沈黙プロトコル
しげみちみり
第1話「夢で死んだ日、僕は“入口”になった」
黒板の字が、沈んだ。
滲むのとは違う。水に溶けるのでもない。チョークの線だけが、紙の上の墨みたいに重くなって、板の奥へ落ちていく。目がそれに引っ張られて、視線を戻すのに時間がかかった。
教室は、午前の匂いがする。窓際のストーブの甘い灯油臭。濡れた上履きが乾ききらないゴムの匂い。誰かの柔軟剤が、寒さで立ち上る。
僕は机の下で爪を立てた。掌の皮膚を、わざと痛めつける。
痛みはある。あるはずなのに、遠い。
指先の圧だけが、別の誰かの手に移ったみたいに鈍い。血が出たかどうかも分からない。
先生の声が、教室の天井から降ってくる。
「矢野。今のところ、読んでみろ」
名前を呼ばれた瞬間、みんなの視線がこちらに寄った。視線が、熱を持つはずの場所なのに、皮膚の上で冷たい。氷を置かれたみたいに。
立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、やけに遅れて届く。音が、壁にぶつかって跳ね返ってくるまでが長い。
教科書を開く。紙のざらつきが、指に残らない。ページの端をなぞっているのに、触っている実感だけ抜け落ちている。
読もうと口を開いたとき、言葉が一拍遅れた。
声は出る。けれど、口の中から出た音が、自分のものじゃない気がする。録音を聞いているみたいな距離がある。
僕は文字を追った。目は追えているのに、意味が頭に着地しない。文章が、床に散らばって、拾い集める前に次の行へ滑っていく。
隣の席で、消しゴムが落ちた。
コトン、という小さな音。けれど、音が床に触れるまで、妙に時間がかかった。水の底で鳴った鐘の音みたいに、丸く、伸びて、遅れてくる。
僕のまぶたが重くなった。
瞬きをしようとする。まぶたが閉じる。そこから開くまでに、長い暗闇が挟まる。
閉じたまぶたの裏に、教室じゃない色が浮かんだ。蛍光灯の白。濡れた床の鈍い反射。何かが、角に溜まっているような黒。
開け、と自分に言う。
まぶたが開いた。
先生の声が、もう一度落ちてくる。
「矢野。聞いてるか」
僕は頷いた。頷けた。けれど頷いた瞬間に、首の付け根から冷たい汗が出た。汗が肌を伝う感じだけが、やけに生々しい。
先生は僕を睨んだまま、板書に戻った。チョークが黒板を擦る音が、砂利を踏むみたいに耳に刺さる。
僕は座った。心臓が胸にあるのは分かる。けれど鼓動が、どこか外側で鳴っている。机の中に入れたスマホが、通知もないのに震えているときみたいに。
授業が終わる。チャイムが鳴る。音が、いつもより薄い。
昼休み、弁当を開く。米の湯気が立つ。湯気の匂いがするはずなのに、鼻の奥が空っぽだった。
箸を持ち上げた。持ち上げたはずの箸が、途中で止まった。腕が重い。いや、重いというより、腕の存在が曖昧になる。関節の位置が、分からなくなる。
「ユウ、大丈夫?」
ミサキがこちらを見ていた。僕の隣の席の、真っ直ぐな目の子だ。髪を耳にかける仕草が癖で、授業中、何度も手が動く。
僕は笑った。笑う筋肉が動いたのは分かる。頬が上がった気がした。でもそれを自分の顔で感じられなかった。
「うん。寝不足」
言葉は出る。形は整う。意味も合っている。なのに、言いながら、喉の奥が乾いた。唾が飲み込めない。
ミサキは一瞬、何か言いたそうに口を開いた。けれど閉じて、箸を戻した。
「最近、みんな寝不足だよね。テスト前だからかな」
その言い方が、軽すぎて、救われる。誰にも触れられたくない部分に、手を伸ばされないで済む。
