第11話 刺さったままの言葉
保健室の引き戸が閉まると、外の世界の音が薄くなる。
遠いチャイムの余韻や、廊下を走る足音が、厚い紙の向こうに押し込められたみたいに。
ベッドに寝かせた椎名の身体は、濡れた制服の重さだけが不自然に主張していた。
肩から袖に水が引いて、布が皮膚に貼りついている。
冷えはもう「これから来る」じゃなく、来てしまっている。
養護教諭は迷いなく動いた。
まず脈。呼吸。瞳孔。
次に、顔を少しだけ近づけて、椎名の唇の色と、口の端の乾き具合を見る。
「朝霧さん。倒れる瞬間、頭は床に当たった?」
「……当たってないです。その前に支えて、受けました。」
「痙攣は? 手足が突っ張ったり、目が上を向いたり」
「見てません。震えは……手だけ、直前にパニックになって物を拾おうとしてる時に」
養護教諭は頷いて、メモの代わりに頭の中で項目を整理しているみたいだった。
「吐いた? 咳き込んだ? 息が吸えないって言ってた?」
私はプールサイドの光景を思い出そうとする。
音が溶けて、言葉が刺さって、椎名の目が遠くなっていく瞬間。
「……吸えていない感じはありました。声も、途中から出てなくて」
「過換気っぽいね」
養護教諭が淡々と言う。淡々としているのに、軽くはない。
“あり得る原因”として置かれているだけの言葉の重さ。
「冷えもあるし。濡れてるし。あと——ここの、首筋」
養護教諭の指が、椎名の首元の皮膚をそっと触った。
降れているだけで、椎名の眉が一瞬だけ寄る。痛みというより触れてほしくなさそうな感じ。
「違和感があるかも。意識が戻ったら確認する。とにかく今は体を温めるのが先」
私は息を呑んだ。
首、という単語に反応してしまった自分が分かる。
養護教諭は私を一度だけ見て、すぐに視線をベッドへ戻した。
「朝霧さん、その場所、人、多かった?」
「……多かったです。見られてました」
「それで意識が落ちる子、いるよ。倒れるっていうより、身体が“落とす”。守るためにね」
守るために。
その言い方が、優しいのに残酷だった。
「ただ、決めつけはできない。頭を打ってないなら、緊急性は少し下がるけど、意識が戻らないのが長いなら救急も考える。今は反応を見ながら——」
養護教諭は椎名の手首に指を置いたまま、呼吸のリズムを見る。
「呼吸が浅い。早い。胸で吸ってる。こういう時は“吸えない”じゃなくて、“吸い過ぎて”苦しくなることもある」
私の喉が乾く。
プールサイドで、椎名が息を吸ったのに胸が空っぽに見えた瞬間が、頭の奥で再生される。
「……椎名、ずっと無理してたんでしょうか」
言ってから、遅れて気づく。
“ずっと”という言葉の範囲が、私の中で勝手に広がっていることに。
養護教諭は少しだけ間を置いて、でも誤魔化さずに答えた。
「無理、っていうより——張り詰めてたんだと思う。張り詰めてると、ある瞬間に糸が切れる。糸が切れるのは、弱いからじゃない。切れるまで張ってたから」
それは慰めじゃない。
事実としての説明だった。
「まずは着替えさせようか。濡れたままだと身体も冷えて、風邪もひいちゃうし。朝霧さん、椎名さんの替えの服ある?」
「教室に……鞄、教室にあります。取ってきます」
「お願い。走らなくていいよ。転ぶ方が困るからね」
“走らなくていい”と言われて、私は初めて自分の足が力みっぱなしだったことに気づく。
でも、歩いたら遅い。遅いと怖い。怖いとまた息が浅くなる。
私は頷いて、引き戸を開けた。
教室は夕方の光で、ありえないほど整っていた。
誰もいない机。黒板の粉の白。窓の外の空の赤。
世界が何も起きていないみたいに見えるのが、いちばん腹立たしい。
椎名の席に鞄がある。椅子に掛けられている。
持ち上げると軽い。
軽さに、胸の奥がぎゅっと縮む。
鞄の口を閉め直そうとして、中身が目に入った。
