Interval

@study-v

第1話 少しの違和感

1-1 シャトルの音

 体育館の扉を押し開けると、朝の冷えた空気が、そのまま中まで入り込んできた。


 まだ誰もいない。


 照明は半分だけ点いていて、コートの端に伸びた影が、ゆっくり床を横切っている。


 橘渉は、いつも通り一人だった。


 ラケットを握り、シャトルを上げる。

 高くは打たない。

 天井に当たらない高さで、一定のリズムを刻む。


 ――カン。


 ――カン。


 音が、広い体育館に吸い込まれていく。


 強く打つ必要はない。

 この時間に求めているのは、確認だ。


 身体が、昨日と同じ位置にあるか。

 フォームが、余計なことをしていないか。


 シャトルが落ちる。

 渉は歩いて拾いに行く。


 拾う。

 戻る。

 また打つ。


 その繰り返しを、何度も続ける。


 誰かと話す必要はない。

 声を出す必要もない。


 ここでは、ラケットとシャトルだけが正直だった。



 橘渉は、大学バドミントン部の中で「一人で勝つ選手」だった。


 ペアを組めば結果は出る。

 だが、噛み合うかどうかは相手次第だ。


 だったら最初から、一人でやったほうが早い。


 そう思ってきたし、実際、それで困ったことはなかった。



 シャトルを打ち上げた瞬間、わずかにタイミングがずれた。


 ラケットの面を、少し外す。


 シャトルが床に落ちる。


 渉は眉をひそめ、拾いに行った。


 ――気のせいだ。


 フォームを修正し、もう一度打つ。


 今度は問題ない。


 だが、拾う回数は、さっきより増えていた。



 体育館の外で、足音がした。


 誰かが近づいてくる気配。


 渉は振り向かない。

 せっかくできたペースを乱したくない。


 扉が開く。


「おはようございます」


 少し高めの声。


 その声があるだけで、整っていたはずの空気が、崩れた。


 渉は、ラケットを下ろして振り返った。


 逢沢 瀬里奈だった。


 部の一年下の選手で、前に出ることを恐れないプレースタイル。


 ラケットを肩に担ぎ、当然のようにコートに入ってくる。


「早いですね」


「いつもだ」


 それだけ言って、渉は視線を戻す。


 瀬里奈は、少しだけ笑った。


「一人ですか」


「見て分かるだろ」


「ですね」


 軽い返事だった。


 だが、そのやり取りだけで、渉のリズムは、確実に乱れていた。



 瀬里奈は、渉から少し離れた位置でストレッチを始めた。


 話しかけてこない。

 邪魔もしない。


 ただ、同じ空間にいる。


 それだけのはずなのに、渉は理由の分からないまま、シャトルを打ち損ねた。


 床に落ちる音が、いつもより大きく聞こえる。


 拾いに行く途中、瀬里奈の視線を感じた。


 だが、何も言われない。


 その沈黙が、かえって落ち着かなかった。



「一緒に使ってもいいですか」


 瀬里奈が言う。


「……好きにしろ」


 渉はそう答え、コートの端を少し空けた。


 本当は、空けたくなかった。


 同じコートに立つ。

 

 自分以外の空間が生まれる。


 瀬里奈がシャトルを上げる。


 渉は、それを横目で見る。


 無意識に、彼女の立ち位置を確認している自分に気づき、すぐに目を逸らした。



 まだ何も始まっていない。


 そう言い聞かせながら、渉はラケットを握り直す。


 シャトルを打ち上げる。


 ――カン。


 音は同じはずなのに、さっきとは違って聞こえた。


 軽く深呼吸をし、渉はラケットを握り直す。


 また一からペースを作り直す。

 常に渉はそうやってきた。

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