暇つぶしがてらスーに勉強を教えることにした。中学もろくに通っていないので難しいことは教えられないが。


 しかし、いざ教え始めると驚いた。

 スーは同年代の子供が当たり前に知っているような、ひらがなや足し算さえ知らなかった。時間の概念もなく、ただ昼と夜が交互にやってくることしか知らない。他に知っているのは空、川、草、水、ビスケットぐらいのものだった。


 これはいけないと思い、文字や算数は後回しにした。代わりに山小屋で生活するうえで必要なことを教えた。昼は外に出てもいいが、夜は小屋の中にいること。空が暴れているときは外に出ないこと。もし霧の中で迷ったら晴れるまでその場を動かないこと。食べられる草や木の実、魚の釣り方、缶詰のおいしい食べ合わせ、料理の仕方を教えた。


 そのおかげか以前よりもスーの口数が増えた。向こうから話しかけてくることも多くなった。内容は主に質問だった。


「消費期限を過ぎたら絶対に食べちゃだめ?」

「腹を壊すかもしれないから食べない方がいいな。まあ食っても大丈夫なことが多いけど。生ものはやめておけよ」

「九時には絶対に寝なきゃだめ?」

「ああ。背が伸びないぞ」

「もし夜に一人で出かけたら、怒る?」

「怒る。だから絶対にするな。行きたい場所があるのなら相談しろ」


 俺について質問してくることもあった。


「ここに来る前はどこにいたの?」

「東京。人の多い町だよ」

「おうちは大きい?」

「いいや。ここと同じくらいだ」

「家族はいるの?」

「……ああ、いるよ。ちょうどお前と同じくらいの娘が」

「その子は今どこにいるの? 一緒にいなくていいの?」

「……死んだんだ」


 いざ口に出すと自分でも予想外に胸が締めつけられた。堪らず、一人で小屋を出た。


 小屋の外は手の先も見えない濃霧だった。気持ちを落ち着けるために歩こうと思ったが、これではどこへも行けない。深呼吸をすると深いペトリコールが香った。


 ふいに、この場所に閉じ込められているような感覚に襲われた。芽愛梨めありが死んでからの毎日と同じだ。過去に戻ることも進むこともできず、ただその場に留まり続けている。

 背後で小屋の扉の軋む音がする。


「ごめんなさい」


 振り向くと少し離れたところにスーが立っていた。


「子供が変な気を遣うな。気になったから聞いたんだろ? それでいいんだ」


 スーは三度瞬き、頷いた。

 そもそも聞きたいのはこちらの方だった。


 山小屋へ来て三週間が経つ。この観察期間が過ぎたらスーはどこへ行くのか。

 親元に帰るのだろうか。それともまた新しい人間がこの小屋へやって来て一緒に暮らすのだろうか。

 観察記録の目的は一体何なのだろう。スーは生まれてこの方ずっと世間から隔離されていたかのように常識を知らない。スーの過去に何があったのだろう。スー自身に何か問題があるのだろうか。

 疑問の答えを本人が知っているのか、それを尋ねていいのかどうかすら分からない。



 ヒーーーホリリョーーーァッ ヒーーイーーヒリリョーホーーォッ



 驚いて顔を上げると、こちらを見ているスーと目が合った。

 最初に霧の中で出会ったときと逆だと気がついた。あの時は俺がスーを驚かせた。なんとなくしてやられた気がした。


 スーの声は空気をビリビリと震わせながら見えない霧の中を貫いていく。



 ホォーーヒリリーァッ ヒーリョーーォッ



「その歌、一体なんなんだ?」


 スーは答えなかった。



「定期報告。六月十三日、土曜、午後九時。天候、曇り、濃霧。少女は健康。以前よりも口数が増えた。ところで、観察期間が終わったらあの子はどうなるんだ? いくつか聞きたいことがある。連絡が欲しい」





 芽愛梨めありが亡くなった時のことは、思い出そうとしても記憶が曖昧で上手く思い出せない。





 六月十七日。


 あと五日で山小屋へ来て一ヵ月が経つ。常に通信端末を持ち歩いているが、医師からは一向に音沙汰がない。

 何もかも空を掴むように手応えがなかった。定期報告はきちんと届いているのか。これは本当に仕事なのだろうか。スーはどうなるのだろう。日に日に焦りと不信感が募っていく。


 夕方、茂みに鶏卵を取りに行った帰りに根曲がり竹の群生を見つけた。つい収穫に夢中になり、スーとの約束の夕食の時刻を過ぎてしまった。

 森にいるときから嫌な予感がしていた。空気が微かに焦げ臭い。


 小屋を目にしたとき、愕然とした。キッチンの窓から黒煙が上がっていた。


 叫びながら小屋の扉を開けると、火を上げるコンロの前にスーがいた。振り向いた顔は煤だらけで呆然としていた。

 スーを抱えて外に出し、貯蔵庫へ走った。無我夢中で壁に備え付けの消火器を噴霧した。火を消し止められた時には、部屋中に撒き散らされたピンク色の消火剤と黒焦げのキッチンが残されていた。


 スーがおそるおそる部屋に入って来た。


「ごめんなさい。帰ってくるまでに卵を焼こうとしたの。そうしたら」

「いいんだ。怪我はないか? 煙を吸ってないか?」


 スーは首を横に振った。


「そうか。無事ならいいんだ」


 スーの手にはコップが握られていた。


 数日前、火は水で消えると教えたのを思い出した。消火器のことは教えていなかった。一人のときに火を扱ってはいけないと教えたが、同時に時間がとても重要な概念だということも教えていた。


 この火事は起こるべくして起きた。俺のせいだ。


 唐突に、芽愛梨めありが死んだ時の記憶が鮮明に蘇った。


 真夜中の火事だった。芽愛梨めありが寝ている部屋の襖を開けると、すでに火が部屋の周囲を取り囲んでいた。窓際の布団の上に、眠る前に毛布をかけてやった時とまったく同じ寝姿の芽愛梨めありが見えた。火の中に飛び込み、毛布ごと抱き上げた。窓から逃げようと考えた後で、腕の中の芽愛梨めありが息をしていないことに気がついた。


 火災の原因はおそらく放火だ。数日前からアパートの周囲をうろつく帽子とマスクの男を度々目撃していた。誰かは分からない。心当たりが多すぎた。長いこと他人から恨まれる生活を送ってきた。いつかそのツケを払わされる日が来るという覚悟もあった。ただその覚悟に、娘は含まれていなかった。


 気がつくと嗚咽していた。


「俺のせいだ……芽愛梨めありを助けられなかった……代わりに俺が死にたかった……芽愛梨めありは関係ないのに……芽愛梨めありがいないなら、もう生きる意味もないのに……」


 スーの足下に蹲り、慟哭した。


 一体どれくらいの間、そうしていたのだろう。


 気がつくとスーが俺の頭を撫でていた。

 スーが自発的に俺に触れたのは初めてだった。顔を上げると、じっとこちらを覗き込んでいる黒目がちの瞳と目が合った。急に強い睡魔に襲われ、俺は食事も片付けも定期報告も全てを後回しにして眠ってしまった。

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