黒い無地の筆箱。黒いペン。主張のない文具。
香りのないクリーム。無地のスマホケース。
スポーツブランドの小さなロゴだけが、場違いみたいに揺れている。
——揺れを消してる。
“普通”に見えるために。
“普通”の形を保つために。
私は鞄を抱え、保健室へ戻った。
引き戸を開けると、養護教諭がちょうどカーテンを引くところだった。
「戻った? ちょうどよかった。上だけ、少し手伝って」
「はい」
「下も濡れてるから替えるけど、そこは私がやる。朝霧さんは外で待ってて。呼ぶから」
私は頷き、カーテンの外側へ回った。
中から衣擦れの音がする。ベルトを外す金具の音。布が剥がれる音。畳まれる音。
短い時間。けれどその短さが、逆に手際の良さを感じさせる。
「——朝霧さん」
呼ばれて、私はカーテンの隙間に入った。
ベットの端にスラックスがたたまれているのが見えた。
養護教諭が椎名の濡れたシャツを外し、乾いたタオルを肩に当てる。
私はその端を支える。
引っかからないように、擦らないように。
その瞬間、見えてしまった。
細い。
言葉がそこで止まる。
骨の線が、薄い影として皮膚の下に浮いている。
鎖骨の輪郭がはっきりしていて、首から肩へ落ちる角度が鋭い。
肋の一本一本が“数えられる”ほどじゃない。そこまで露骨じゃない。
だからこそ、怖い。
普通の人が見たら、「細いね」で済む。
「スタイルいいね」で済んでしまう。
ぎりぎり、本当にぎりぎりそう言える範囲に収まってしまっている。
でも私は知ってしまっている。
水泳をやっている身体が持つはずの厚みを。
水を押す背中の強さを。呼吸の深さを。
その“はず”が、ここにはない。
肌はきれいだった。
荒れてもいない。
ただ白い。整っている。
それが余計に痛々しい。
かわいそう、と思うのが普通だ。
痛々しい、と思うのが普通だ。
私は確かにそう思った。
胸の奥が縮んで、目を逸らしたくなった。
なのに、目を逸らせなかった。
この薄さの中に、“やってきたもの”が残っている。
削れても、形だけは崩さないようにしてきた痕跡がある。
隠して、整えて、普通のふりを続けてきた努力が、皮膚の下から見えてしまう。
——だから、きれいだと思ってしまった。
自分の感覚が怖い。
でも嘘じゃない。
「朝霧さん、タオル、もう少し上」
養護教諭の声で我に返る。
私は頷き、タオルを掛け直す。
替えのジャージの袖を通す。
椎名の腕は軽い。
軽いのに、関節の硬さが伝わる。
力がないんじゃない。力を出す道筋が不安定なんだ、と感じてしまう。
養護教諭がシーツを整え、カーテンを少しだけ開ける。
一連の動作が終わると、空気が少し落ち着く。
落ち着くのに、私の中は逆にざわつく。
「朝霧さん」
養護教諭が手を洗いながら言った。
「倒れ方と呼吸の様子から見ると、心因性——ストレス反応の可能性が高い。過換気と、冷えと、緊張が重なってる感じ」
“心因性”という言葉が、診断じゃなく推測として置かれる。
それでも胸に重い。
「ただ、首の痛みは気になる。本人が起きたら聞く。既往歴とか、持病とか、学校に提出されてる情報は——朝霧さん、知らないよね」
「……はい」
私は知らない。
知らないが、椎名の不安定さには気づいていた。
風紀に入ってから、椎名は“取り繕う”時間を増やされた。
巡回。奉仕。人の目。規則。
もっと強く止めるべきだったかもしれない。
椎名がちゃんと話してくれないから試して、見て自分で確かめようとした。
椎名のことをもっと知る必要があると思った。
初めて会ったとき、このままどこか遠くに行ってしまうんじゃないかそう思えた。
人見知りなりにコミュニケーションも頑張った。
でもそれは椎名を追い詰めていたのかもしれない。
今まで何とか椎名が保っていた均衡を、私は私の手で揺らしてしまったのかもしれない。
——私が、限界を越えさせた?
