第2話 承諾



承諾するしかなかった。


翌日、青山課長から面談室に呼ばれた。窓のない、狭い部屋。壁には会社の行動規範が額縁に入れられて飾られている。


課長は腕組みをしながら私に言った。


「会長が、みゆき、お前を社会科の教員として出向するようにとのことだ」


社会科。まあ、大学では法学部だったから、まったく畑違いというわけではない。しかし、次に課長が発した言葉は、私の思考を凍りつかせた。


「それとだ」


一瞬、低い天井を見上げ、課長は続けた。


「女として教壇に立ってほしい、とのことだ」


女として。


その言葉が、鈍い音を立てて胸に落ちた。


「そして、このことは社会的にも問題になるから……」


課長の声が遠くなる。耳鳴りがした。


「会長と俺とみゆきの三人だけのトップシークレットだ。口外は絶対に許さない。その為に会長が社宅という名目で家とか必要と思われるものは全て用意してある」


私は何も言えなかった。


拒否すればいい。そう思った。でも、喉から声が出なかった。


会長の肝煎り。長谷川会長は、この会社の創業家の人間だ。彼の意向に逆らえば、私のキャリアは終わる。それだけではない。この会社に居場所がなくなる。


でも、それ以上に。


「女として教壇に立つ」


その言葉が、私の中の何かを揺さぶっていた。


恐怖なのか。期待なのか。安堵なのか。自分でもわからない感情が、濁流のように押し寄せてくる。


「どうだ?」


課長の声が、私を現実に引き戻した。


「……わかりました」


声が震えていた。


「そうか。良かった。会長も喜ぶだろう」


課長はほっとしたように息を吐いた。まるで、厄介な仕事を片付けたような表情だった。


「来週から出向だ。今週中に引き継ぎを済ませてくれ。社宅の鍵と住所はこれだ」


渡された封筒には、見慣れない住所が書かれていた。蔵川女子学園の近く。このマンションで一人暮らしをする。いや、「女」として一人暮らしをする。


「それと、みゆき」


課長が真剣な顔で私を見た。


「誰にも言うな。本当に、誰にも」


私は頷いた。


面談室を出ると、オフィスの喧騒が耳に飛び込んできた。同僚たちが笑い、電話をし、キーボードを叩いている。


でも、私にはその音がひどく遠く聞こえた。


自分の席に戻り、引き出しを開ける。そこには、入社式の時の写真が入っていた。スーツを着た、ぎこちない笑顔の私。


あの頃、私は何を思っていたのだろう。


この会社で、「男」として働いていけると信じていたのか。


スマートフォンを取り出し、SNSを開く。タイムラインには、今日も誰かの日常が流れている。


誰も、私の秘密を知らない。


誰も、私がこれから「女」として生きることを知らない。


そして、私自身も、それが何を意味するのか、まだわかっていなかった。


ただ一つわかっているのは。


もう、後戻りはできないということだった。


封筒の中の鍵が、ポケットの中で冷たく光っている気がした。​​​​​​​​​​​​​​​​

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