01-02
ぼくはもう一度時計を見た。もう日付が変わろうって頃合いなのに、だれが帰ってきたっていうんだろう?
そもそも、この家に「帰ってくるひと」って、そんなにいないはずだ。
「パパじゃないの?」
翠は顔の前に人さし指をたて、しーっと言った。それから首を横に振った。
「パパじゃない。女のひとだったもん」
「女のひと?」
「うん、知らない女のひとの声した」
オレンジ色の豆電球が子ども部屋の中をぼんやり照らしている。ぼくはドアを見た。ただのドアだ。廊下からは押して、こっちからは引いて開ける。まっすぐな銀色の棒みたいなドアノブ。カギはかからない。
もしも本当に知らないひとが入ってきたのだとしたら、心もとないドアだ。
「翠」
翠が「うん」と小さくうなずく。
「もう一回聞くけど、ほんとに知らないひとの声だった?」
「うん。でも帰ってきた」
「『入ってきた』じゃなくて?」
「うん」翠がもう一度うなずく。「だって、ただいまって言ったもん」
「知らないひとが?」
赤の他人が、よその家に入ってきて「ただいま」は変だ。そうやって入ってきてもいいのは、元からこの家に住んでたひとだけじゃないのか。
「やっぱり、パパじゃないかなぁ」
もちろんパパはもうとっくに帰ってきてるんだけど、何かの用事でいったん外出したのかもしれない。たとえば朝ごはんが足りないことに気づいて近くのコンビニに行ったとか……とにかく、大人は大した理由がなくたって夜外に出られる。で、用事を終えて今さっき帰ってきた。そのとき習慣で「ただいま」と口から出た――違うかなぁ。一番ありそうだと思うけど。
まぁ、翠の聞き間違いじゃないとすれば、だけど。
「ちーがーうー。だから女のひとだってば」
翠はそこをゆずる気がないらしい。ぼくの袖を引っ張ると、
「ねぇ、お兄ちゃん見てきて」
と、急にむちゃくちゃ言い出した。
「えーっ、ひとりで? やだよ。寒いし」
「おねがいー。ねこちゃん貸してあげるから」
そう言うと妹は、ぼくにブランケットをかぶせた。着るタイプのやつで、猫耳フードがついている。翠のお気に入りで、ひとに貸し出すことはめったにない。
「ね、寒くないでしょ」
「しょうがないなぁ」
ぼくは折れることにした。ねこちゃんそのものがうれしいわけじゃなく、貸してくれた翠の心意気を汲んでやる必要がある。それくらいねこちゃん貸出許可はレアなのだ。
まぁ、いいよ。家の中をちょっと見てくるだけだし。
「念のため聞くけど、お母さんの声でもなかった?」
フードをかぶって尋ねる。翠は首をかしげた。
「お母さんの声、わすれちゃった」
「だよね。ぼくも忘れた」
翠はフリースのえりを立てて「もしもお母さんだったらどうしよう」と不安そうにつぶやいた。
「大丈夫だよ」
ぼくは深く考えずにそう言った。それから子ども部屋を出た。
廊下はほんのり明るい。子ども部屋みたいなオレンジ色の電球はないけど、足元だけを照らすライトが、廊下の途中、床からちょっと上のところに、いくつか付いているのだ。
そういえばこの家に住み始めたころ、翠は「夜のろうかがきれい」と言って喜んでいた。
そのときはまだ、お母さんがいたんだっけ。
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