第3話 おしゃべりのできるかわゆい猫ちゃんじゃん
コレーの大声に驚いた青年が、バランスを崩して崖から落下した。即死するほどの高さではない。芝生のクッションもある。とはいえ、どちらも気休めだ。地面に激突すれば、大怪我は免れないだろう。
ペルとしては、知らない誰かがどうなろうと一向に構わない。けれど、コレーが久しぶりに外に出て初めて見た人間が、あり得ない方向に折れ曲がった青年――なんていう展開は、ちょっと嫌だったりする。
「あーもー」
なので、渋々ながらも準備運動をはじめることにする。大きく背伸びをして走り出そうとしたまさに、そのとき。
コレーが。動いた。
右足の先を、わずかに地面に踏み込ませる。そんな些細な予備動作を、ペルが視界の隅で捉えた瞬間には、もう小さな体はまっすぐ前へと走り出していた。
空気抵抗など意に介さず、人という形が最も速く走れるだろうフォルムを本能的に選び、走る。走る。何のためか。もちろん、落ちた青年を救うためだ。本気で。
けれど、そこには切迫感も焦燥感も使命感もない。あるのはただ、反射みたいなもの。痛みを感じたら悲鳴をあげるし、熱いものに触れたらすぐに離れる。その程度のこと。
そんな、その程度のことを、コレーというエルフの子どもは全力で遵守する。
「難儀だなあ」
ペルがぼやいている間に、コレーは崖に辿り着いた。そのまま流れるように壁を走る。登るのではない。跳ぶでもない。ただ、走る。わずかに傾斜があるとはいえ、土や石の混ざった滑りやすい岩肌を、芝生の延長のような気安さで駆け上がる。
進行方向は、斜め上。落下中の青年の軌道と交わる点の、その少し上を目指している。
「なるほど?」
どうやら、落ちてくる青年を真下で受け止めるという選択肢は除外したらしい。コレーの意図を察して、ペルは軽く前脚を舐めた。「ぎゃーーー」という青年の悲鳴の尾がもうすぐ切れることを予感しながら、ぺろぺろと。
そして訪れる、予想どおりの静寂。顔を上げたペルの瞳に、落ちてくる青年の頭上を横切りながら、彼の襟首を片手で掴んで走り抜けるコレーの姿が映った。落下の反動を利用して青年を引き寄せ、軽く横抱きにするように体全体で支えると、今度は斜め下に向かって滑り落ちていく。
ここまでは順調、あとは着地だけだ。足裏だけで受け止めれば、骨が砕ける。その場合、衝撃は減速されることなく、抱えている青年にもダイレクトに伝わるだろう。つまり、コレーはその方法を選ばない。そして、それさえ選ばなければ何も問題はない。
「やれやれだね」
ついに芝生へと降りる、コレーの足。それを軸に、彼は一度だけ縦に回転した。草や花を巻き散らしながら、落下の衝撃を全身で受け流す。そうして勢いを消し去ってから立ち上がると、抱えていた青年を同じように立たせ、その両肩をぽんぽんと叩いた。
「はい、到着。怪我はないだろうか? できるだけあなたに衝撃がないようにしたつもりなのだが、もし痛いところがあったら遠慮なく言ってほしい」
「……え? え、あれ、どういう状況? おれ、崖から落ちて、マジで落ちちゃって、それで途中で首を支えてもらったと思ったら、急に視界がくるってなって今に至りました……?」
人間の青年は、おそらく放心したようにコレーを見つめている。なぜ推測なのかといえば、彼の前髪が長すぎて視線の先を正確に追えないからだ。それでも、完全に「心ここにあらず」といった様子だと窺える。まあ、無理もない。
「うむ、危ないところだった。あのまま落ちていたら、運良く生存したとしても下肢を骨折し、胸郭や内臓を損傷して、重度の後遺症を残す可能性があった。しばらくは動けずに苦しむことになっていただろう」
「ひぇっ、やだ、こわ! ちょっとだけ投身自殺も考えていた人間にそんなこと言わないで! 決心が鈍っちゃう!」
「トーシン?」
「あ、いや、なんでもないですっ。わっは、マジで死んじゃうかと思ったー! 本当にありがとう! こんなにちっちゃくて細いのに、よく俺なんて助けられたね! っていうか、そもそもよく助けようなんて思えたね! すっごいね!?」
「……む。ぼくはそんなに小さくはないぞ。あなたの背が高いから相対的に低く見えているだけだ。それに、あなたのほうこそすごいと思う」
「えっ」
