第2話「悪夢を殺すと、現実が血を流す」

 扉が開く音は、家の音だった。


 キイ、と乾いた軋み。冬の廊下でドアが擦れるときの、あの不快な高さ。台所の空気が一段冷え、蛍光灯の白さが固定された。点滅が止まったぶん、逃げ場がなくなる。


 玄関の影が伸びた。


 それが、人の形をしていた。肩幅。腕の長さ。立ち上がる背中。コートの裾が揺れる。


 ただし顔だけがない。


 冷蔵庫の写真と同じだ。黒く塗り潰された顔。ペンで塗ったのではない。黒い油を押しつけて、皮膚に擦り込んだみたいな厚い黒。輪郭のある黒ではなく、そこだけ穴が開いているような黒。


 男は台所の中央まで歩いてきて、止まった。


 靴音がしない。水の上を歩くみたいに滑る。床に濡れた跡だけが残る。


「ただいま」


 声だけが優しかった。


 それが、いちばん怖い。


 優しい声で傷つける人間がいる。優しい声で、逃げ道を塞ぐ人間がいる。そういう記憶が、人の中には薄く残っていて、ここでそれが掘り返される。


 流しの黒い水が、男の足元へ回り込んだ。影というより水だ。水が床を這い、男の輪郭を補強していく。


 僕の手の中の刃は、まだ細く光っていた。


 透明なボールペンだったはずの軸が、冷たい金属の重さを持っている。握った指の腹が、硬さで少し痛む。痛むのに、それも遠い。


 男が一歩近づいた。僕の体が反射的に後ろへ退く。背中がシンクの縁に当たった。冷たさが骨に入る。


 男の影が僕の靴下に触れた。


 刃の先が鈍った。


 金属の音がしたわけじゃない。光が消えた。刃の輝きが、黒い水に吸われるみたいに薄くなる。切れるはずのものが切れない、と手首の感覚が先に理解した。


 水は斬れない。


 影は斬れない。


 この怪物は、切る相手ではない。恐怖そのものの塊で、刃が当たる前に形が逃げる。


 男は、優しい声のまま言った。


「遅くなって悪かったな」


 言葉の形が、家庭の言葉だ。普通の台所にある言葉だ。だからこそ、ここで刺さる。


 僕は視線を泳がせた。空間に手がかりがある。眠りの主の恐怖は、空間の法則になる。なら、この家の法則の中心にあるものを見つける。


 冷蔵庫の扉の端に、紙が貼られていた。メモ用紙。角が少し折れている。子どもの字だ。丸い字。けれど、最後の線だけが強い。


 そこに書かれていたのは、ひらがなで短い言葉だった。


 かぎ しめる


 家の鍵じゃない。


 鍵を締めるのは、玄関だ。でもこの言葉は、玄関の鍵だけを指していない。もっと内側の、心の扉のことだ。


 男が、冷蔵庫の写真に手を伸ばした。黒く塗り潰された顔の部分に、指が触れる。触れた瞬間、写真の表面が湿った。黒が滲む。黒が溶けて、指先に移る。


 男の顔に、ひびが入った。


 黒の表面に細い亀裂が走った。亀裂の向こうに、肌色が一瞬見える。


 僕は理解した。


 この怪物は、帰宅そのものだ。


 帰宅する足音。鍵が回る音。扉の軋み。台所に入ってくる気配。言葉の最初の一音。その一つ一つが、眠りの主の中で恐怖として固まっている。


 恐怖は、言葉にされないまま固まると、形を持つ。


 逆に、言葉にされると脆くなる。


 僕は口を開いた。喉が乾いて、声が掠れた。掠れた声が、台所の壁に当たって跳ね返る。


「あなたは、何時に帰ってくる」


 問いかけは、刃より先に刺さる。


 男が止まった。優しい声のまま、動きが止まるのはおかしい。恐怖の核に触れたときの止まり方だ。


 僕は続けた。


「鍵が回る音で、家の中が変わる。ここは、そういう家だ」


 黒い顔に、亀裂が増えた。ひびが蜘蛛の巣みたいに走る。黒い水の影が揺れる。水面に波紋が広がる。


 僕の刃が、少しだけ光を取り戻した。


 斬るのではない。言葉で割る。


 僕はもう一度、冷蔵庫のメモを見た。


 かぎ しめる


 眠りの主は、鍵を閉めたい。鍵を閉めれば、入ってこない。入ってこなければ、台所は安全でいられる。


