第16話 彼女になった先輩
告白をして、告白を受けて、二人とも「好きです」と言葉にしたはずなのに、翌朝の目覚めは意外なほどいつも通りだった。
布団の感触も、天井のシミも、鳴り響く目覚ましも、何も変わっていない。
それでも、スマホの画面だけは、昨日までとは違って見えた。
通知の一覧の中に、「藤堂深雪」という名前が、特別な意味を持っている。
昨夜の最後のメッセージを開く。
『今日は来てくれてありがとう
ちゃんと伝えてくれて、すごく嬉しかった
明日も、いつも通り、教室でね
——彼女より』
最後の一行を読み返すたびに、布団の中で転げ回りたくなる。
「彼女より」と締められたメッセージを、人生で初めて受け取った。
(……ほんとに、付き合ってるんだよな)
胸の真ん中を、じんわりと温かいものが広がっていく。
夢じゃないかと疑って、何度も画面を閉じては開いた。
結局、寝坊しかけて慌てて支度をするあたり、根本的な生活力は変わっていない。
◇
キャンパスに着くと、いつもの人の流れがあった。
行き交う学生の中に紛れて歩いていると、ふっと自分だけ別の世界にいるような不思議な感覚がする。
(この中で、“付き合ってる相手がいる”って自覚があるの、どれくらいなんだろう)
そんなことを考えながら教室に入ると、いつもの席に、いつものように深雪さんが座っていた。
窓際、ノートを広げてペンを手にし、少し遠くを眺めてからこちらに気づいて笑う。
「おはよう、悠人くん」
同じ言葉なのに、まるで違って聞こえた。
「おはようございます、深雪さん」
一瞬「おはよう、深雪」と呼びかけそうになって、喉の奥で慌ててブレーキをかける。
昨日、あれだけ“自分の言葉で言う”ってがんばったのに、一晩明けたら急に小心者に戻っていた。
「顔、ちょっと赤い」
「気のせいです」
「ふふ、そういうことにしといてあげる」
冗談のように笑いながら、隣の席を軽く叩く。
自然な仕草なのに、「隣に座ること」が急に特別な意味を持ち始めていた。
講義が始まると、いつものように先生の声と黒板のチョークの音が教室に満ちる。
深雪さんは真面目にノートを取り、俺もそれを手本にペンを走らせる。
ただ、時々、彼女の横顔を見てしまうのは仕方がないことだと思いたかった。
頬杖をついている指先、視線を走らせるときの目線の動き、自分のノートに少しだけ眉をひそめて考え込む癖。
今までも見ていたはずなのに、「自分の彼女」と思うだけで、全部が少しだけ違って見える。
やがて視線が重なる。
深雪さんは、ペンを持ったまま小さく口だけ動かした。
――授業。
無言の口パクで注意され、慌てて前を向く。
胸の中で「すみません」と呟きながら黒板に目を戻したが、しばらくは文字が頭に入ってこなかった。
◇
昼休み。
学食は、いつも以上に混んでいた。
テストが終わった解放感からか、大盛りメニューを頼んでいる学生が多い。
「どうする? 学食で並ぶ?」
「けっこう時間かかりそうですね」
「じゃあ、少し時間ずらそっか」
そう言いつつ、深雪さんが俺の袖を軽くつまんだ。
「先に、ちょっと外歩かない?」
二人で学部棟の裏手に回ると、そこは昼休みの喧騒から少し距離を置いた静かなスペースになっていた。
ベンチがいくつか置かれていて、数人の学生が思い思いの時間を過ごしている。
その一角に座ると、風が少しだけ涼しい。
「テストが全部終わった日の朝ってさ、どんな気分?」
深雪さんが、ペットボトルの水を一口飲んでから尋ねてくる。
「晴れやか、というより、抜け殻に近かったです」
「分かる。私も最初の期末のときそうだったな」
少し懐かしそうに笑いながら、彼女は続けた。
「でもさ、今回はそれだけじゃない感じする」
「それだけじゃない?」
「うん。悠人くん、顔が“少し誇らしそう”」
誇らしそう――と聞いて、思わず視線を落とす。
「自分で決めて、自分でがんばったテストだったから、かな」
そう言われて、胸の中の何かにそっと光を当てられた気がした。
「高校のときの私、多分その感覚をちゃんと味わえなかったからさ」
図書室にこもって「ちゃんとした自分」でいようとしていた頃の話だろう。
「だから、悠人くんが今、そうやって少し誇らしそうに“終わった”って言えるの、見るの好き」
言葉の端々に、温かさが滲んでいる。
それが嬉しくて、照れくさくて、胸が忙しい。
「ねぇ、悠人くん」
ふと、深雪さんが真顔になる。
「ひとつ、大事な確認してもいい?」
大事、という言葉に少し身構える。
「き、確認?」
「うん。昨日、ちゃんと“付き合おう”って言ったけど」
そこで、少しだけ間が空く。
「今日から、私のこと、“彼女”って認識してくれてる?」
あまりにもストレートな確認に、反射的に背筋が伸びた。
「当たり前じゃないですか」
今度は、即答だった。
「昨日、あれだけ俺の感情を引っ張り出しておいて、それで“ただの先輩に戻ります”なんて言われたら、多分立ち直れません」