僕は、弁当箱の蓋の端を指で撫でた。プラスチックの冷たさだけが確かだった。
午後の授業も同じだった。瞬きが長くなる。音が遅れる。視界の端に黒が滲む。
放課後、先生に呼び止められた。廊下の窓から、冬の光が斜めに差している。光が冷たくて、足元の床が白く光った。
「矢野。保健室、行け」
言い方は短かった。先生も忙しい。僕も頷くだけで済む。
保健室のドアを開けると、薬品と綿の匂いがした。ストーブの近くで、加湿器が小さく鳴っている。養護教諭の机の上には、紙の山と、使いかけの飴が転がっている。
「どうしたの」
養護教諭は僕を見て言った。声が柔らかい。柔らかいのに、逃げ場がない。ここでは誤魔化しの顔が通りにくい。
僕は椅子に座った。座った瞬間、背中の皮膚が服に擦れた。そこだけ痛い。そこだけ、現実の輪郭が濃い。
「ちょっと、眠くて」
「夜、眠れてる?」
質問が、真ん中に刺さる。
僕は笑う。昨日も笑った。今日も笑った。笑い方を覚えている。笑ってしまえば、会話は丸くなる。
「まあ、普通です」
養護教諭の目が、僕の顔を見て、それから首筋のあたりを見た。視線が下がっていくのが分かって、僕は背中を丸めた。
見せたくないものがあるとき、人は背中を丸める。そんなことを、学校で教わらなかったのに知っている。
「顔色、よくないよ。保健室、横になる?」
「大丈夫です」
断る言葉は、軽く出た。軽いのに、手のひらに汗が出た。汗が、指の間を冷たくする。
養護教諭は棚から体温計を出して、僕に渡した。体温計のプラスチックの冷たさが、指に残った。
体温は平熱だった。平熱の数字が、妙に腹立たしい。僕の中では何かが崩れているのに、数字だけが整っている。
「ねえ、矢野くん。最近、変な夢、見てない?」
その言い方は、さりげないふりをしていた。けれど、試すみたいな静けさがあった。彼女の質問が、ただの心配じゃないのが分かった。
僕は首を振った。首を振った瞬間、背中が痛んだ。服の下の皮膚が引き攣れる。
養護教諭の目が、僕の肩の動きを追った。
「背中、どうしたの」
「何でもないです」
僕は立ち上がった。早くここを出たい。息を吸う。空気が胸に入らない。喉の奥が細くなっている。
養護教諭は、それ以上追わなかった。追わない代わりに、引き出しから小さな紙を取り出して、僕の前に置いた。
「睡眠外来、行ってみない? 今、そういうところ、あるから」
僕は紙を見た。病院の名前。電話番号。時間。すべてが、整った文字で並んでいる。現実のものだ。そこだけ、妙に硬い。
僕は首を振った。
「平気です」
そう言った瞬間、胸の奥がきしんだ。平気のはずがない。けれど、平気と言わないと、世界が崩れる気がした。
保健室を出ると、廊下が長かった。床が冷えている。足音が、遠くに落ちる。
校門を出て、家に向かう。冬の空が薄い。雲が紙みたいに広がっている。風が指の間を抜ける。手袋をしているのに、冷たさが骨まで入ってくる。
家の玄関を開けると、味噌汁の匂いがした。母の包丁の音が、まな板に一定のリズムで落ちている。
「おかえり。今日、どうだった」
母は台所から顔を出した。エプロンの紐を結び直す。結び目が固く締まる音がした。現実が、固い音でできている。
「普通」
「普通って、顔じゃないよ」
母の目が僕の頬をなぞる。視線が熱い。熱いのに、触れられた感じがない。
僕は靴を脱いで、廊下を歩いた。廊下の床板が、少しきしむ。家の音だ。いつもの音だ。
「最近、また、顔色悪い」
母が後ろから言った。
