第2話 堕ちた星

 近くで見ると、そのポッドの異様さが際立っていた。全長は三メートルほど。一人乗りの緊急脱出用ポッドのように見える。側面には、豪奢な紋章が描かれていた。双頭の鷲と、太陽の意匠。


「……どこかの国の紋章か?」


 少なくとも、一般市民の船ではない。どこかの金持ちか、あるいは貴族が乗っているに違いない。


「……生きてるか?」


 サクヤはグローブで雪を払い、ハッチの小窓を覗き込んだ。中は薄暗い非常灯に照らされていた。そこに、一人の少女がぐったりと倒れていた。


 年齢は一六か、一七か。豪奢なドレスを身にまとい、プラチナブロンドの長い髪がシートに広がっている。透き通るような白磁の肌。衝撃で気絶しているようだが、外傷は見当たらない。


「お姫様かよ。……こいつは高く売れそうだ」


 サクヤは呆れたように呟いた。こんな辺境の岩礁に、なぜこんな極上の「お宝」が落ちているのか。だが、今は詮索している場合ではない。


 彼は緊急開放レバーに手をかけた。プシュゥゥ……!圧縮空気が抜け、ハッチが開く。同時に、冷気がポッド内へ流れ込む。


「う……」


 寒さに反応したのか、少女の唇から小さな吐息が漏れた。長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。そこにあったのは、吸い込まれるような翠玉色エメラルドグリーンの瞳だった。


「……ここは……?」


 鈴を転がすような、気品のある声。彼女はぼんやりとサクヤを見上げた。無精髭を生やし、油の匂いがする防寒コートの男。背後には、錆びついた人型機械『黒鳶』。そして、夕闇が迫る荒涼とした空。彼女が知っている世界とは、何もかもが違っていたのだろう。少女は困惑し、しかし取り乱すことなく、静かに問いかけた。


「貴方は……誰ですか?」

「俺はサクヤ。通りすがりのゴミ拾いだ」


サクヤは肩をすくめ、皮肉っぽく笑った。


「おはよう、お姫様。地獄の一丁目へようこそ」

「地獄……?」

「ああ。あと数分で、ここはもっと酷い場所になる」


 サクヤは顎で西の空をしゃくった。少女がつられて視線を向ける。その瞬間、彼女の瞳が恐怖で見開かれた。


 西の水平線。そこには、巨大な「黒い壁」がそびえ立っていた。雲海を飲み込み、空を塗りつぶしながら迫りくる、漆黒の断絶。「夜」だ。この惑星において、夜とは単なる時間の経過ではない。物理的な「死の領域」の到来を意味する。太陽の熱を失った大気は瞬時に凍結し、あらゆる生命活動を停止させる。

 ゴゴゴゴゴ……。遠雷のような低い音が響いている。それは、急激な温度低下によって大気が悲鳴を上げている音だ。


「あ……」


 少女の顔から血の気が引いていく。彼女はこの空のことわりを知っている。夜に飲み込まれれば、どんな厚着をしていても数分で死に至ることを。


「理解したか?ここはもうすぐ冷凍庫の中だ」


 サクヤは腕時計クロノグラフを睨んだ。日没線デッドライン到達まで、あと三分。


「さあ、立てるか?モタモタしてると、後ろから来る『奴』に食われるぞ」


 サクヤが手を差し出す。だが、少女はその手を取らなかった。彼女はポッドの縁に手をかけ、必死に周囲を見回し始めた。岩、雲、鉄屑。それ以外には何もない。


「ま、待ってください!私は……私の船は!?」

「船?」

「オリエンス号です!私は船に乗っていたはず……。お父様は?ヴィグナはどこですか!?」


 少女は半狂乱になって叫んだ。ドレスの裾を引きずりながら、ポッドから這い出そうとする。だが、衝撃のせいか足に力が入らず、その場に崩れ落ちそうになった。


「おい、無理すんな!脳震盪起こしてんだよ!」


 サクヤは咄嗟に彼女の体を支えた。軽い。まるで羽毛のようだ。そして、鼻先をくすぐる甘い香り。油と鉄錆の臭いに慣れたサクヤの鼻腔を、強烈に刺激する。


「離してください!探さなきゃ……みんなを、探さなきゃ!」

「探すも何も、ここには俺とあんたのポッドしかねえよ!」


 サクヤは冷徹な事実を告げた。


「レーダーには何も映ってねえ。あんたの言うオリエンス号とやらは、ここにはいない。あんたは一人ではぐれたんだ」

「そんな……嘘……」


 少女の表情が凍りつく。エンジントラブルで、ポッドに移れと言われて……気がついたら、こんな場所に一人きり。絶望。自分がたった一人、見知らぬ場所に放り出されたという事実が、彼女の華奢な肩に重くのしかかる。


