第2話:エルフの女

”異世界モノ”そういうジャンルのコンテンツがあることは知っていた。


客の女でそういうのが好きなやつがいたからだ。

一時期、その女のカルテをつけるために調べていたこともあるので、概要はざっくり把握している。

でも、現実に起こることだったとは……。


”異世界モノ”のコンテンツが世に溢れているのは、案外、からなのかもしれない。

そして俺は「ゴブリン」とのこと。

こういうのって、”無敵の能力”とか与えられて無双できるもんじゃないのかよ。


俺、カイトはふっ、と自嘲的な笑みを浮かべた。



「く、来るなッ……!!」

耳の尖った女は、獣のように歯を剥き出し、血まみれの腕で必死に距離を取ろうとしている。


そう、そんな経緯はどうでもいい。

とにかくコイツをなんとかしないと。


後ずさるたびに足元の落ち葉が鳴り、そのたびに体が大きく揺れる。

腹部から流れ落ちた血が、地面にまだらな染みを作っている。


まずいな。

修羅場で何度か血は見てきた。この出方はすぐ止血しないとダメなやつ。


カイトは女に歩み寄った。女の瞳が大きく見開かれる。

呼吸が乱れ、喉がひくりと引きつり、差し出しかけた手を全力で弾く。


「触るな……ッ! 来るなゴブリンッ!!」

――拒否。

いや、これはもう拒否じゃない。



「頼む、落ち着けって。逃げんのも無理だろ、その傷じゃ」

できるだけ声を低く、ゆっくり。

威圧しない距離を保ち、カイトは両手を見せる。


何度となく修羅場を潜り抜け、叩き込まれてきた基本動作だ。

だが――通じない。


「し、しぬ……! どうせ殺される! 犯すつもりなんだろう!? ゴブリンは弱ったエルフを攫って、繁殖のために利用すると聞いている!!」


悲鳴に近い。言葉が途切れ途切れになる。思考が暴走している証拠だ。


(はい出ました、エルフ。俺がで、この女はね。了解です)

カイトは内心で皮肉るが、状況は笑えない。


腹部の裂傷は深い。

呼吸のたびに血が溢れる。


感情のスイッチが入った女は、まともに話が通じないものだ。


「私、海斗くんがいないと死ぬから!!」

そう叫びながら、突然店に乗り込んできてリストカットした女。

異常な嫉妬心から、俺を無人島に連れ込んで拉致しようとした女。


論理は崩壊し、感情だけが暴走する目。

何度も立ち会ってきた。

――そのときの目と、今のエルフの目は、完全に一致していた。

(こういう状態の女は……“正攻法”じゃ無理なんだよな)


説得?

優しさ?

共感?


全部、逆効果。

喉の奥がひりつく。

口の中が異様に乾いているのがわかった。

エルフが必死に、立ち上がろうとする。


「……っ!」

崩れ落ちそうになりながらも、距離を取ろうと必死だ。

血が、どくりと溢れた。


さて、どうやって止血させてもらうか……。


ぽつり、と。

頬に、冷たい雫が落ちた。

次の瞬間、ぱら……ぱら……と、葉を打つ音が広がる。


雨だ。

空を見上げる間もなく、一気に降り方が強まる。

「……っ」

エルフの体がびくりと震えた。

さっきまで以上に、呼吸が荒くなる。


雨が血を叩き、地面に広がっていた赤が、ぬるりと滲んでいく。


――まずいな。


血は流れやすくなる。

体温も奪われる。森の空気が、急激に冷えた。

カイトは両手を挙げ、繰り返し敵意がないことをアピールした。


「や、やめて……来ないで……」

エルフは這うように後退し、濡れた落ち葉の上で滑り、尻もちをつく。

腹を押さえた指の隙間から、また血が溢れる。


「大丈夫、危害を加えるつもりはねぇ、俺は少しだが止血の心得がある。分かるか? 助けたいんだ」

「ころされる……」

自分の血が雨で流れていくのを見て、女の目が、完全に壊れた。


確かにこんな経験は初めてだった。

カイトが少し話せば、大抵の女は落ち着きを取り戻す。


どうやら外見てのは残酷らしい。

「……なぁ」

俺は、あえて一歩も近づかずに言った。

このまま話しかけ続けても、恐怖は増幅するだけ。


雨音が、思考を塗り潰していく。

(……時間切れだ)


助けるなら、今しかない。

俺の中で、ある記憶がはっきりと形を持って浮かび上がる。


ホスト時代、一度だけ使ったことのある””。


あれは客でも女でもない。

相手を”人間”として扱うのを、一瞬やめる行為。


パニック状態の心を、


あの時も、それをしたあと胸糞が悪くて一晩眠れなかった。何度も吐いた。

施設の寮長と自分が重なったからだ。


だが――

(やらなきゃ、こいつは死ぬ)


意を決して一歩、踏み込む。

「おい、エルフ」

「ひっ……!」


肩が跳ね、両腕で顔を庇う。

完全に”狩られる側”の反応。


カイトは一度、深く息を吸った。

刹那、エルフに飛び掛かると馬乗りになり、エルフの頬を強くひっぱたいた。


パンッ!!!


乾いた音が、森に響く。

「ひ……ッ」

女の首が横に弾かれ、視線が揺れる。

理解が追いつかない顔。


「まだだ」

迷いを切り捨て、もう一発。

角度を変え、恐怖を一瞬”断ち切る”ように。


二発目で、エルフの動きが止まった。

――恐怖でも、怒りでもない。

ただ、


これでいい。

これで、ようやく”人に戻る”。


「よし……もう動くなよ」

俺はゆっくりとしゃがみ込み、エルフの腹に手を伸ばす。


「……殺される……なら……早く……」


震える声。

抵抗は、もうない。

(殺すわけねえだろ。バカか)

手酌した水を、傷口に流し込み、傷ついている血管を探す。


ぴちゃ……


ぴちゃ……


エルフは目を閉じ、涙を溜めながら歯を食いしばる。

汚れを流し、裂けた皮膚を押さえ、布を裂いて縛る。

「うう……、はやく、ころ…せ」


構わず血を止める。応急処置に集中する。

やがて、女がうっすらと目を開けた。


「……な、に……?」

視界に映るのは、カイトが必死に処置している姿だった。


覚悟していた”陵辱”ではなく、ただの、泥臭い手当て。

「勝手に死なれたら、後味悪ぃんだよ」

脂汗をにじませ、カイトは言い聞かせるように呟いた。


「……」

エルフは、ぼんやりと俺の手を見つめる。

「どう、して……?」

「もううんざりなんだよ、目の前で人が苦しむのを見るのは」


少しだけ、間を置く。

「ああいう時の女は……ほんと、手に負えねぇからな」

「……なに、それ……?」

「ホストの現場ってのは、結構過酷なんだよ」


肩をすくめて、適当に笑ってみせる。

「ほすと?」

エルフは息を呑み、信じられないものを見るように、カイトを見つめた。

「この……ゴブリン……悪い奴じゃない……?」


カイトは肩をすくめる。

「見た目以外は、な――」

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