スーの歌

門間紅雨

 辺り一帯、見渡す限りに草原が広がっている。


 視界の先へ行くほどに不透明な濃霧が立ち込め、頭上の曇天と一体化している。微弱な太陽光が分厚い雲を貫いて地上に降り注いでいる。



 イーーーリヨーホーォ ヒーヨーーリーホォーーーァッ



 その甲高い声は霧ごと空間を切り裂くように響き渡った。歌声のようにも悲鳴のようにも聞こえる。


「何をしてるんだ」


 びくりと身を震わせて声の主が振り向いた。


 推定七、八歳程度の少女。黒髪や平坦な顔立ちにアジア人の特徴がある。素早く三度瞬きし、黒目がちの瞳が怯えたように右往左往する。

 古い記憶を刺激されたようで嫌になり、一人で小屋の中に戻った。


 テーブルの上の端末を手に取る。くすんだ銀色の湾曲した金属板は眼鏡のように装着すると脳波の生体認証で外部のサーバーに接続できる。

 十年前、米国の大手企業が発表した巨大サーバー「ユートピア」の設立により、あらゆる情報伝達は一挙に集約された。


「定期報告。二〇六五年、五月二十三日、土曜、午前九時。天候、曇り、濃霧。対象は健康。霧の中で歌っている」


 端末を外し充電ポートに繋ぐ。





 出所後、亡き妻の実家に初めて娘を迎えに行った時、玄関先で芽愛梨めありは義父母の膝の裏に隠れていた。


 脚の隙間から生まれて初めて目にする父親をあんな目で見ていたのを思い出す。





 貴方には休息が必要です、と心療内科の医師は言った。金もないのにどうやって。ぼやく俺に医師はある仕事を紹介した。


 一ヵ月間、人里離れた山奥の小屋に住み、同居する少女の観察記録をつける仕事。


 スーは日の出と共に目を覚ます。寝間着を着替え、キッチンの踏み台を使ってシンクで顔を洗い、コップに一杯の水を汲んで食卓に運ぶ。


 山道を数時間かけて車で送ってきたきり、医師はそれで十分だとでもいうように少女の名前以外に何も教えなかった。こうしてこちらも特に何も説明する気がなさそうな少女との二人暮らしが唐突に始まった。





 定員二人がせいぜいの小さな山小屋だった。生活に必要な設備が凝縮された部屋の奥に同じ広さの貯蔵庫があり、大量の食料が保管されていた。ここだけ見れば富豪の核シェルターのようだ。


 スーは赤い箱のビスケットを好んで食べる。というか、それしか食べなかった。湯を沸かす術や缶詰を開ける技術すら知らなかったというのは後から知ったことだ。


「それじゃ栄養が足りないだろう」


 つい口を出すと少女はぴたりと動きを止めた。素早く三度の瞬きはどうやら癖らしい。じっと俺を凝視した後、ビスケットの箱をこちらへ押しやった。成分表示にはこれだけで人体に必要な栄養が全部摂れるということが書いてあった。言葉は通じているらしい。


 スーの案内で小屋の外に出た。

 晴れた日は遮るもののない直射日光が眩しい。遠くにアルプス山脈のような青い山々が連なっているのが見える。

 医師はここがどこだか教えなかったが、山の上の高原地帯であることは確かだ。


 小屋の裏手の森を歩いた。そこら中にフキの葉やワラビが確認できた。刑務所に入る時に勘当された、実家の裏の林を思い出す。その気になれば食べられそうな草がいくらでも生えている。