僕は振り返らなかった。振り返ると、母の目の奥にあるものが見える気がした。見えてしまうと、僕は戻れない。
「大丈夫」
母の包丁の音が一瞬止まった。それから、また動いた。止まった一瞬が、やけに長く感じた。
母は何か言いかけて、言わなかった。言いかけた言葉が、台所の空気に残ったまま、湯気に溶けた。
僕はリビングのテーブルに目をやった。新聞の切り抜きが置いてあった。紙の端が、少し丸まっている。指で押さえた跡が、薄く残っている。
見出しだけが目に入った。
睡眠中の事故死。
文字が、黒く、刺さった。
僕は視線を逸らした。逸らしたのに、文字が目の裏に残った。黒板の字が沈んだみたいに、頭の奥へ落ちていく。
母は、切り抜きに触れなかった。触れない代わりに、鍋の蓋を閉めた。蓋が金属の音を立てて、現実が閉まる。
夕食を食べる。味はする。けれど、味の輪郭が薄い。噛んでいるのに、どこか別の口が噛んでいる気がする。
風呂に入る。湯が熱い。皮膚が赤くなる。赤くなるのが分かる。けれど赤くなる痛みが、遠い。
背中を洗うときだけ、指先が止まった。布が皮膚に触れた瞬間、鋭い痛みが走った。そこだけ、現実が噛みついた。
鏡を見る。肩甲骨のあたりに、細い線が走っている。火傷の痕みたいな、薄い傷。昨日より少し濃い。
僕は視線を外した。鏡の中の自分と目が合うのが怖かった。目が合うと、何かが言い出す気がした。
夜が来る。
自分の部屋に戻る。机の上に教科書が積まれている。ノートの端が少しめくれている。ペン立てのペンが、いつもの位置にある。
いつもの、はずだ。
なのに、部屋が少し広く見えた。壁が、遠い。天井が、浮いている。空間の密度が薄い。
僕はスマホを手に取った。画面は暗い。通知はない。電源はある。
それでも、手のひらの中で、小さく震えた。
着信でもない。通知でもない。画面のどこにも、何も出ない。
なのに、震えは続く。
一定のリズム。機械じゃないみたいな揺れ方。誰かの心臓が、僕の手の中で鼓動しているような。
僕は、イヤホンを取り出した。
慣れた手つきで耳に入れる。ケーブルが頬に触れる。その触感だけが、やけに確かだった。
イヤホンから音は出ない。音は出ないのに、耳の奥が塞がる。外の世界が、薄い布を一枚挟んで遠のく。
布団に潜る。毛布の重さが、胸に乗る。重さが、安心に変わる前に、別のものになる。押さえつけられる、に近い。
目を閉じる。
耳鳴りがした。いつもの耳鳴りじゃない。高い音が、細い線になって、やがて波になる。波が、部屋の輪郭を削っていく。
壁が遠のく。天井が遠のく。机が薄くなる。
息を吸う。息が、途中で折れる。
僕は口を開けて、空気を取り込もうとした。空気が、冷たい。冷たいのに、匂いがない。
目を開けた。
天井が違った。
白い。白すぎる。蛍光灯が、天井の真ん中で点滅している。点滅のたびに、空間が切り替わる。明るい瞬間と、暗い瞬間が、別の世界みたいにずれる。
足元が濡れていた。靴下が、冷たい水を吸っている。床は板じゃない。タイルの冷たさが、足裏から上がってくる。
ここは、知らない台所だった。
流し台の前に立っている。蛇口が古い。シンクの縁に、黒い汚れが固まっている。スポンジが、使われたまま乾いて、硬くなっている。
流しの中に、水が溜まっていた。
黒い水。
墨を落としたみたいに濃い。表面が光を吸っている。光がそこだけ沈む。
僕は息を止めた。止めたのに、胸が勝手に動いた。身体は、ここで呼吸を続けることを知っている。
蛍光灯がまた点滅する。点滅の合間に、流し台の下の暗がりが開いた。
