第1話 余命二年と宣告された朝、私は運命の学園に入学した
入学式の朝
目を覚ました瞬間、天井が知らない顔をしていた。
白すぎもしない、古すぎもしない。けれど確かに、これまで見上げてきた屋敷の天井とは違う。彫刻も、過剰な装飾もなく、ただ整えられた木目が、静かに視界いっぱいへ広がっている。
――ああ、そうだ。
ここは学園寮だ。
今日から、私はこの場所で生活する。
胸の奥で、その事実を一度だけ確かめてから、アイリスは小さく息を吸い込んだ。ベッドの上で上半身を起こすと、カーテン越しの朝日がやわらかく差し込み、部屋の空気を淡く染めている。遠くから、鐘の音が聞こえた。低く、ゆっくりとした響き。時間を告げるというより、この学園が積み重ねてきた年月を刻むような音だった。
枕元の鏡を手に取って、思わず顔をしかめる。
「……やっぱり」
寝癖が、ひどい。
長い髪は癖がつきやすく、とりわけ朝は素直という言葉を知らない。夜のうちにまとめていたはずなのに、今はあちこちが自由気ままに跳ねている。一本や二本ではない。額に落ちる房はくるりと反り返り、首元の毛先は妙に自己主張をしていた。
指で梳いてみるが、すぐに元へ戻る。
「……あなた、今日が入学式だって分かってる?」
くすんだ栗色の髪に問いかけても、返事が返ってくるはずはない。分かっていても、文句のひとつくらいは言いたくなる。
鏡の中の自分は、特別整った顔立ちというわけではない。けれど、眠気の残る若葉色の瞳は柔らかく、表情ひとつで印象が変わる顔だと、アイリス自身は思っている。
弱そうだ、と言われることがある。
守ってあげたい、と。
それを不快に思ったことはない。
けれど――それだけで終わるつもりは、なかった。
「まあ、後で直せばいいか」
鏡を戻し、アイリスはベッドを降りた。制服に袖を通すと、まだ新しい布地が肩にわずかに引っかかる。窓辺に近づいてカーテンを開くと、視界いっぱいに学園の敷地が広がった。
朝露に濡れた芝生。整然と並ぶ校舎。規則正しく植えられた木々。その奥には、ひときわ古い建物――おそらく魔法研究棟が、静かに佇んでいる。
思わず、口元が緩んだ。
「……大きいなあ」
侯爵家の屋敷も決して狭くはなかった。けれど、ここはそれとは違う。視線の先に、まだ知らない場所がいくつもある。世界が、ほんの少し広がった気がした。
「……夢」
昨夜見た夢の断片が、喉元までせり上がる。
白い世界。
軽い声。
そして――十八歳で死ぬ、という言葉。
「……やめやめ」
アイリスは小さく首を振った。夢は夢だ。意味を考え始めれば、きりがない。今は、今日を始める方が先だった。
身支度を整え終えた頃、控えめなノック音が響く。
女子寮では、本来男子生徒の立ち入りは厳しく制限されている。入寮初日に、寮母が淡々と読み上げた規則が脳裏をよぎる。
――例外は、原則認めない。
けれど。
「お嬢様。起きていらっしゃいますか」
その声に、理由を考えるまでもなかった。
ルイ・キャッツは、ただの生徒ではない。
アイリスの従者として、正式に登録されている。
決められた時間帯に限り、女子寮への出入りが許可されていた。特例中の特例だ。侯爵家の事情と、ルイ自身の素行の良さがあってこその措置だと、寮母は淡々と説明した。
最後に、ふと思い出したように付け足す。
「あなたの従者、ずいぶんと“猫をかぶるのが上手い”のね」
褒め言葉なのか、皮肉なのかは分からなかった。
「起きてるわよ、ルイ。どうぞ」
扉が開き、黒髪の少年が姿を現す。さらさらと整えられたマッシュの髪、寸分の乱れもない制服。黄色い瞳が一瞬だけ部屋の中を見渡し、それから、ほんのわずかに緩んだ。
「よかった。遅刻されるかと」
「初日からそれは、さすがにしないわよ」
アイリスが笑うと、ルイは小さく肩をすくめる。
「信用していません」
「ひどい」
軽口を交わしながら、ルイは無言で荷物の位置を整え、アイリスの胸元に視線を落とした。すぐにリボンの結び目に気づき、指を伸ばす。
「……ここ、少し歪んでいます」
「今言う?」
「今だから言うんです」
きゅ、と結び直される。慣れた手つきだった。屋敷にいた頃から、彼はこういう細部にうるさい。
「……お嬢様」
「なに?」
ルイは眉を寄せたまま、鏡越しに彼女の髪へ視線を向けた。
「寝癖です」
「分かってる」
「分かっているのに、直さないんですか」
「直してる途中なの。ほら、見て。戦ってるでしょ?」
摘まんで見せると、ルイは小さく息を吐いた。呆れたようでいて、その奥に、いつもの安心が滲む。
「……ハーフアップにしましょう。今日は初日ですから」
「うん、お願い」