 でも鍵は回らない。回せない。


 この家の主は、鍵を閉められない。閉めさせてもらえない。


 僕の手首が震えた。刃の重さが戻ってくる。けれど刃は万能じゃない。水の影に触れればまた鈍る。切る場所を選ばないといけない。


 恐怖が形を失う瞬間に、刃を通す。


 それが、僕のやり方だ。


 男が一歩踏み出した。黒い水が床を這い、僕の足元へ絡みつく。靴下が冷たく濡れ、足首が痺れる。痺れは現実の痺れに似ている。似ているから、ここが夢だと忘れそうになる。


 男の声が、また優しく落ちてくる。


「開けてくれ」


 それは、父親の声というより、鍵の声だった。扉の向こうから聞こえる声。


 僕は歯を食いしばった。歯の根が痛い。痛いのに、それも遠い。遠い痛みを引き寄せるために、爪を立てた。けれど爪の痛みすら薄い。


 僕は床を見た。


 白いタイル。目地。細い線が格子状に走っている。線は規則的で、現実の床にもある。病院にも学校にもある。逃げられない場所の床にある線だ。


 僕は走った。


 刃を振るのではない。刃を床に沿わせる。


 目地の線に刃先を当てる。金属がタイルを擦る感触が手首に返る。その感触だけが確かで、僕はそれに縋った。


 男の影が追ってくる。水が足首に絡み、動きを鈍らせる。けれど僕は、目地の線をなぞり続けた。影の輪郭を囲うように、縫うように。


 僕がしているのは斬撃じゃない。


 縫い止めだ。


 目地は、固定するためにある。線があることで、床は割れない。線があることで、力が逃げる。ならこの線で、影の流れを縛る。


 僕は息を吐いた。息が白くならない。夢の中の息は白くならないのに、喉の奥が冷たい。


 影が、目地に引っかかった。


 水が線の上で止まる。止まり方が不自然で、黒い水がぷつんと切れる。切れた途端、男の形が崩れた。


 黒い顔が、落ちた。


 黒が床に落ち、広がる。広がるのに、床の目地を越えない。格子の中に閉じ込められた墨みたいに、四角の中で揺れる。


 その下から、一瞬だけ普通の顔が見えた。


 年齢は分からない。父親と呼べる輪郭。疲れた目。口元の線。泣いていた。


 泣いている顔が、僕を見た。


 怪物が泣いている。


 その事実が、背中を冷やした。


 加害者が泣くこともある。泣きながら傷つけることもある。被害者でありながら加害者になることもある。そんなものを、ここで見せられるのは反則だと思った。


 僕は刃を振り下ろした。


 水の影ではなく、縫い止められた黒の塊へ。


 刃が通った瞬間、黒が裂けた。


 裂ける音はしなかった。代わりに、蛍光灯が一度だけ大きく揺れた。台所の白さがひっくり返る。床の冷たさが消える。


 僕の視界が、布団の暗さに戻った。


 息が、現実の空気を吸った。


 僕は咳き込んだ。


 咳が止まらない。胸の奥が焼ける。喉の粘膜が擦れて、鉄の味がした。口の中に苦い唾が溜まる。


 暗い部屋。毛布。枕。窓の外の街灯。


 それなのに、足首が冷たい。濡れた靴下の感覚が残っている。夢の水の冷たさが、現実の皮膚に居座っている。


 僕は右手を見た。


 掌に、線が走っていた。


 裂傷。血が少し滲んでいる。線が妙に整っている。床の目地みたいに、まっすぐで、一定の間隔で。


 夢の中で縫った線が、現実の掌に写っている。


 夢の傷が、現実に残る。


 それが確定した瞬間、背中が冷えた。


 ドタドタ、と廊下を走る音。


 母がドアを開けた。寝起きの髪。焦った目。部屋の灯りをつけないまま、僕の顔を覗き込む。


「ユウ、どうしたの。今の咳」


 僕は手を引っ込めた。血が見えないように、毛布の下へ隠す。隠した瞬間、掌が痛んだ。痛みが、今度はちゃんと近い。現実の痛みだ。


「大丈夫。喉、変なだけ」


 母の目が、僕の手元を探る。見るな、と心の中で叫ぶ。声にしない。声にすると、もっと確かになってしまう。