 ピキッ。乾いた音が響いた。足元の岩盤に、白い亀裂が走る。霜だ。夜の先触れである冷気が、ついにこの岩礁に到達したのだ。


「チッ、時間切れだ!」


 サクヤは迷っている暇はないと判断した。彼は少女の細い腰を抱え上げ、米俵のように肩に担ぎ上げた。


「きゃっ!?な、何をするのですか無礼者!」

「うるせえ!ここで氷像になりたくなきゃ黙ってろ!」


 少女が背中をポカポカと叩くが、痛くも痒くもない。サクヤは岩場を駆け抜け、『黒鳶ブラックカイト』の足元へ滑り込んだ。オートリフトが作動し、二人をコクピットの高さまで持ち上げる。


「入るぞ!」

「狭いです!無理です!」

「無理でも入るんだよ!エコノミークラスで我慢しな!」


 サクヤは少女を強引にコクピットへ押し込んだ。『黒鳶』は単座式シングルシートだ。二人で乗るスペースなどない。サクヤは少女をシートの隙間――コンソールの脇のわずかなスペースに座らせ、その上から覆いかぶさるようにして自分のシートに滑り込んだ。

 密着。少女の柔らかい太腿が、サクヤの膝に当たる。ドレスのレースが、サクヤの汚れたフライトスーツに押し付けられる。狭い機内に、彼女の体温と香りが充満する。普段は殺風景な男の職場が、場違いな華やかさに包まれていた。


「あ……」


 少女は顔を真っ赤にして身を縮めている。サクヤも動揺しなかったと言えば嘘になるが、今はそれどころではない。


「キャノピー閉鎖!エンジン始動!」


 プシュゥゥン!風防が閉じられ、外界の音が遮断される。代わりに、エンジンの咆哮が機体を震わせた。


『警告。外気温低下。マイナス八〇度……九〇度……』


 モニターの数値が異常な速度で下がっていく。キャノピーの外側が、瞬く間に白く凍りついていく。夜が、追いついたのだ。闇の壁が、『黒鳶ブラックカイト』を飲み込もうと触手を伸ばしてくる。


「逃がすかよッ!」


 サクヤはスロットルレバーを限界まで押し込んだ。フットペダルを踏み込み、スラスター全開。


ズドォォォォン!!


背中を蹴り飛ばされたようなG重量加速度がかかる。『黒鳶ブラックカイト』は赤い噴射炎を撒き散らしながら、凍てつく岩礁を蹴って空へ飛び出した。

 バリバリバリッ!機体の表面に付着した氷が剥がれ落ちる音。


「ひゃぁぁぁっ!」


 少女が悲鳴を上げ、サクヤの腕にしがみついてくる。その温もりを無視して、サクヤは操縦桿を引き続けた。上昇。ただひたすらに、光のある方角へ。

 数秒後。機体は雲海を突き抜け、茜色の空へと躍り出た。太陽はまだ、西の水平線ギリギリにへばりついている。間に合った。


「……ふぅ。首の皮一枚ってとこだな」


 サクヤは大きく息を吐き、額の汗を拭った。バックミラーを見る。眼下の雲海は、すでに漆黒の闇に覆われていた。あと数秒遅れていれば、自分たちもあの闇の一部になっていただろう。


「……助かり、ましたか?」


 足元から、震える声が聞こえた。サクヤは視線を落とす。少女はコンソールの脇で小さくなりながら、涙目で彼を見上げていた。その瞳には、恐怖と、そしてそれ以上の好奇心が宿っていた。


「ああ。今日はあんたの命日じゃなかったみたいだな」


 サクヤは少しだけ口元を緩めた。そして、改めて彼女に問うた。


「さて、お姫様。名前は?」


 少女は一度深呼吸をし、乱れたドレスの襟を正すと、王族らしい毅然とした態度で答えた。


「……アリア。アリア・オリエンスです」

「オリエンス?」


 その名は、かつて東の空を支配した公国の名と同じだった。


「へぇ、いい名前だ」


 サクヤはスロットルを調整し、機体を安定飛行クルーズモードに入れた。東の空には、薄汚れた中立都市艦『錆びた止まり木ルースト』の灯りが見え始めていた。


「とりあえず、あそこの街まで送ってやる。運賃は高くつくぜ?」

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