ルイはひとつ咳払いをして、ゆっくりと髪をまとめ始めた。指先が髪を梳くたび、癖のある毛が名残惜しそうに跳ねる。けれど彼は気に留めず、丁寧に整えていく。結局、癖は完全には消えない。ふわりとした柔らかさだけが、わずかに残った。
「……完璧」
ルイが言う。
「嘘」
「完璧です。お嬢様にしては」
「ひどい」
それでも、アイリスは笑った。
この距離感は、ずっとこうだった気がする。
廊下の角を曲がると、寮の玄関ホールが見えた。石造りの床は磨かれて光り、壁には歴代の卒業生――名を残した魔法研究者や貴族、騎士たちの肖像が並んでいる。どの目もやたらと真面目で、こちらの寝癖事情など一切許してくれなさそうだった。
寮の扉の前には、寮母が立っていた。白髪をきちりとまとめた女性で、目だけが妙に若い。
「アイリス・ヴァレリア侯爵令嬢」
「おはようございます、寮母様」
「おはよう。……従者は、時間内ね」
寮母はルイを見て言った。ルイは即座に、深く頭を下げる。
「はい。これからは規則を遵守いたします」
「その調子。女子寮は“女子”の寮よ。忘れないで」
「重々、承知しております」
寮母は満足そうに頷き、視線をアイリスへ戻した。
「初日は浮き立つものです。けれど――この学園は、浮き立った者から順に転びます」
脅しではなく、忠告だった。
アイリスは、ほんの一瞬だけ考えてから、にこりと笑う。
「転んだら……起きますので」
寮母の眉が、わずかに動いた。
「……そう。起き上がれるなら、結構」
外へ出ると、朝の空気がひんやりと頬に触れた。
学園の正門へ向かう道には、すでに生徒たちの列ができている。色とりどりの髪、装飾品、家紋。家柄も価値観も違う子どもたちが、一斉に同じ場所を目指して歩いていた。
その中で、アイリスの装いは派手ではない。
不自由なく暮らしてきたけれど、宝石を“当たり前”に身につける家ではない。今日のアクセサリーだって、家族が「入学式だから」と選んでくれたものだ。控えめで、実用的で、少しだけ――愛情が前に出ている。
「……みんな、すごいね」
思わず漏れる。
周囲の宝飾は、光を主張する。笑い声すら、反射した光みたいにきらきらして見えた。さすがは、名家や資産家が集まる魔法学校だ。
「見てはいけません」
「なんで?」
「目がくらみます」
「ルイ、それは誇張よ」
「誇張ではありません。お嬢様は、変なところで素直ですから」
華やかな香水の匂い。ひそひそとした声。硬い靴音。
貴族の子女が集まる場所特有の、少し張りつめた空気が漂っている。
視線が、集まる。
アイリス・ヴァレリア侯爵令嬢。
その視線を、彼女はもう慣れたものとして受け止めていた。
ただし――慣れても、心地いいわけではない。
人の視線はいつだって少し重い。けれど、その重さに背中を丸めると、余計に圧し掛かってくる気がした。
「……緊張、していませんか」
ルイが、小声で尋ねる。
「してるわよ」
「そうは見えません」
「それはね」
アイリスは、前を向いたまま答えた。
「緊張してる自分も、まあいいかって思ってるから」
ルイは一瞬、言葉に詰まり、それから小さく息を吐いた。
「……本当に、お嬢様は変わりませんね」
「それって、褒めてる?」
正門をくぐると、校舎へ続く石畳の道が伸びていた。両脇には整えられた木々が並び、風が若葉を揺らしている。道の先には大ホール――入学式の会場が見えた。
そのとき、人混みが急にざわめいた。
誰かが前につんのめき、荷物が落ちかける。
反射的に、アイリスが手を伸ばした、その瞬間。
「おい。前、見て歩け」
低く、よく通る声だった。
金色の髪に、赤い瞳。
王家の象徴色をそのまま形にしたような青年が、落ちかけた荷物を片手で支えていた。動きに無駄がない。誰かを助ける仕草ですら、命令のように明確だった。
「大丈夫か、お前」
一瞬、その言葉遣いに違和感を覚え――すぐに理解する。
――王族だ。
王位継承権第二位という肩書きは、この学園では必要以上に目立つ。
周囲の空気が、はっきりと変わった。見えない距離が引かれ、ざわめきが一段、低くなる。
助けられた生徒は青ざめたまま、言葉を失っていた。
アイリスは、まっすぐに頭を下げた。
過剰でもなく、卑屈でもない。身についている礼だった。
「はい。ありがとうございます」
青年は、ほんのわずかに目を見開く。
「……そうか」
それだけ言って、荷物を持ち主に返す。
視線が一瞬だけアイリスに戻り、すぐに逸れた。
その横で、ルイが半歩前に出る。
考えるより先に、身体が動いた――従者としての反射だった。
「助けていただき、ありがとうございました」
青年はちらりとルイを見て、鼻で小さく笑う。
「従者か」
「はい」
「……しっかりしているな」
それは褒め言葉だったのか、それともただの事実確認だったのか。彼はそれ以上何も言わず、人波の向こうへ消えていった。
