プロローグ

大理石の床は、心臓まで凍りつかせるほどに冷たかった。


西暦五十年のローマ。ユピテル神殿の奥深く。 立ち込める乳香の煙が、私の鼻腔を執拗に突き刺す。かつては聖なる香りだと思っていたそれは、今や喉を焼き、肺を汚す毒のようにしか感じられない。


「……ルキウス。聞こえているのか。この『役立たず』が」


頭上から降ってきたのは、氷よりも冷酷な声だった。 私が仕えてきた上級神官、カッシウスだ。彼の履いている高級な革サンダルが、私の指先をわざと踏みつける。鈍い痛み。けれど、それ以上に痛むのは、彼の背後に立つ女の視線だった。


ユリア。私の婚約者だった、誇り高き貴族の娘。


「カッシウス様、もうよしてあげて。その男には、高貴な言葉を理解する力なんて最初からなかったのですから」


ユリアの鈴を転がすような声が、今は汚泥のように私の耳に流れ込む。彼女の纏う香水の甘い匂いが、裏切りの証として空気に漂っていた。


「さあ、見ろ。これが貴様が汚した『神託の羊皮紙』だ」


カッシウスが私の目の前に、一枚の羊皮紙を叩きつけた。 私は、それを見た瞬間に眩暈がした。


黒いインクで書き連ねられた文字。 一行目、二行目まではいい。だが、三行目を超えた瞬間、文字たちは意志を持った黒い虫のようにのたうち回り、絡まり合い、巨大な闇の塊となって私の視界を塞ぐ。 模様だ。ただの、不吉な模様にしか見えない。


「……読めない……文字が、うねって……」


私の掠れた声に、周囲の神官たちから冷笑が漏れた。


「文字がうねるだと? 奇怪な言い訳を。貴様はただ、神聖な供物の記録を怠り、内容を勝手に書き換えた。それは神への冒涜だ、ルキウス!」


カッシウスの声が、巨大なドーム状の天井に反響し、私を打ち据える。


「違う! 書き換えたんじゃない。俺には、そう聞こえたんだ。その文字の奥から、もっと……もっと静かで、力強い声が!」


「黙れ! 狂人の妄言を誰が信じる!」


カッシウスが私の胸元を掴み、乱暴に引きずり起こした。彼の顔が間近に迫る。脂ぎった肌の熱気と、権力に酔いしれた男の腐った息。


「貴様は今日限りで神殿を追放だ。婚約も解消。路地裏で野垂れ死ぬがいい。文字も読めぬゴミ溜めのネズミに相応しい末路だ」


放り出された先は、神殿の外階段だった。 硬い石段を転がり落ち、地面に叩きつけられる。 背後で、神殿の巨大な青銅の扉が重厚な音を立てて閉まった。ガラン、という冷たい音が、私の人生の終焉を告げたようだった。


「……あはは」


乾いた笑いが漏れた。 頬を伝う涙が、地面の埃と混じって泥になる。 口角を上げる練習をしてきたはずなのに。不幸から脱却しようと、毎日鏡を見て笑っていたはずなのに。 結局、私は「模様」に負けたのだ。


「……死ぬのかな。このまま、誰にも知られずに」


空を見上げた。 ローマの夕焼けは、血のように赤い。 その時だった。


「――何を泣いているの? 綺麗な色の目をして」


不意に、少女の声がした。 私は顔を上げた。そこにいたのは、ぼろを纏いながらも、その瞳だけは宝石のように澄んだ少女――アエリアだった。


彼女の手には、小さな木の板があった。そこには、私が神殿で見たのと同じような文字が刻まれている。 私は反射的に目を逸らした。また文字がうねり、私を壊そうとする。


「見たくない! それは、黒い虫だ。私を殺す模様だ!」


「違うわ。見て、よく見て」


アエリアは私に詰め寄り、その木の板に、道端に咲いていた薄紫の野花をこすりつけた。 白い木肌の上に、紫の汁が広がる。


「……え?」


不思議なことが起きた。 三行までは、木の白い地。 次の三行は、アエリアが塗った薄紫。 そして最後の一行は、また白。


色がついた。 その瞬間、私の脳内で、激しい火花が散った。 のたうち回っていた黒い虫たちが、一斉に静まり、整列し、意味を持った「音」として私の鼓動に語りかけてきたのだ。


『恐れるな。私はそこにいる』


それは、ユピテルの雷のような傲慢な声ではない。 もっと深く、もっと静かな、全宇宙を包み込むような――唯一なる者の響き。


「……読める」


私は呆然と呟いた。 耳の奥で、カッシウスの嘲笑が消えていく。 五感が、研ぎ澄まされていく。 夕風が運んできたパンの焼ける匂い。遠くで鳴る牛の嘶き。それらすべてが、神の言葉の断片として私の脳に流れ込んでくる。


「アエリア。君が、これを?」


「私はただ、色を塗っただけ。あなたの頭が、魔法をかけたのよ」


アエリアはニカッと笑った。 その笑顔を見た瞬間、私の口角が自然と上がった。 あんなに練習しても不自然だった笑顔が、今は、心からの喜びとして頬を震わせる。


私は、立ち上がった。 膝の擦り傷が痛む。けれど、その痛みさえも、生きている証として愛おしい。


「カッシウス……ユリア。感謝するよ」


閉ざされた神殿の扉に向かって、私は静かに告げた。 私の脳は、壊れているのではない。 あなたたちの知らない、もっと緻密で、もっと広大な世界を読み解くために、特別に作られた楽器なのだ。


「三行までは白。三行は薄紫。……神様、私の脳をこんなに面白く作ってくれて、ありがとうございます」


私はアエリアの手を取った。 路地裏の湿った匂いさえ、今は新しい物語の始まりの香りに思える。


「行こう、アエリア。俺はもう、神殿の操り人形じゃない。俺は、俺の声で、この帝国の真実を暴いてやる」


ローマの街を包む夜の帳。 そこにはもう、模様に怯えるルキウスはいなかった。 白と薄紫の魔法を纏い、運命を書き換える「代弁者」が、静かに最初の一歩を踏み出した。


今さら戻ってこいと言われても、もう遅い。 私はもう、私自身の光を、見つけてしまったのだから。


(つづく)




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る