第2章:特別編 銀糸の誓い ―修羅の涙―

第6話:三つの報いと孤独な旅路


 明治二十年、雨の夜。

 帝都・東京の喧騒から離れた一角に建つ、組織の幹部・大久保の私邸。そこは、文明開化の恩恵を一身に受けたような贅を尽くした洋館であった。窓から漏れる灯りは暖かく、室内では大久保が数人の側近と共に、高価な舶来のワインを傾けていた。

「ガハハ! 影山の奴、死に際までしぶとい男だったが、所詮は時代の遺物よ。これでもう、我々の地位を脅かす掃除屋(ゴミ)は一掃されたというわけだ」

 大久保は、卓上に積み上げられた札束を愛おしそうに撫で、下卑た笑い声を上げた。彼らにとって、影山という男が命を懸けて守った「信念」も、お雅が流した「涙」も、すべては金と権力という天秤の前では塵に等しかった。

「しかし、あの小娘がまだ見つかっておりませんが……」

「案ずるな。あの雨だ。今頃はどこかのドブ川で、師匠の後を追って野垂れ死んでいるだろうよ」

 その時だった。

 パリン、という硬質な音が、豪華なシャンデリアの下で響いた。

 大久保が手にしていたワイングラスが、何の前触れもなく二つに割れたのである。驚愕に目を見開く大久保の視線の先――。

「……誰だッ!?」

 側近の一人が叫び、腰のサーベルを抜こうとした。だが、その腕が鞘から抜かれるよりも早く、闇から伸びた一筋の「銀の光」が男の喉元を撫でた。

 声も出ぬまま、男は喉を押さえて崩れ落ちる。そこには、開いた窓から吹き込む雨風と共に、一人の女が立っていた。

 お雅だった。

 全身を夜の雨に濡らし、漆黒の髪が頬に張り付いている。その瞳は、もはや人間のそれではない。深淵の底から這い上がってきた亡霊のような、冷たく、そして絶対的な死を湛えていた。

「……雅、か……!? 生きていたのか!」

 大久保が椅子を蹴り飛ばして後ずさる。お雅は無言のまま、ゆっくりと一歩踏み出した。

 彼女の指には、影山から贈られた黒い手袋が嵌められている。その指先が、空を舞う目に見えぬ銀糸を繊細に、かつ冷酷に操る。

「殺せ! この女を殺せッ!!」

 大久保の絶叫に応じ、残りの側近たちが一斉に飛びかかった。

 だが、お雅の動きはもはや芸の範疇を超えていた。彼女は懐から、影山の形見である『鉄の撥』を抜き放つ。

 ヒュンッ!!

 銀糸が空を裂き、一人の男の足を絡め取る。お雅が指先を引き絞ると、鋼の糸は肉を断ち、骨を砕き、男の悲鳴を夜の闇へと溶かした。

 別の男が背後から斬りかかるが、お雅は振り返りもせず、鉄の撥を逆手に振った。鋼の重みが男の眉間を叩き割り、確実な「死」を刻み込む。

 それは、戦いというよりは、儀式に近かった。

 お雅が動くたび、豪華な絨毯が紅い染みに汚れ、シャンデリアの光が血飛沫を浴びて濁っていく。かつて「指を汚すな」と命じた師匠の教えを、彼女は守っていた。汚れているのは指ではない。彼女の魂そのものが、今、真っ黒な復讐の業火で焼き尽くされていた。

 わずか数分のうちに、室内で生きているのは大久保一人となった。

「ひ、ひぃぃぃ……っ! 待て! 金か!? 金が欲しいのか!」

 大久保は、卓上の札束を狂ったように掴み、お雅の足元へ投げつけた。舞い散る紙幣は、雨に濡れたお雅の着物を汚し、床の血溜まりに浮いた。

 お雅は、その札束を冷ややかに見下ろし、低い、しかし心臓を掴むような声で呟いた。

「……金(ぜに)で魂ば売った報いじゃ。……あの世で、師匠に詫びてこい」

 その言葉と共に、二本の銀糸が大久保の首筋に絡みついた。

 お雅が渾身の力で指を交差させる。

 ドサリ、という重たい音がして、大久保の首が、己が何より愛した札束の上に転がり落ちた。

 静寂が戻った。

 開いた窓から吹き込む雨が、室内の血の匂いを薄めていく。

 お雅は、大久保の死体には目もくれず、ただ静かに影山の鉄の撥を懐に収めた。復讐を遂げたという達成感も、失った悲しみも、もはや彼女の顔には浮かんでいなかった。ただ、深い、底知れない孤独だけが、その背中に張り付いていた。

 夜明け前。

 お雅は、影山が仁王立ちで果てたあの料亭の跡地に立っていた。

 雨はいつの間にか止み、東の空が白み始めている。彼女は影山の亡骸を、自分が拾われたあの九州の夕焼けのような、静かな寺の墓地に葬った。

「……行くよ、師匠。……お雅は、もう泣かないよ」

 彼女は三味線箱を背負い、黒い手袋をつけたまま歩き出した。

 向かう先は、誰も知らない。

 政府からも、闇の組織からも追われる身。流しの芸者として、孤独に諸国を彷徨う旅。それは、愛を失い、心を閉ざした女の、果てなき贖罪の巡礼であった。

 ふと、お雅は空を見上げた。

 明治二十年の朝の空は、残酷なほどに、どこまでも高く、澄み切った青だった。

 その光が、お雅の黒い手袋を照らし出す。

 彼女は二度とその手袋を外すことはなかった。それが、師匠との唯一の約束であり、自分がまだ「人間」であった頃の、最後の手がかりだったからだ。

(第2章・完)


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