『君に強化魔法(バフ)をかける。それはつまり、君が強くなるということなんだ』
LucaVerce
第1話『脅威への対処方針における、勇者と賢者の見解の相違について』
「グルゥゥゥァァァァッ!!」
鼓膜を劈(つんざ)くような咆哮が、地下迷宮の空気を震わせた。 目の前に聳(そび)え立つのは、迷宮の主である「古の赤竜(エンシェント・レッドドラゴン)」。 その巨体は小山のごとく、吐き出される熱息は鉄さえも溶かす。冒険者であれば誰もが震え上がり、逃亡を選択するごく自然な脅威。 まさに絶体絶命の危機――であるはずだった。
「シゲル。竜がいるね」
勇者シンは、抜身の聖剣を片手に、極めて爽やかな笑顔でそう言った。恐怖の色は微塵もない。彼の瞳には、ただ「事実」だけが映っている。
「竜がいる。それはつまり、敵がいるということなんだ」 「……シン殿」
対して、その背後で重厚な魔導衣を纏(まと)った男――賢者シゲルは、杖を構えることすらせず、眉間に深い皺を刻んでドラゴンを見上げていた。 その表情は、敵への恐怖というよりも、解決困難な難問を突きつけられた官僚の憂鬱に近い。
「敵、と断定するそのスピード感には、私は常に危惧を抱いている。果たして、目の前の生物を即座に『排除すべき対象』と定義することが、我々パーティの持続可能な冒険活動において正しいのか。まずは対話の可能性を……」 「シゲル。襲ってくるぞ。襲ってくるということは、攻撃されるということだ!」
シンの警告と同時だった。赤竜が巨大な顎を開き、紅蓮の炎を吐き出した。 ゴォォォォォッ!! 熱波が二人を襲う。シンは驚異的な身体能力で横に跳び、シゲルもまた無駄のない動きで岩陰に身を滑り込ませた。
「危なかったね。炎が熱い。熱いということは、火傷するということだ」 「……野蛮だ。極めて野蛮な行為だと言わざるを得ない」
岩陰で煤(すす)けた眼鏡を拭きながら、シゲルは不満げに呟く。
「いきなり暴力を振るう。これは国際法……いや、ダンジョン法に照らし合わせても由々しき事態です。ですがシン殿、彼がなぜ怒っているのか。我々が彼のテリトリー侵犯をしたという認識はお持ちか? そこを棚上げして、ただ『倒す』という結論ありきで議論を進めるのは……」 「シゲル、強化魔法(バフ)だ!」
シンは岩陰から飛び出し、聖剣を構えて竜に対峙した。 その背中は語っていた。細かいことはいいから早くしろ、と。
「『身体強化(フィジカル・ブースト)』をくれ! 今すぐだ! 今すぐというのは、現在進行形ということだ!」 「……簡単に仰る」
シゲルはゆっくりと、あまりにもゆっくりと岩陰から立ち上がった。手には魔力を帯びた杖がある。その気になれば、一撃で戦況を覆す極大魔法を行使できる実力者だ。 だが、彼は詠唱を始めない。 代わりに、ねちっこい口調で語り始めた。
「シン殿。貴方はいつもそうだ。事前の根回しもなく、現場のノリと勢いだけで『強化してくれ』と要求する。確かに、私のMP(マジックポイント)は潤沢です。しかし、それを無尽蔵に供給することが、貴方の自立性を損ない、ひいてはパーティ全体のモラルハザードを招くのではないか。私はね、そこを強く懸念しているわけであります」 「シゲル! 来るぞ! 爪だ! 爪が来るということは、引っかかれるということだ!」 「聞いていますか!? 私はプロセスの話をしているんです!」
ギィィィン!! シンの聖剣と、竜の爪が激突する。 火花が散る。腕力では明らかに竜が上だ。シンの足が地面を削り、じりじりと後退する。
「くっ……! シゲル! 力が足りない! 力が足りないということは、負けるということだ! 早く魔法を!」 「負ける、という事態を避けることには同意します」
シゲルは重々しく頷いた。だが、杖は振らない。
「しかし、なぜ力が足りないのか。日々の鍛錬不足ではないか? あるいは装備の選定ミスか? 安易に外部からの魔力供給(バフ)に頼るその体質こそが、今の苦境を招いている。その総括なしに、私が魔力を行使することは、国民……いや、読者への説明責任を果たせない」 「説明責任とか言ってる場合か! 死ぬ! 死ぬということは、生きられないということなんだぞ!」 「死の定義については、哲学的な議論が必要ですが……」
ズガンッ!! シンの体が吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。 さすがに勇者といえど、バフなしで古竜と渡り合うのは無茶だった。
「ガハッ……!」 「シン殿!」
ようやくシゲルの顔色が変わった。 彼は杖を掲げ、竜に向かって一歩踏み出す。ついに魔法を使う気になったのか。 赤竜がシゲルを睨む。矮小な人間ごときが、何ができると嘲笑うかのように。
シゲルは、竜の瞳を真っ直ぐに見据え――そして、朗々と詠唱を開始した。
『――我、ここに魔力行使の正当性を主張する。相手方の先行攻撃を確認、これに対する自衛権の発動は、我がパーティ規約第9条および緊急避難措置法に基づき、十全に認められるものであるとの法的解釈を支持し、かつ、その行使が過剰防衛に当たらないよう最大限の配慮を行いつつも、現下の切迫した状況に鑑み、必要最小限かつ最大限の効果を有する熱量変異の具現化を、関係各所との調整を経た上で、遺憾ながら実行するものであり――』
「……長いッ!!」
壁に埋まったシンが叫んだ。 竜もまた、あまりの詠唱の長さに攻撃のタイミングを見失い、首を傾げている。「いつ来るの?」と言いたげな顔だ。
『――すなわち! 火の玉(ファイアボール)!!』
ドォォォォォン!! シゲルの杖から放たれたのは、ただの「火の玉」だった。 しかし、その威力は異常だった。 数分にも及ぶ(体感時間の)長い詠唱、その間に練り上げられた圧縮魔力、そして何より「この魔法を撃つ正当性」を自分の中で完全に論理武装したことによる『精神的絶対性(メンタル・アブソリュート)』が付与されている。 直撃した赤竜の顔面が爆ぜた。
「ギャァァァァァァッ!!」 「……ふぅ。やれやれ。これだから武力行使は」
シゲルは額の汗を拭い、やれやれと首を振った。 一撃必殺。最初から撃っていれば秒で終わっていたはずの戦い。 シンがよろよろと起き上がり、埃を払って近づいてくる。
「すごい威力だね、シゲル。一撃だった。一撃ということは、一度で倒したということだ」 「結果論です。本来なら、あと3回は外交交渉の席を設けるべきだった。彼(竜)にも家族がいたかもしれない」 「でも助かったよ。ありがとう。感謝するということは、ありがとうということだ」
シンは屈託のない笑顔でシゲルの肩を叩く。 シゲルは嫌そうな顔をしつつも、その手を払いのけることはしなかった。 だが、すぐにまた眉間の皺を深くする。
「シン殿。先ほどの戦闘で、私の衣服が煤で汚れました。クリエイニング代を経費で落とせるか、ギルドと折衝が必要です。また、今回の戦闘報告書ですが、君の無謀な突撃については厳しく記述させてもらう。いいですね?」 「わかったよ。書くということは、文字にするということだからね。任せるよ」 「……本当にわかっているのか、君は」
赤竜の死体が煙を上げる中、二人の不毛な会話だけがいつまでも響いていた。 迷宮の出口はまだ遠い。 出口が遠いということは、まだ出られないということなのだから。
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