氷の檻
仰
第1話
「こいつ、噛みやがって・・・殺してやる!」
ドゴッ・・グフッ・・・
ヴァルハラ王国、娼館や酒場が立ち並ぶエリアの路地裏。
16歳の少女が力なく、男に殴られ、蹴られていた。女性をただの性欲処理道具としか見ていない男の暴走は、このエリアではよく見る光景。
少女が暴行を受けている姿は、他の者にも見えている。だが、助けに入ることなどしない。そんなことをすれば、次は自分が狙われる。
ここでは、事件が起きても、命が奪われそうでも、見て見ぬふりを貫き通す。そうやって、自分の命を守る・・・悲しい場所だ。
「へへっ・・・あいつ、意外と金持ってたな」
ようやく乱暴な男の手から逃れられた少女は、石畳の路上に倒れ、息を整え、殴られる前に男の懐から盗んだお金が入った袋の中身を見て、笑った。
少女の名前は、シュナ。10歳で両親に娼館に売り飛ばされたが、キレやすい性格の為、男性客に乱暴に扱われると、牙をむく。
まだ体の相手を出来ない、配膳などの仕事が担当だと注意を受けているにも関わらず、下半身に触れようとした客がいた時は、淹れたての湯気が立っているお茶を客の顔にかけて火傷を負わせたり。
またある時は、自分が身支度の手伝いをしているお姉さまの悪口を言ったメイドの服を燃やし、火だるまにさせたり・・・とにかく、気の強すぎる、キレたら何をしでかすか分からない少女だった。
娼館では面倒を見切れないと言われ、13歳で追い出され、それからは路地裏をふらふらして、男に声をかけて春を売る。ちまちまと日銭を稼いで生活していた。
「お父様、疲れてましたの。抱っこして!」
「はっはっは!仕方ないなぁ。私の愛する天使、さぁ、おいで」
娼館や酒場を経営している貴族の親子を時々見かける。世界は残酷だ。
空を見上げても、落ちてくるのは冷たい雨か、煤(すす)けた灰ばかり。神が平等に幸せを配るなど、この路地裏では質の悪い冗談にさえならない。
もし、自分が泥の中で産声を上げず、あの眩しい馬車の中で生まれていたのなら。 もし、親に「金」としてではなく「娘」として愛されていたのなら。 自分もあの子のように、甘えることを許される「天使」になれたのだろうか。
少女の瞳には、湿った憎悪と、それ以上に深い絶望が澱んでいる。 遠ざかっていく親子の笑い声を、彼女はただ、食い入るような羨望の眼差しで、言葉にならない恨みを込めて見つめ続けることしかできなかった。
「お姉さん・・・痛そう」
不意に、まどろみ淵から引き戻されるような声がした。気がつくと、一人の少年がシュナの傍らにしゃがみこみ、壊れた玩具を観察するかのような静かさでこちらを覗き込んでいた。
「つめたっ・・・」
不意に頬を撫でた冷気に、シュナは思わず身を震わせる。
「冷たいと、痛いの少しだけ治まるんだよ」
少年は10歳ほどに見えた。月の光を透かしたような銀の髪と、底知れない冬の湖を思わせる色素の薄い瞳。感情の揺らぎが一切見えないその瞳は、あまりに純粋で、それゆえに酷く不気味だった。 少年の指先が微かに触れた場所から、氷魔法の冷気がじわりと浸透していく。激痛に脈打っていた傷口の熱が、少年の言葉通り、みるみるうちに引いていった。
「やめろ・・・どっか行けよ」
拒絶の言葉を吐きながらも、シュナの体は嘘をつけなかった。通りすがりの安っぽい優しさなど、今の自分には毒でしかない。そんなものに触れてしまったら、枯れ果てたはずの心がまた「甘えたい」と疼き出してしまう。一瞬の温もりのせいで、その後に訪れる永遠の孤独に、耐えられなくなってしまうから。
けれど、少年は拒絶を気にする様子もなく、淡々と告げた。
「ねぇ・・・僕の家においでよ。お金なら、いっぱい持ってるから」
少年の小さな手が、重たげな革袋を差し出す。中から溢れたのは、路地裏の泥を照らすにはあまりに不釣り合いな、黄金の輝き。おびただしい数の金貨が、チャリ、と無機質な音を立てた。
その輝きを見た瞬間、シュナの中で何かがプツリと切れた。金のためでも、命惜しさでもなかった。ただ、この絶望的な夜の中で、誰でもいいから自分を拾い上げて欲しかったのだ。 たとえ、この優しさが一夜限りの幻影であったとしても。
「・・・いいよ。どこへでも、連れてって」
シュナは縋るように、少年の冷たい指先を握りしめた。
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