第3章:街道の鬼 ―黒手袋の裁き―
第1話:湯煙の絆
明治三十二年、十二月。
伊豆の山々は、鉛色の空の下で凍りついていた。
木枯らしが吹き抜けるたび、枯れ木がヒュウと悲鳴を上げ、街道を行く者たちの体温を容赦なく奪っていく。
「……寒い、ね」
十歳のお鈴が、真っ赤になった両手を口元に寄せ、ハァーッと息を吹きかけた。だが、その息も瞬く間に白く濁り、風に散らされていく。
お環(たまき)は、自分の着物の袖を引っ張り、少しでもお鈴を風から守ろうと背中をさすった。
「もう少しの辛抱よ、お鈴ちゃん。山を越えれば、きっと……」
そう言うお環自身の唇も、寒さで紫色に震えている。
極楽亭の崩落から十日。
お雅(まさ)たちは、警察や残党の目を欺くため、あえて険しい裏街道を選んで西へと向かっていた。だが、冬の山越えは、女子供の足にはあまりに過酷だった。
先頭を歩いていたお雅が、ふと足を止めた。
黒手袋をはめた指先で、ツン、と鼻の頭をこする。
「……ツイてるね。極楽が見えたよ」
「え? お雅さん?」
「匂うのさ。……こっちだ」
お雅は街道を外れ、獣道のような岩場へと分け入っていく。
お環とお鈴が慌てて後を追うと、大きな岩陰の向こうに、信じられない光景が広がっていた。
岩の裂け目から、こんこんと熱い湯が湧き出し、川沿いの窪みに溜まっている。
誰にも管理されていない、天然の野湯(のゆ)だ。
乳白色の湯気が、冷気の中で幻想的に立ち上っている。
「わぁ……!」
お鈴が歓声を上げ、お環の手を引いた。
「お風呂! お環ちゃん、お風呂だよ!」
「すごい……こんな山奥に……」
「さっさと入りな。風邪をひいちまうよ」
お雅は手早く着物を脱ぎ捨てると、遠慮なく白濁した湯の中へ身を沈めた。
「……ふぅ。生き返るねぇ」
お鈴も慌てて衣類を脱ぎ、小さな体でドボンと飛び込む。
「あったかぁい!」
凍えていた手足が解凍されていく感覚に、お鈴がとろけるような顔をした。
少し遅れて、お環も羞恥(しゅうち)に頬を染めながら、そっと湯に足を浸した。
じんわりとした熱が、芯まで冷え切った体に染み渡る。それは、張り詰めていた逃避行の緊張を解きほぐす、極上の安らぎだった。
立ち込める湯煙が、天然の目隠しとなって三人の肌を包み込む。
お雅は手ぬぐいを湯に浸し、首筋の汗と泥を無造作に拭った。ふと、視線を感じて振り返る。
お環が、お湯の中で小さく縮こまっていた。
肩まで深く浸かり、決して背中を見せようとしない。
「……どうしたんだい、お環。そんなに縮こまってちゃ、疲れも取れないよ」
「い、いえ……その、人様にお見せできるような体じゃありませんから……」
お環の言葉は消え入りそうだった。
彼女の背中には、赤く引きつった火傷の痕(あと)がある。
かつて、折檻(せっかん)されそうになったお鈴を庇(かば)い、焼けた火箸を押し付けられた時の古傷だ。
年頃の娘にとって、それはあまりに無残で、隠したい「醜さ」だった。
バシャッ。
水音が響き、お雅が立ち上がった。
「っ……!?」
お環は息を呑んだ。
月明かりと湯気の中に浮かび上がったお雅の肢体。
豊満な胸、引き締まった腰、長く伸びた足。同性でも見惚れるほど完成された大人の女の体。
だが――その白い肌には、無数の「傷」が刻まれていた。
肩には刀で斬られたような一文字の古傷。
脇腹には、銃弾が掠めたような赤黒い痕。
太ももにも、背中にも。
それは、彼女が「始末屋」として修羅場を潜り抜けてきた、壮絶な履歴書だった。
「お雅さん、その傷……」
「隠すんじゃないよ、お環」
お雅はお環の背後に回り込むと、手ぬぐいでお湯を掬(すく)い、その火傷痕に優しくかけた。
「……っ」
「その火傷は、あんたが命がけでお鈴を守った証だ。……私のこの傷と同じ、女の勲章さね」
お雅の声は、お湯のように温かく、そして力強かった。
「誰かを守ってできた傷を、恥じる必要なんてない。……あんたは美しいよ」
お環の大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
ずっと醜いと思っていた。誰にも見られたくないと思っていた。
けれど、この人は「美しい」と言ってくれた。傷だらけの体で、凛と立っているこの人は。
「……お雅、さん……」
「お背中、流します!」
お鈴がバシャバシャと近寄ってきて、無邪気にお雅の背中にへばりついた。
「お雅さんの背中、かっこいい!」
「こら、くすぐったいよ」
お雅が珍しく苦笑いを浮かべ、お環も涙を拭って小さく笑った。
湯煙の向こう。
血の繋がりなどなくとも、三人の心は今、本当の家族のように溶け合っていた。
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