再び会場へ向かって歩き出した頃、アイリスはぽつりと呟いた。
「……すごい人だったわね」
「すごい、というのは」
ルイが、言葉を選ぶように聞き返す。
「うん。いろいろ」
アイリスは、少しだけ楽しそうに続けた。
「まず、すごい装飾品だったでしょう。あの指輪と、胸元の飾り。宝石、何個使ってるのか分からないくらい」
ルイは一瞬、言葉に詰まった。
「……そこですか」
「だって」
アイリスは肩をすくめる。
「あれ、ひとつでいくらするんだろうって考えちゃった。怖いね。落としたら一生働いても返せなさそう」
どこまでも現実的で、どこかずれた感想だった。
けれど、そこに羨望はない。卑屈さも、遠慮もない。ただ、素直な疑問だった。
「……お嬢様」
ルイは小さく息を吐いた。呆れたようでもあり――どこか、安心したようにも見える。
「気をつけてください。ああいう方々は、身につけているものより――」
「中身、でしょ?」
アイリスは即座に言った。
「分かってるわ。だから、すごい人だった、って言ったの」
ルイの眉間の皺が、わずかに緩む。
一度だけ、深く息を吸って吐いた。
「……本当に、お嬢様は変わりませんね」
「さっきも言った」
「何度でも言います」
「それは褒めてる?」
「褒めています。今度こそ」
会場に入る直前、ふと視線を感じて、アイリスは振り返った。
少し離れた壁際に、だぼだぼの制服を着た青年が立っていた。
藤色がかった髪、光を反射しにくい淡い瞳。耳元で、小さなアクセサリーが揺れている。
群れない。
誰とも同じ速度で呼吸していない。
こちらを見ているようで、見ていない。
――不思議な人。
そう思った、その瞬間。
青年はすっと視線を外した。まるで、最初から目が合っていなかったかのように。
「ロイド・ウィステリア公爵家嫡男」
どこかで囁く声が、耳に入る。
「公爵……」
思わず呟くと、隣のルイがわずかに眉を寄せた。
「……あちらも、距離を保ってください」
「今日は“気をつけてください”が多いね」
「今日は初日ですから」
「初日は転ぶって、寮母様も言ってた」
「言っていましたね」
「転んだら起きるけど」
一拍。
「それが一番、厄介なんです」
「え?」
「いえ。何でもありません」
それ以上、言葉は続かなかった。
やがて、入学式が始まる。
大ホールは高い天井を持ち、壁には歴代の校章が整然と並んでいた。
差し込む光はステンドグラスを通して色づき、床に静かな模様を描いている。
歩くたび、靴音が澄んで返る。
ここでは、小さな咳払いすら、礼儀の一部だった。
席に着くと、周囲からさざ波のようなざわめきが広がる。
家名を囁く声。宝石の触れ合う音。抑えた笑い声。
緊張と期待と、ほんの少しの恐れ。
すべてが溶け合い、式典前の空気を作っていた。
壇上に校長が姿を現す。
白髪の老人で、顔の皺は深い。
深いのに――目だけが、やけにいたずらっぽかった。
「新入生諸君」
声は、意外なほどよく通った。
「本学園へようこそ。まず言っておく。ここは――楽しい」
ざわめきが、少しだけ和らぐ。
「しかし同時に、ここは――面倒だ」
笑いが広がる。
校長は満足そうに頷いた。
「面倒というのは、つまり。君たちには“選ぶ”ことが増えるということだ。友を選べ。学びを選べ。信じるものを選べ」
そこで、一拍。
「そして――自分を選べ」
その言葉が、不思議と胸に残った。
アイリスは、背筋を伸ばす。
理由は分からない。ただ、聞き流してしまうには、少しだけ重かった。
校長は話を続ける。
規則について。寮の門限について。魔法の授業の危険性について。
「死なない程度に」
という言葉が何度も出てきて、そのたび周囲の貴族令嬢たちの顔色が変わる。
アイリスは横目でそれを見て、思わず口元に力を入れた。
笑ってはいけない。
けれど、可笑しい。
そう感じてしまう自分を、特別に否定する気にもなれなかった。
やがて、式は終わる。
人波が、ゆっくりと動き出す。
出口へ向かう途中、金色の髪が目に入った。
王族。周囲が自然と道を空ける。赤い瞳がこちらを掠め――掠めただけで、すぐに前へ戻る。
壁際には、藤色の髪の青年。
人混みにいながら、彼だけがどこにも属していないように見えた。立っているのに、浮いている。
その少し前に、黒髪の従者。
彼は誰よりも、この場に馴染もうとしている。姿勢も、表情も、過不足なく整えて。
アイリスは、胸の内で小さく息を吐いた。
ここから始まる。
何が待っているのかは、分からない。
けれど。
転んでもいい。
立ち止まってもいい。
起き上がることだけは、忘れなければいい。
そう思いながら、彼女は人の流れに身を任せた。
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