 途中、清流のほとりで休憩した。スーは小川に指の先を浸していた。


 スーに促されるまま茂みを覗くと、そこに鳥の巣があった。枝葉で形作られた丸い巣の中に鶏卵のようなものがある。卵が手に入るのなら一気に料理の幅が広がる。


 収穫しようと言うと初めてスーが喋った。


「怒らない?」

「じゃあ毎日別々の巣から貰うことにしよう。それなら許してくれるんじゃないか」


 スーは考え込んでいたが、やがて頷いた。



「定期報告。五月二十六日、火曜、午後九時。天候、晴れ。少女は健康。鶏の卵を収穫することを心配する。相変わらず無口だが、プリンは気に入った様子」





 芽愛梨めありは電子レンジで作るプリンが好きだった。生前、彼女の母親は娘のために膨大なレシピを書き遺していた。


 初めて作ったプリンは写真のクオリティには到底及ばず、表面に月面のようなクレーターが出現していた。


 それがよほどおかしかったのだろう。前歯の抜けた口を大きく開けて笑う芽愛梨めありの顔が今も脳裏に焼きついている。何か月も義実家の玄関先で頭を下げ続け、ようやく二人暮らしを認めてもらった後で、初めて見た娘の笑顔だった。





 小屋に来て一週間が経った頃、初めてスーを叱った。


 未明に一人で小屋を抜け出し、森の中の小川で誤って足を滑らせたらしい。戻って来たときには、腕や脚のあちこちから出血し全身ずぶ濡れの状態だった。


 思わず感情的になって怒鳴り、小屋の壁を殴った。頑丈な丸太はびくともせず、手の皮が剝けた。スーは怯える様子も見せずじっと俺を見つめていた。服を着替えさせ、二人分の傷の手当てをした。


 定期報告ではスーが川に落ちて怪我をしたと伝えた。怒鳴ったことは言わなかった。





 次の日、スーと二人で湖へ出かけた。


 連れて行くかわりに今後一切許可なく水辺に近寄らないことを約束させた。地理は分からなかったが、小屋へ来る道中に車窓からきらめく水面を見たような気がしていた。


 実際、歩き始めてすぐに巨大な湖のほとりに着いた。


 スーは珍しく興奮しているようだった。初めて自分から口を開いた。


「これが海」

「いや、これは湖だ」

「水……海?」

「雨が降ると地面に水溜りができるだろ。あれの大きいのだ」

「……どこにも繋がってないの?」

「ああ。いや分からないな。もしかしたらどこかで小さな川に繋がってるかもしれない」


 スーは浅瀬に身体を浸してじっとしていた。


 この観察記録には一体どういう意味があるのだろう。視界の端にスーをとらえながら電子タバコをふかした。


 何か医学的な意味があるのだろうか。スーは同年代の子供に比べて極端に発語が少ない。笑うこともない。社会から隔絶された自然豊かな環境で、あえて見知らぬ大人と関わらせることが発達を促すのだろうか。


 それにしても乱暴なやり方だと思った。もし俺が小児性愛者だったらどうするのだ。それとも実はこうしている間も衛星やドローンで逐一監視されているのだろうか。実は何かの社会実験で観察対象は俺の方だったりして。


 ふいにスーが水から立ちあがり、こちらへ歩いてきた。どうやら満足したらしい。


「お前、海が見たいのか」


 なんとなく尋ねるとスーは頷いた。



「定期報告。六月一日、月曜、午後九時。天候、晴れ。怪我を除けば健康。水辺で遊びたいのかと思い湖に連れて行ったところ、初めて自発的に喋る。海に憧れがあるらしい」





 芽愛梨めありと一度だけ行った海の思い出は楽しいものではなかった。


 砂浜は見渡す限りに家族連れで溢れていた。

 俺は全身を隠せるラッシュガードを着用していた。しかし更衣室で着替えを見られていたのだろう。隣のパラソルの父親が、子供たちに近づかないでほしいので場所を変えてほしいと言ってきた。水に入る前から口論になった。


 やって来た警備員は父親の味方をした。こちらは規約通りに入れ墨を隠していると主張したが、警察を呼ばれそうになった。嫌がる芽愛梨めありを引き摺ってまだ午前中のうちに帰路に着いた。


 何日も前から楽しみにしていた海を目前に帰ることになり後部座席で散々泣き喚き、疲れて眠っている芽愛梨めありの顔を見ると、罪悪感と情けなさがどうしようもなくこみ上げてきた。


 妻が生きていたのなら。父親が俺じゃなかったら。三人の家族でいられたのなら。どんなに悔やんでもこうなったのは己のせいだった。高速を飛ばしながら泣いた。


 翌年からは義父母に頭を下げて芽愛梨めありを海に連れて行ってもらった。

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