喉の奥が苦くなる。
養護教諭は私の顔を見て、少しだけ声の温度を変えた。
「あまり自分を責めないで。原因が何であれ、倒れるまで張ってたのは本人。それを褒めてあげて。あなたが悪いって話にはならない」
分かっている。
分かっているのに、納得できない。
私は“気づいてた側”だった。なのに、止めなかった。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉か分からないまま、口から出た。
養護教諭はそれ以上追及しない。
現実的な手順へ戻す。
「職員室に連絡してくる。保健室、空にできないから、すぐ戻るわ。朝霧さんはここにいれる?椎名さん——本人が起きたら、まず水を少し。焦って話さないこと。いい?」
私は頷いた。
“話さない”という指示が、逆に救いだった。
今の私は、何を言っても余計なことを言いそうだったから。
養護教諭が引き戸を開ける。
外の空気が一瞬だけ入り、すぐ閉じる。
保健室が、しんと静かになる。
私はベッドの脇の丸椅子に座った。
近すぎると怖い。遠すぎるともっと怖い。
だから、手を伸ばせば届く距離に座る。
椎名は眠っている。
眠っているはずなのに、眉が寄る。
口元がわずかに動く。息が乱れる。
——うなされてる。
最初は小さな、意味にならない音。
喉の奥で砕けたような息だけが漏れる。
「……や、……」
声になりきらない。
次に、単語が落ちる。
「……ぶが……い……」
その一言が、何を指しているのかははっきりしていた。
私は背筋が冷たくなる。
プールサイドで聞こえた、あの言葉。
椎名の中で、いまもそれだけが残っている。
椎名の手がシーツの上で動く。
掴もうとして、掴めないみたいな動き。
指が形を作れない。作ろうとして、途中でほどける。
私は反射で手を伸ばしかけて、止めた。
触れたら、起こしてしまうかもしれない。
でも触れないと、椎名はひとりで溺れる。
迷っている間に、椎名の呼吸が一段早くなる。
胸が小さく上下して、喉が乾いた音を立てる。
「……椎名」
いままで会話の呼びかけは苗字だった。
まるで椎名の名前を自分に言い聞かせるみたいに、そう呼ぶ。
返事はない。
けれど、瞼の下で眼球が動く。夢の中で何かを追っている。
「大丈夫。ここ、保健室。……私、いるよ」
語尾が自然に柔らかくなる。
いつもの私なら、もっと整った言葉を選ぶ。
でも今は、整える余裕がない。
椎名の喉から苦しそうな音が鳴る。
それが怖くて、私は椎名の手の近くに自分の手を置いた。
握らない。掴まない。
逃げ道を塞がない距離で、ただ“ここにいる”位置に置く。
椎名がまた、途切れ途切れに言う。
「……戻、…………」
戻す?戻る?
何を。いつを。どこを。
その続きは、言葉にならない。
息が詰まり、眉が歪んで、喉の奥で泣きそうな音だけが残る。
私は背中に手を回したくなる衝動を抑えた。
代わりに、椎名の枕の位置を少しだけ直す。
呼吸が通りやすい角度へ、ほんの少し。
「……大丈夫だよ。いまは、何もしなくていい」
言いながら、胸の奥が痛む。
“何もしなくていい”なんて、椎名が一番言われたくない言葉かもしれないのに。
それでも、今は——
今だけは、そう言うしかなかった。
椎名の指が、シーツを掴み損ねる。
掴み損ねたまま、力だけが入って、ほどけて。
それを何度も繰り返す。
私はその動きを見ながら、遅れて実感する。
椎名は、倒れたんじゃない。
倒れてしまうほどの場所に、追い込まれていた。
そして私は、気づいていたのに——
風紀という枠を渡して、そこに立たせた。
喉の奥が熱くなる。
泣くのは違う。いま私が泣いたら、椎名はもっと孤立する。
だから、息を吸って、吐く。
「……椎名。起きたら、ちゃんと聞くから」
返事はない。
うなされる声だけが、細く続く。
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