何かが、覗いた。
黒い。目だけが、白い。白いのに、光っていない。濡れた石みたいに鈍い。
僕は視線を逸らさなかった。逸らすと、背中を見せることになる。背中を見せると、何かが来る。そういう法則を、僕の身体が知っていた。
冷蔵庫に目をやる。扉に、磁石で写真が止まっている。家族写真。
父親らしい男が中央にいて、母親らしい女が隣にいる。子どもが前に立って、笑っている。
男の顔だけが、黒く塗り潰されていた。
ペンで塗ったみたいな黒じゃない。紙の上に黒い油を垂らして、擦り付けたみたいに、厚い黒。そこだけ、写真の表面が歪んでいる。
玄関の方から音がした。
ガチャガチャ。
鍵が回ろうとしている。回らない。何度も回ろうとして、回らない。
金属が擦れる音が、台所の床に落ちて、壁に跳ね返る。跳ね返って、僕の歯の根を揺らす。
僕は理解した。
この家の主は、鍵を開けられない。
鍵を開けられないから、外に出られない。外に出られないから、誰かが入ってくるのを止められない。止められないから、ここが悪夢になる。
悪夢は、恐怖そのものが空間の法則になる。誰かの恐怖が、床を濡らし、光を点滅させ、鍵を回らなくする。
流しの黒い水が、盛り上がった。
表面が膨らみ、形を持つ。腕の形。肘の曲がり。手首の細さ。指が、五本。
指先が光った。包丁の刃みたいに、薄く、冷たく。
水なのに、刃がある。
刃があるのに、水が滴る。
僕の喉が乾いた。舌が上顎に貼りつく。唾が出ない。
僕は、逃げなかった。
机の上に、ペンが落ちていた。どこにでもある、安いボールペン。透明な軸の、インクが見えるやつ。
僕はそれを掴んだ。掴んだ瞬間、ペンの重さが変わった。
指の腹に、冷たい硬さが当たる。
ペン先が、伸びた。
金属の細い刃。ペンの形を保ったまま、先端だけが、鋭くなっている。
僕の胸が痛んだ。胸の奥が、きゅっと縮む。心臓が、硬いものに押し潰されるみたいに。
ここで武器を持てるのは、条件がある。
僕は、その条件を知っている。
夢で一度死んだ者だけが、夢の中で刃を得る。
死んだことのない者は、ここでは逃げるしかない。逃げても、鍵は開かない。出口は、恐怖の外側にしかない。
黒い水の腕が、シンクから伸びた。床に垂れた水が、足元を濡らす。冷たさが、骨に刺さる。
僕は刃を構えた。構えた瞬間、視界が二重になった。
目の前の台所と、別の景色が重なる。
布団の感触。毛布の繊維。部屋の暗さ。窓の外の街灯の薄い光。
耳の奥で、母の声がした。遠い。廊下の向こうから呼ばれているみたいに、薄い。
「ユウ……?」
声が、波の向こうから届く。
僕の身体が痙攣した。腕が勝手に跳ねる。刃先が空を切る。
喉が勝手に動いた。言葉が漏れそうになる。
助けて。
言ったら終わる。言ったら、現実の側に引きずられる。引きずられて、こっちで開いている鍵穴が、向こうにも開く。
玄関の鍵の音が、変わった。
ガチャガチャ、ではない。
カチリ。
確かな音。回った音。開いた音。
台所の空気が、一段冷えた。蛍光灯の点滅が止まった。明るさが固定された。固定された明るさが、逆に怖い。
玄関の扉が、軋んだ。
外から、何かが入ってくる。
僕の手の刃が震えた。震えは怖さのせいじゃない。現実の身体の痙攣が、夢の手首まで伝わっている。
扉が開く音がした。
その瞬間、台所の黒い水が、笑ったみたいに波打った。
僕の視界が、暗転した。
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