深雪さんは、目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「よかった。……じゃあ、もうひとつ」
「まだあるんですか」
「これからさ」
彼女は少しだけ視線を落とし、いつもより慎重に言葉を選んでいるように見えた。
「誰かに聞かれたら、“彼女です”って言ってくれる?」
喉がきゅっと鳴る感覚。
「……言います」
少し間を置いてから、はっきりと答えた。
「“言えます”、じゃなくて、“言います”なんですね」
深雪さんが、どこか嬉しそうに目を細める。
「自分で決めたことなので」
そう言うしかなかった。
周りの目がゼロになることはない。
噂が完全に消えることもないだろう。
それでも、「誰と一緒にいたいか」を選ぶ権利は、自分たちのものだ。
「じゃあ、私も同じこと言うね」
彼女は小さく笑って続けた。
「聞かれたら、“彼氏です”って言う」
その一言が、心臓に直接刺さった。
「……心の準備が」
「もう遅いよ。昨日の時点で覚悟してもらってます」
そう言って、肩を軽くぶつけられる。
その何でもない接触さえ、やけに意識してしまう。
◇
少し遅めの時間に学食へ向かうと、ピークは過ぎていて、いつもよりは空いていた。
二人でトレーを持って列に並び、日替わり定食とサラダを選ぶ。
ふいに、近くのテーブルから声が聞こえた。
「ねぇ、あれ藤堂先輩じゃない?」
「ほんとだ。隣の一年、またあの子か」
「最近いつも一緒にいるよね。もしかしてさ――」
途切れた言葉の続きは、想像がついた。
一瞬だけ足が止まりそうになる。
けれど、隣でトレーを持った深雪さんは、表情を変えなかった。
並んで席に座り、箸を手に取る。
「いただきます」
「いただきます」
普通の会話をしながら、食事が進んでいく。
少しだけ落ち着いた頃、深雪さんが小声で言った。
「さっきの、聞こえてた?」
「……少しだけ」
嘘ではない。全部聞こえていた。
「嫌だった?」
問いは、柔らかいけれど真剣だ。
「……正直、怖くないと言えば嘘になります」
ごまかさずに言葉にする。
「でも、それ以上に、嬉しいです」
そこまで言って、自分で驚く。
嬉しい。そう感じていることに。
「“一緒にいるところを見られるのが怖い”より、
“この人の隣にいてもいいって思ってもらえてる”方が大きいので」
顔が熱い。耳まで赤くなっている気がする。
深雪さんは、箸を持った手を少しだけ止めてから、静かに笑った。
「……ずるい」
「え?」
「それ言われたら、私の方がもっと噂とかどうでもよくなっちゃう」
少し視線を伏せて続ける。
「“この人の隣にいていい”って、私もずっと思ってたからさ」
胸がいっぱいになって、しばらく言葉が出なかった。
◇
その日の放課後。
学部棟から出るとき、後ろから声をかけられた。
「おーい、悠人ー!」
長谷部だ。
「今日、みんなでテストお疲れ飲み行くけど、お前もどう?」
「ごめん、今日はちょっと……」
断ろうとして、ふと横を見る。
深雪さんが、少しだけ首を傾げていた。
「予定ある?」と目で聞かれている気がする。
「えっと、今日は――」
迷った末に、正直に言った。
「これから、深雪さんと一緒に過ごす約束があって」
長谷部は一瞬目を丸くしたあと、すぐにニヤリと笑った。
「あー、そういう」
妙に納得したような相槌。
「じゃあ、また今度にしとくわ。……先輩、大事にしろよ」
最後のひと言は、からかい半分、本音半分に聞こえた。
「すみません」
「謝るな、バカ。そういうのは“ありがとう”って言っとけ」
そう言い残して、彼は手を振って去っていった。
「いい友達だね」
深雪さんが、少しだけ笑いながら言う。
「はい。からかってきますけど」
「からかえるってことは、それだけ安心して見てくれてるってことだよ」
そう言われると、妙に納得できた。
◇
そのあと、二人で駅前まで歩きながら、他愛もない話をした。
テストの難問の話、周りの学生の珍回答予想、夏のサークル勧誘の雰囲気。
会話のひとつひとつが、以前と同じようで、でも少しだけ違っていた。
ふとした瞬間に、指が触れそうになる距離。
名前を呼ぶ声の温度。
信号待ちのとき、不意に手首を軽くつままれた。
「……?」
驚いて彼女を見ると、深雪さんは、人差し指を唇に当てて小さく笑った。
「練習」
「練習?」
「いつかちゃんと、手、繋ぐための」
それはあまりにも柔らかい予告だった。
心臓はとっくに準備万端なのに、手のひらだけがまだ落ち着かない。
でも、その“不釣り合い”さえ、今は楽しい。
「……がんばります」
真剣にそう答えると、深雪さんは吹き出しそうになりながらも、嬉しそうに頷いた。
「期待してる」
夕方の光の中でそう言った彼女は、やっぱり少しだけ反則だと思った。
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