第10話 破片

夏休み明けの校舎は、まだ熱を吐ききれていない。

窓は開いているのに風は温く、廊下の空気はじっとりと制服の内側に貼りつく。蝉の声だけは元気で、世界がまだ“夏のまま”でいいと言い張っているみたいだった。


教室の隅で、何度も指を握ってはほどいた。

握る。ほどく。

その反復が、落ち着きのふりになる。


握るときに力が入らない。

ほどいたあとに、掌の奥だけが痺れたまま残る。

今は痛いというより――「思い通りにならない」という感覚が、皮膚の下にへばりつく。


大丈夫。

そう言葉にした瞬間に、喉の奥が乾く。


放課後のチャイムが鳴ると、教室がほどける。

鞄が持ち上がり、笑い声が増え、誰かが“部活行こうぜ”と声を上げる。

みんなが日常の続きを描く。日常は、戻る場所がある人のものだ。


廊下に出ると、朝霧澪がいた。

銀色がかった短い髪が、窓から差し込む夕方の光を拾って淡く光る。大きな二重の目は猫みたいに冷静で、見つめられると「言い訳」を許さない気配がある。

制服は完璧に整っていて、襟もリボンも皺ひとつない。そこだけ季節が違うみたいに、澪だけが“正しい”形を保っている。


「行くよ」


「うん」


二人で歩き出す。並ぶのが自然になりつつあるのがなんとなく嫌で、歩幅を少しだけずらしたくなる。ずらしたところで意味はないのに。


風紀委員室の扉を開けると、一ノ瀬透が机に向かっていた。

整った笑顔。整った声。整った手元。

“いい生徒”の皮が、今日も綺麗に貼りついている。


「お、来た。」


机の脇に段ボール箱が積まれている。昨日より増えている。増えることが当然みたいに、そこにある。


「水泳部の備品、追加。大会前で急ぎだって。あと、先生から。今日は巡回多めに回してほしいって」


朝霧が即座に言う。


「備品は二人で行きます」


一ノ瀬は笑顔のまま、首を振った。


「ダメ。澪は巡回。先生の指示。こっちは人手が足りない。昨日とは状況が変わった」


“先生の指示”。

その言葉は、断る側の口を塞ぐのに都合がいい。


朝霧は引かない。


「一人に任せるのは危険です。壊れやすいものでしょう」


「危険ね。巡回を止める方がリスク高い。未然に防げていたかもしれないものが、そうではなくなってしまうかもしれない。備品は一本道、渡すだけ。椎名ならできるでしょ?」


できる。

その言葉は褒め言葉みたいな顔をして、押し付ける。


朝霧の視線がこちらに刺さる。

“できる”と返事をした瞬間に、鎖が増えるのが分かっている目。


でも、ここで「無理」と言うのは怖い。

無理と言った瞬間に、先輩はどんな反応をするか想像に難くない。面倒が始まる。

面倒が始まるくらいなら、できる可能性にかける方がまだいい――そんな思考が、どこかで癖になっている。


「……行きます」


声が思ったより滑らかに出た。滑らかに出ると、周囲は安心する。安心されると、次が増える。


一ノ瀬は満足そうに頷き、鍵とサイン用紙を差し出した。


「じゃ、これ。サインもらってきて。時間ないって言ってたから、急いでね」


急いで。

今日もその言葉が落ちてくる。

床に落ちた言葉は拾えない。拾えないから、踏むしかない。


朝霧が低く言った。


「……なんでこんな簡単な忠告も聞けないの?」


「昨日はできたし」


「かろうじてね、それも赤点ギリギリ。善意を踏みにじられているようでこれ以上助けようという気にもなれない」


「……できるから」


朝霧の眉がほんの少しだけ動いた。

まるで幼いこと接しているようだ、というような沈黙。

言葉は厳しいが起こってはいないようだ。

むしろ助けを求める声を引き出そうとしているように感じる。


「終わったら連絡して」


「……うん」


委員室を出る背中に、朝霧の視線が刺さる。

刺さるのに振り返らない。振り返ったら、頼りたくなるから。