「とても怖い思いをしたばかりだというのに、即座に相手に礼を伝えられる胆力と優しさを、ぼくは尊敬する」
ぴたりと、青年が停止した。やはり前髪に隠されて半分しか表情は判別できない。それでも身体の動きどころか呼吸まで止まっているところを見ると、コレーの言葉ひとつで心の奥深くをひどく掻き乱されたことは明らかだった。そして、そんな青年の変化など気にも留めず、マイペースなエルフの子どもは己の胸に片手を添えて微笑む。
「はじめまして、ぼくはコレー。ただの通りすがりのエルフだ」
「……あ、はい、えっと。ご丁寧にどうも。俺はイフシオ。イフシオ・サヤットです。——ん? エルフって、あのエルフ? 太古の種族と謂われている、人間とは今はちょっと距離が空いちゃっているからほとんど伝説級の? めちゃくちゃ綺麗でめちゃくちゃ賢いっていう? あれ? でもエルフって身体能力までそんなにすごいの? 落ちてきた人間を助けても無傷でいられるような種族だっけ? 俺の知ってるエルフと全然違うような?」
「どうやらぼくは生まれつき、少し変わっているようだ」
「そ、そうなんだ。……なんか、あんまり深くは聞かないほうがいいっぽいね」
コレーの答えで何かを悟ったらしい青年は、自分の中でそう結論づけてから「しっかしよく無事だったなあ、本当に」と、崖を見上げて身震いする。
「あなたは高い場所から景色を眺めたかったのだろうか。その気持ちは、ぼくにもとてもよくわかるぞ」
「はあ、まあ、うん、そういう健全な解釈のほうが俺としても都合がいいから、そっちでいいかな。そう、そうなんです、景色が綺麗だったんです」
「ああ、本当に。では、どうする? もう一度、崖に登るか? せっかくだからぼくも付き合おう」
「いや、さすがに心中に付き合ってもらうのは、ちょっと……」
「シンジュー?」
「あ、なんでもないです! 本当にもう大丈夫!」
「あのさ。なんか話がループしちゃってるから、さすがにそろそろ前向きな話をしようよ」
これ以上は埒が明かないので、ペルは二人の足元にやってきて口を開いた。途端、青年がその場で軽く飛び上がる。
「うわ、
わしっとコレーの腕をつかんで自分の背後に庇おうとする青年の姿を見て、ペルは少しだけ楽しくなってしまった。獣屍という危険な存在から、ひとりだけ逃げようとする薄情な人間なら、コレーが助ける意味などなかった。けれど、そうではなかった。コレーは正しかった。コレーは報われた。その事実が妙にくすぐったくて、どうにかしたくなって、だから仕方なく、青年——イフシオをいじることにした。
「あんなのと一緒にするなんて失礼。ちょっと傷ついちゃった」
「えっ、ごめんね!? ということは、獣屍じゃないの? でも、じゃあ、なんなの?」
「どこからどう見ても、おしゃべりのできるかわゆい猫ちゃんじゃん」
「え、猫ちゃん? 猫ちゃんかなあ? まあ、真っ黒だし、ふわふわだし、サイズも猫ちゃんっぽくはあるけど、でも耳とか尻尾とかそんなびよんびよんしなくない? タールとかグミに近くない? それでも猫ちゃんって言い張るの?」
「猫ちゃんだよ」
「そうだ。ペルはちゃんと、おしゃべりのできるかわゆい猫ちゃんだぞ」
えっへんと得意気に胸を張るコレーを見てしまったら、イフシオもそれ以上は突っ込めないらしい。ペルとコレーをしばらく見比べてから、「まあ、コレーくんがそう言うならいいか」と、大きく息を吐き出した。
「……なるほどなあ。自分を猫だって思い込んでる変わった精霊種と、それを信じ込んでいるエルフの二人連れか。これは訳ありですねえ」
精霊種。なるほど、今度はそうきたか。正直に言えば、ペルは別に誰に何と思われようと構わない。けれど「猫ちゃんじゃん」と明言した以上は、精いっぱい猫ちゃんらしくしよう。まずは前脚で顔を洗うぞ。すりすりすり、っと。
「えっと、聞いてもいい? エルフのコレーくんと猫ちゃんのペルくんは、どうしてここに?」
「ああ、それなのだが。——イフシオ」
「はい」
コレーの改まった気配を感じて、イフシオの背が自然と伸びる。さらに身長が高くなったところを見ると、青年はやや猫背のようだ。
「はじめましてで恐縮だが、ぼくはあなたとカフェに行きたい」
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