大きいので」


 顔が熱い。耳まで赤くなっている気がする。

 深雪さんは、箸を持った手を少しだけ止めてから、静かに笑った。


「……ずるい」


「え?」

「それ言われたら、私の方がもっと噂とかどうでもよくなっちゃう」


 少し視線を伏せて続ける。


「“この人の隣にいていい”って、私もずっと思ってたからさ」


 胸がいっぱいになって、しばらく言葉が出なかった。



 その日の放課後。

 学部棟から出るとき、後ろから声をかけられた。


「おーい、悠人ー!」


 長谷部だ。


「今日、みんなでテストお疲れ飲み行くけど、お前もどう?」


「ごめん、今日はちょっと……」


 断ろうとして、ふと横を見る。

 深雪さんが、少しだけ首を傾げていた。

「予定ある?」と目で聞かれている気がする。


「えっと、今日は――」


 迷った末に、正直に言った。


「これから、深雪さんと一緒に過ごす約束があって」


 長谷部は一瞬目を丸くしたあと、すぐにニヤリと笑った。


「あー、そういう」


 妙に納得したような相槌。


「じゃあ、また今度にしとくわ。……先輩、大事にしろよ」


 最後のひと言は、からかい半分、本音半分に聞こえた。


「すみません」

「謝るな、バカ。そういうのは“ありがとう”って言っとけ」


 そう言い残して、彼は手を振って去っていった。


「いい友達だね」


 深雪さんが、少しだけ笑いながら言う。


「はい。からかってきますけど」

「からかえるってことは、それだけ安心して見てくれてるってことだよ」


 そう言われると、妙に納得できた。



 そのあと、二人で駅前まで歩きながら、他愛もない話をした。

 テストの難問の話、周りの学生の珍回答予想、夏のサークル勧誘の雰囲気。


 会話のひとつひとつが、以前と同じようで、でも少しだけ違っていた。

 ふとした瞬間に、指が触れそうになる距離。

 名前を呼ぶ声の温度。


 信号待ちのとき、不意に手首を軽くつままれた。


「……?」


 驚いて彼女を見ると、深雪さんは、人差し指を唇に当てて小さく笑った。


「練習」

「練習?」

「いつかちゃんと、手、繋ぐための」


 それはあまりにも柔らかい予告だった。


 心臓はとっくに準備万端なのに、手のひらだけがまだ落ち着かない。

 でも、その“不釣り合い”さえ、今は楽しい。


「……がんばります」


 真剣にそう答えると、深雪さんは吹き出しそうになりながらも、嬉しそうに頷いた。


「期待してる」


 夕方の光の中でそう言った彼女は、やっぱり少しだけ反則だと思った。

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