プール棟へ向かう廊下は、湿った熱が残っていた。

遠くで水の音がしている気がする。気がする、だけで喉が乾く。

実際に聞こえているのか、記憶が鳴らしているのか、もう区別がつかない。


段ボール箱は一つ。

見た目はそこまで大きくない。

でも、重さは見た目より正直だ。正直な重さは、指先の嘘を暴く。


抱え直す。

角が掌に食い込む。テープがざらつく。

手のひらの汗が、摩擦を奪う。


――落とすな。

落としたら壊れる。

壊れるのは備品じゃない。“普通”の皮が剥がれる。


プール棟の扉を押し開けた瞬間、匂いが刺した。

塩素。湿ったタイル。濡れた髪の残り香。

体の奥が勝手に固くなる。首の奥が、鈍く違う熱を持つ。



器材置き場の近くに、昨日の先輩がいた。

視線が合うだけで、心臓が一段跳ねる。


「……また備品?」


「風紀からです」


敬語が盾になる。盾の内側だけが震える。


先輩は箱を見て、鼻で笑うみたいに言った。


「今週末使うから。壊すなよ、マジで」


「はい。気をつけます」


荷物置き場はプールサイド。


濡れている。

ここではいつもそういうものだ。

湿り気がタイルに残り、薄い塩素が空気に張りついている。


台の上に置く。

置くだけ。


段ボールを滑らせるように動かす。

その瞬間――指先が、短いあいだだけ消える。


消えたのは感覚なのか、指先なのか、判断する前に掌が空をつかむ。

掴む。掴みたい。

掴みたいのに、指がいうことを聞かない。


掴もうとして腕に力が入る。

力が入った瞬間、首の奥がじくりと熱を持つ。

熱を持った瞬間、反射みたいに力が抜ける。


箱が傾く。

大きく。取り返しのつかない角度まで。


次の瞬間、床が割れたみたいな乾いた音が響いた。

破裂音はタイルに跳ね返って、やけに硬く聞こえた。


割れた。

割れたものが、濡れた床に散った。


散ったことは分かる。

何が、どれだけ、どう壊れて、何を先に拾えばいいのかは分からない。

分からないまま、身体だけが「拾え」と動く。


手を伸ばす。触れる。掴む。

掴めない。

掴めない理由を考えようとして、考えが途中で途切れる。


判断が追いつかない。

判断が追いつかないのに、時間だけが進んで、視線だけが増える。


「……おい」


声がする。近い。

意味は分かるのに、言葉として頭に入ってこない。


「なにやってんだよ!」


単語だけが釘みたいに刺さって残る。

刺さって残っているのに、反応の仕方が分からない。


謝る。拾う。説明する。

やることは分かっている“はず”なのに、どれも選べない。

選べないまま、口だけが動く。


息を吸う。

吸ったはずなのに胸に入った感覚がない。

喉だけが乾く。


「すみっ……すみません……」


出た。

でも「すみません」の先が出てこない。

先を探そうとした瞬間、また指先が抜ける。


――何が起きてるの。

――何が。


答えが来ない。


そのとき、別の声が入った。


「すみません。こちらで対応します」


朝霧の声だった。


声が通る。

通るのに、遠い。

遠いのに、そこに立っている気配だけはやけに確かで、視界の端に“壁”ができる。


朝霧が半歩前に出る。

視線を遮る位置。

こちらからは見えないはずの角度なのに、周りの空気が少しだけ静かになる。


「先生か、マネージャー呼んで代替あるか確認してください」


言い方は普通だ。

普通なのに、逆らいにくい。

その普通さが、いまの凪には眩しい。


椎名は床の破片に手を伸ばす。

拾う。拾わないと。

拾えば戻る。戻るはずだ。

戻らないと困る。


「椎名、大丈夫?」


朝霧がこちらを見る。

名前を呼ばれたことが、妙に痛い。呼び名が形を持って自分を取り囲んで逃げられなくする。


椎名は「大丈夫」と言おうとして、言葉が喉で詰まる。

