第1話 「役立たず」と婚約破棄されましたが、追放先がダンジョンでした
第1話
「役立たず」と婚約破棄されましたが、追放先がダンジョンでした
王都の謁見の間は、香水の匂いが強すぎた。
甘くて、重くて、喉の奥にへばりつくような匂い。私はそれを吸い込むたび、胸の奥がむかむかして、息が浅くなるのを感じていた。
高い天井。磨き上げられた大理石の床。靴底が触れるたび、こつ、こつ、とやけに音が響く。
――静かすぎる。
私は両手を前で組み、視線を落としたまま立っていた。
正面にいるのは、王都でも名高い公爵家の嫡男。
私の、婚約者だった人。
「リリア・フォン・エルグレン」
アルベルトの声は、よく通った。
よく通りすぎて、まるで舞台役者の台詞みたいだった。
「貴様との婚約は、本日をもって破棄する」
ざわ、と背後が揺れた。
貴族たちの囁き。絹が擦れる音。誰かが小さく息を呑む気配。
私は、驚かなかった。
心臓はどくん、と強く鳴ったけれど、予想していた未来が、ただ現実になっただけだった。
「理由を述べよう」
アルベルトは一歩前に出た。
光を反射する銀髪。整った顔。自信に満ちた目。
「――この女は、攻撃魔法が一切使えない」
空気が、ぴしりと固まった。
「炎も出せない。雷も撃てない。氷も操れない。剣も振れない」
一つ一つ、釘を打つみたいに言葉を並べていく。
「使えるのは、毒、睡眠、幻覚、麻痺……その程度だ」
くすり、と誰かが笑った。
それを皮切りに、あちこちから忍び笑いが漏れる。
「卑怯者の魔法だな」
「戦場では役に立たない」
「貴族の妻として、あまりに不適格だ」
私は唇を噛んだ。
噛みすぎて、鉄の味が舌に広がる。
――分かっている。
この国では、火力が正義だ。
派手で、強くて、分かりやすい力だけが評価される。
「よって、この女を公爵家に迎えることは不可能だ」
アルベルトは、私を見下ろした。
その目に、迷いはなかった。
「……異論は?」
誰も答えない。
答えるはずがない。
私が“役立たず”であることは、この場ではもう決定事項だった。
国王が、重々しく口を開いた。
「男爵令嬢リリア。汝は婚約破棄を受け入れるか」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
視界が少し揺れている。
でも、逃げるわけにはいかない。
「……はい」
声は、思ったよりもはっきり出た。
自分でも驚くくらい。
「では、処遇を告げる」
国王の声は冷たかった。
「汝を王都より追放する。行き先は――」
一瞬の間。
その沈黙が、やけに長く感じられた。
「瘴気ダンジョン」
ざわっ、と今度ははっきりとした動揺が走った。
「だ、ダンジョンだと?」
「誰も管理できず、放置された……?」
「正気か……あそこは――」
私は、思わず息を吸った。
喉の奥が、ひゅっと鳴る。
瘴気ダンジョン。
王都の外れにある、危険指定区域。
瘴気が溜まり、魔物が凶暴化し、何人もの管理者が逃げ出した場所。
――死地、だ。
アルベルトが、楽しそうに口角を上げた。
「ちょうどいいだろう」
彼は、私にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「戦えない女には、お似合いだ」
そして、はっきりと、皆に聞こえる声で。
「せいぜい――魔物に食われろ」
胸の奥で、何かが、すとん、と落ちた。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、冷たい静けさ。
ああ、と私は思った。
――ここまで、分かりやすいんだ。
王都を出る馬車は、古かった。
軋む音。干し草の匂い。窓から入る冷たい風。
私は一人、膝の上に手を置いて揺られていた。
「……役立たず、か」
声に出すと、少しだけ現実味が増した。
攻撃魔法が使えない。
それだけで、私は切り捨てられた。
でも。
馬車が止まり、御者が言った。
「ここです、お嬢さん」
外に出た瞬間、空気が変わった。
湿っていて、重くて、鼻の奥がつんとする。
目の前に、ぽっかりと口を開けた洞穴。
黒く、深く、何もかも飲み込みそうな――ダンジョン。
足元の土は湿り、苔が生え、遠くで水滴の音がする。
冷たい。
でも、不思議と、嫌じゃなかった。
「……誰も、管理できなかった場所」
私は、一歩、足を踏み入れた。
石の感触が、靴底から伝わる。
静かだ。
王都の嘲笑も、香水の匂いも、ここにはない。
胸の奥で、心臓が、ちゃんと鳴っている。
「……はいはい」
小さく、呟いた。
「ざまぁ、来るやつね」
まだ、何も始まっていない。
でも、ここが――私のスタート地点だ。
暗闇の奥で、何かが、かすかに光った気がした。
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