第2話:『ギルドマスターの憂鬱 ~報告書が受理できない~』
冒険者ギルドのマスターを務める私、ガストンは、今、猛烈な頭痛に襲われていた。 目の前には、当ギルドが誇る(そして持て余している)Sランクパーティの二人組がいる。 「勇者シン」と「賢者シゲル」。 彼らはつい先ほど、長年放置されていた「古の赤竜」を討伐して帰還した英雄だ。本来なら、私は手放しで彼らを称賛し、報酬を渡して、酒場で祝杯を上げるところだ。
だが、現実はそう甘くない。 この「完了報告」が終わらないのだ。もう一時間が経過しているのに。
「……えー、つまりだ。シゲル君。君の言い分としては、この『討伐証明部位(ドラゴンの牙)』だけでは、討伐の証拠として不十分だと言いたいのか?」
私はこめかみを揉みながら尋ねた。 カウンターに置かれた巨大な牙。どう見ても赤竜のものだ。これ以上の証拠はない。 しかし、賢者シゲルは腕を組み、難しそうな顔で唸っている。
「マスター。不十分と言うよりは、手続き上の瑕疵(かし)を懸念しているのです。確かに牙は持ち帰りました。しかし、私が放った『火の玉』によって死体の大半が損壊している。果たして、この牙が『個体A(討伐対象)』のものであると、第三者機関が客観的に証明できるのか。DNA鑑定魔法の精度についても、私は以前からギルドに疑義を呈していたはずですが?」
面倒くさい。 死ぬほど面倒くさい。 自分で倒しておいて、自分で疑うな。
「いや、君らが倒したんだろ? シン君も見ていた。それでいいじゃないか」 「そうですよ、マスター」
ここで、勇者シンが爽やかな笑顔で口を挟んだ。 ああ、やはり勇者は話が早い。私は救われた気持ちで彼を見た。
「シゲル、考えすぎだ。証明するというのは、証拠を見せるということだ」
……ん?
「そして、ここに牙がある。それはつまり、牙がここにあるということなんだよ」
……うん? 私は一瞬、彼が何か深い哲学を語っているのかと思った。だが違う。こいつは、ただ目の前の現象をそのまま口にしているだけだ。情報量がゼロだ。
「シン君、君の言うことは……まあ、間違ってはいないが……」 「そうだろう? マスターが納得した。それはつまり、合意が形成されたということだね」
シンがキラキラした目で同意を求めてくる。 その横で、シゲルが「ぬぅ……」と低い声を上げた。
「マスターの『納得』という言葉の定義も曖昧ですが……まあいいでしょう。百歩譲って、討伐は認めます。問題は報酬です」
シゲルは、私が提示した金貨の入った袋を、汚いものでも見るような目で見下ろした。
「今回の報酬額、金貨500枚。これは適正な市場価格に基づいた算出ですか? 昨今のインフレ率、および回復ポーションの価格高騰を鑑(かんが)みた時、この額が我々の『命のリスク』と等価交換たり得るのか。私はね、ギルドの搾取構造そのものに、強い憤りを感じるわけです」 「い、いや、これは規定通りのSランク報酬で……」 「規定! その規定はいつ改定されたのですか? 10年前でしょう! 時代は変わっているんです。変わっているということは、同じではないということなんですよ!(シンを見る)」
なぜかシゲルが、シンの口調を一瞬真似てドヤ顔をした。 シンは嬉しそうに頷いている。 「その通りだシゲル。時代が変わる。それはつまり、昔とは違うということだ」
地獄かここは。 私は胃薬が欲しくなった。 片や、あらゆる事象に疑義を挟み、手続き論で時間を浪費する「牛歩の賢者」。 片や、言葉の雰囲気だけで会話を成立させ、中身のない肯定を繰り返す「トートロジーの勇者」。 なぜこの二人がパーティを組んでいるのか。それは世界七不思議の一つだ。
「わかった、わかった! 特別手当として金貨50枚上乗せする! これでいいだろう! 頼むからハンコを押してくれ!」
私は根負けした。これ以上議論を続けると、私の精神(SAN値)が崩壊する。 だが、シゲルはまだ納得していない様子で、ねちねちと続ける。
「金で解決しようというその姿勢……国民、いや、低ランク冒険者たちへの示しがつかないのでは? しかし、提示された以上、これを拒否することもまた、交渉の決裂を意味する……。シン殿、君はどう思う?」
話を振られたシンは、金貨の袋を手に取り、重さを確かめるように上下させた。 そして、この世の真理を語るような顔で言った。
「シゲル。お金をもらうということは、財布が重くなるということだ」 「…………」 「そして、財布が重いということは、嬉しいということじゃないか」
シゲルが眼鏡の奥で瞬きをした。 数秒の沈黙。 やがて、シゲルは深いため息をつき、肩の力を抜いた。
「……君には敵わないな。確かに、『嬉しい』という感情的利益(メリット)は、論理を超越する場合がある」 「だろう? 帰ろうシゲル。帰るというのは、家に戻るということだ」
シンが歩き出す。 シゲルもまた、ぶつぶつと文句を言いながら――「今回の合意形成は不完全だが」「次回への持ち越し課題として」――その背中を追った。
ギルドの扉が閉まる。 嵐が去った後のような静寂が戻った。
私はカウンターに突っ伏した。 「……最強のパーティだよ、あいつらは」
敵(モンスター)にとっても、味方(ギルド)にとっても。 あいつらと会話をするくらいなら、ドラゴンと殴り合っていた方がまだマシだ。物理攻撃は、少なくとも言葉が通じないストレスはないのだから。
私は震える手で、報告書に『受理』のハンコを押した。 そのハンコのインクが乾く頃、また彼らが新しい(厄介な)依頼を持ってくることを、私はまだ知らない。
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