代わりに頷く。頷いたつもりの動きだけが出る。


朝霧がしゃがむ。

椎名の手元を見るんじゃなく、椎名の顔のほうを見る。

見られた瞬間、また息が浅くなる。


「……触らなくていいよ。手、切っちゃうから」


朝霧の声は優しいのに、意志がある。

命令ではなく、止血みたいな言葉。


椎名はそれでも手を伸ばす。

伸ばしてしまう。

伸ばした瞬間、指がまた形を作れない。


掴めない。

掴めないのが分かって、頭が白くなる。

白くなると音が増える。増える音が、また白さを増やす。


「いいから、こっち。……座れる?」


朝霧が手を差し出す。

椎名はその手を取ろうとして、距離感が分からない。

取れたのか取れてないのかも曖昧なまま、朝霧が椎名の体重を受ける。


支えられた瞬間、制服の布が冷たく肌に貼りついているのに気づく。

タイルが濡れている。

タイルに触れていたところから水が染みて、服が重くなる。


重い。

でも“重い”のは布じゃなく、身体の内側だ。


朝霧が椎名の肩に腕を回す。

引き寄せるんじゃない。倒れないように、位置を固定してくれている。


「大丈夫。……座ろ。見られるの、嫌でしょ」


“嫌でしょ”が刺さる。

刺さるのに、朝霧の声はちゃんと近い。

近いのに、椎名の頭は追いつかない。


腰を落とす。落としたつもりで、落としきれない。

脚が命令を受け取る前に、意識だけが先に滑る。


床が一枚だけ遠くなる。

踏んだ感覚が薄い。薄いのに、踏ん張ろうとして力が入る。

入った力が首の奥にひっかかって、熱くなる。


熱くなった瞬間、支えが消える。


膝がほどける。

身体が傾く。


朝霧が咄嗟に受ける。

受けたのに、椎名の中で「受けてもらってる」という事実が、恥と恐怖に変わる。

恥のほうが先に来る。次に恐怖が来る。

恐怖が来ると、息がどこにも行かなくなる。


「椎名、力抜いて。……支えてるから」


朝霧が言う。

言っている。聞こえている。

でも言葉が意味にならない。


そのときだった。


周りの音の輪郭が溶けているのに、

朝霧の声も、足音も、遠くの掛け声も、全部同じ厚さになっているのに、


その一言だけが、ひとつだけ、異様に澄んで入ってきた。


「部外者が来て荒らすなよ。こっちは大会前なんだよ」


部外者。

荒らす。

大会前。


単語が揃って降ってくる。揃って降ってくるから、逃げ場がない。


椎名の中で、何かがきれいに切り分けられる。


ここは水泳の場所。

大会前の場所。

ここにいるのは部員。


椎名は、部外者。


心のどこかで、ずっと思っていた。

泳げなくなっても、席は残っている、と。

残っていない。最初から無かったみたいに言われる。


朝霧が何か言っている。

口が動くのが見える。

声が出ているのも分かる。


でも、届かない。


音は聞こえるのに、意味だけが消える。

意味だけが消えて、代わりに「部外者」の文字だけが残る。

残った文字が、胸の内側を押し潰していく。


椎名は息を吸う。

吸ったはずなのに、胸が空のままだ。

空のままなのに喉だけが乾いて、何かを言おうとして、何も言えない。


視界の端が暗くなる。

暗くなるのに、濡れたタイルの光だけがやけに強い。

水の匂いが濃くなる。濃くなるはずがないのに主張を強める。


——もう、ここには。


そう思った瞬間、身体が勝手に力を手放す。

朝霧の支えから逃げるみたいに力が抜けて、抜けた自分を支えるものがなくなる。


床が近づく。

冷たさが制服越しに広がる。

濡れが、輪郭だけを持って凪にまとわりつく。


「椎名——!」


朝霧の声が、遠いところで名字を呼ぶ。

呼んでいるのに、届かない。


椎名は、白いまま壊れた

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