煩悩。
「『火鼠の皮衣』ですか。」
「左様だ。其れが、彼の姫が私に課した問い。」
豊後国の海沿い、潮騒が岩肌を削る峻烈な地において、阿部御主人は一人の男と対峙していた。男の名は中津浦。此の地の古き理を知り、怪異を討ち、神霊と対話する術者として、一部の権力者にのみ知られる存在であった。
「火鼠は、此の現世の土を歩む獣ではございません。其れは、夢見る者達が住まう狭間、『夢見の異界』にのみ棲まう化生です。」
「其の異界とやらへ、私を連れて行け。自らも事に動かねば、姫の心も動かせぬ。」
「出来ませぬ、阿部殿。姫に提示された期限は、余りにも短い。異界へと向かう時間も、火鼠の皮を剥ぎ、衣に仕立てる時間も、三代の時間であっても到底足りませぬ。」
絶望的な沈黙が、波の音と共に二人の間に押し寄せた。期限、時間という壁が、人間の行動を無力な砂粒へと変えていく。だが、中津浦は溜めていた息を長く吐き出すと、僅かな可能性を口にした。
「現世での入手は完全に閉ざされはいないやもしれません。」
中津浦が視線を海流の先、西方へと向ける。
「唐の国にて交易を牛耳る大商人、王慶。あの男は、海の向こうから持ち込まれた理の外に有る品を、人知れず蒐集しているという噂がございます。黄金さえ積めば……」
「任せる。其の王慶とやらに、私が望む対価を伝えよ。金に糸目は付けぬ。」
数ヶ月の後。阿部御主人の屋敷には、数多の唐人が運んできた豪奢な箱が鎮座していた。中津浦の手配により、王慶との取引が成立したのだ。
箱の蓋が開かれた瞬間、室内に熱波が揺らめいた。其処には、深紅の輝きを紡いだかの如き皮衣が横たわっていた。阿部御主人は、其の輝きこそが真実であると信じ、迷わず竹林の屋敷へと向かった。
「……阿部様。此れが、本物か否か。試させていただけますね?」
「無論だ。火鼠の皮は、火に焼べてこそ、其の真価を証明する。」
赫奕姫の声は清水の如く涼やかであった。阿部御主人は一点の迷いも無く頷く。広間に木久代が用意した火鉢が運ばれ、火柱は其の舌を伸ばして獲物を待ち構える。
赫奕姫は以前の様に対象を査定しなかった。無意識を抑え、皮衣が灰と化すか、或いは炎を喰らって輝きを増すか、其の結果のみを静かに待つ為だ。
衣が火に投じられた瞬間、答えは残酷と言える程の速さで提示された。
激しい炎が、深紅の毛皮を容赦なく包み込む。衣は、見る影もなく黒く縮れ、鼻を突く異臭と共に、あっさりと灰へと成り果てた。
「……そうか。火に焼べて燃えるならば、其れは偽物だ。中津浦が言った通り、此の現世に『本物』など、最初から存在しなかったのだな。」
広間に重苦しい沈黙が降りる。だが、阿部御主人の相貌からは奇妙なまでの晴れやかさが漂っていた。
「姫よ。不徳を御詫び申し上げる。貴女の御前を汚したのは私の至らぬ所が故。そして、良き夢を見させて頂いた。深き感謝を。」
阿部御主人は、潔く頭を下げ、座を立った。讃岐や長田が引き止める間も無く、屋敷を去った。其の背中には、執着を焼き捨てた男の清冽な気が満ちていた。
屋敷の奥で赫奕姫は、火鉢の底に残った灰を見詰めていた。阿部御主人が去り際に残した『良き夢』という言葉が、胸の内に確かに反響していたのだ。
阿部御主人は官職を親戚に託すと京を去り、真っ直ぐに豊後国へと向かった。
「阿部殿、お戻りになられましたか。姫の心は、手に入れられましたかな?」
「いや。灰になったよ。だが、其れで良い。其れよりも、何やら人手が足りぬと聞いたが?」
中津浦の表情には、此れまでに無い緊張が走っていた。
「阿部殿。実は、私が仕える『水蛭子命』が、深海の底で目覚め、暴れておるのです。潮流が狂い、此のままでは豊後の海は死に絶える。私は此れを鎮めに向かうつもりです。」
――生きて戻るつもりは、毛頭ございません。
そう言った中津浦の相貌には、既に現世の縁を切り捨てた、『寂滅』の覚悟を宿していた。阿部御主人は、大太刀の柄を強く握る。
「中津浦、私は貴公に、現世には存在せぬ物を求めて来いと無理を強いた。今度は、私が応える番だ。其の神とやらを鎮める手伝いを、私にもさせろ。」
「阿部殿……貴殿は京の権力者だ。斯様な僻地で命を捨てる道理は無い。」
「道理など既に灰と成ったわ。貴公を易々と死なせはせんよ。」
中津浦は、友の瞳に宿る不退転の決意を認め、短く頷いた。
「現状は導きの神『猿田彦命』が先んじて、暴れ征く我が神を止めに走っておりますが……其れも長くは持ちますまい。阿部殿、参りましょう。」
こうして怒濤逆巻く潮の向こうへと小舟の一団が往く。潮の原を越える男達の顔に悲壮感など、微塵もなかった。
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