 母は僕の額に手を当てた。手の温度が、生きている温度だった。その温度に救われそうになって、逆に怖くなった。救われたら、僕は嘘をつけなくなる。


「病院、行く?」


「いい。明日、学校あるし」


 母は何か言いかけて、飲み込んだ。台所で包丁の音が止まったときと同じ沈黙。母の沈黙は、僕を責めない代わりに、僕を孤独にする。


「水、飲む?」


「うん」


 母が部屋を出ていく。足音が遠ざかる。ドアが閉まる。


 僕は毛布の中で、掌を見た。


 裂傷の線。血の滲み。整いすぎた線。


 これをどう説明する。転んだ。切った。そんな嘘で通る線じゃない。線に意図がある。目地の線みたいに、意味がある。


 僕は手を握った。血が少し手のひらに広がった。温かい。現実の温かさだ。


 怖いのは、夢の怪物じゃない。


 夢の結果が、現実に残ることだ。


 そして、残るだけじゃない。


 夢の中で何かを殺したことが、現実を動かしてしまうことだ。


 翌朝。


 学校の廊下は、冬の乾いた匂いがする。ワックスと、制服の繊維と、暖房の埃。靴音が整然と響く。ここは現実のはずだ。


 僕は掌に絆創膏を貼っていた。貼り方が下手で、端が少し浮いている。浮いている端が、ずっと気になった。そこから線が見えそうで。


 昇降口の掲示板の前で、足が止まった。


 地域新聞の切り抜きが貼られている。誰かが毎朝持ってくるやつだ。事件や行方不明や、火事の小さな記事。読んでも読まなくてもいいはずの紙。


 僕は読んでしまった。


 父親刺傷事件。


 小さな記事。小さな文字。場所。時間。軽傷。通報は妻。


 それだけ。


 なのに、胸が冷えた。


 夢の台所。黒い顔。泣く顔。縫い止めた影。刃を通した瞬間。


 現実が動いた。


 救いが成立したのかもしれない。眠りの主は、鍵を閉められるようになったのかもしれない。妻が通報できるようになったのかもしれない。


 でも、そのために血が流れた。


 僕の掌にも血がある。


 僕は掲示板から目を離した。離したのに、記事の文字が頭の奥に張り付いた。黒板の字が沈むみたいに。


 教室へ向かう。廊下の窓から校庭が見える。子どもが走っている。笑い声がする。現実の音だ。


 それでも、足元の床の目地が気になる。格子の線が、どこまでも続いている気がした。


 一時間目。


 教室で席につく。机の中にスマホを入れた。授業中は出さない。それが普通だ。普通のルールだ。


 先生の声が始まる。


 僕はノートを開く。シャーペンを持つ。紙のざらつきが指に返る。現実だ、と確認する。


 そのとき。


 机の中で、スマホが震えた。


 通知の振動じゃない。着信の振動でもない。画面を見なくても分かる。これは、夜に僕を落とす震えだ。


 僕は動けなかった。


 震えは一定のリズムで続く。


 心臓の鼓動に似ている。いや、似ているのではなく、重なる。


 隣から、微かな衣擦れの音。


 ミサキが、笑っていた。


 口元はいつもの笑い方だ。友達に向ける、軽い笑い。けれど目が違う。


 目が眠っている。


 瞳が、焦点を結ばないまま、僕の方を見ている。見ているのに、見ていない。そこにいるのに、そこからいない。


 僕のスマホの震えのリズムが、ミサキの喉元の脈と一致した。


 僕は顔を上げたまま、息を吸うのを忘れた。


 教室の音が遠のく。


 黒板の字が沈む。


 ミサキの笑いだけが、固定される。


 次の悪夢の入口が、机の中ではなく、隣の席に開いた。


ーーー

いつも読んでくださってありがとうございます。

超大作になる予感…続きはできるだけ早く更新します。よければフォローして、次話の通知で追ってもらえると嬉しいです。

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