第3話
席に戻ると、向かい側に人が座っていた。
さっきまでは、いなかったはずだ。
だが、確認する理由もない。
女性だった。
年齢はよく分からない。若くも見えるし、そうでもない気もする。
トレイの置き方が、丁寧すぎる。
音を立てないように、何度か角度を調整してから、そっと置いた。
目が合った。
会釈されたので、会釈を返す。
その拍子に、箸が一本、転がった。
「……すみません」
彼女が言った。
なぜ謝られたのかは分からない。
「いえ」
拾う。
先端が少し欠けている。
彼女のトレイには、甘い匂いがした。
揚げ物ではない。
飲み物でもない。
デザートだと思う。
確証はない。
「混んでますね」
彼女が言う。
混んではいない。
だが、否定するほどでもない。
「そうですね」
そう答えた。
正しいかどうかは、後で分かる。
彼女は、一口食べてから、しばらく止まった。
考えているようにも見えるし、
味を待っているようにも見える。
「……違いました」
何が、と聞く前に、彼女はスプーンを置いた。
「想像と」
それ以上は言わない。
こちらは、まだ一口も食べていない。
湯気は、さっきより弱くなっている。
(今、食べるべきか)
判断が遅れる。
彼女は、カップを持ち上げ、
中身を少しだけ残して、また置いた。
「残すの、苦手なんです」
そう言われたので、
「分かります」
と言った。
本当は、分からない。
彼女は、少しだけ安心した顔をした。
理由は、たぶん違う。
沈黙。
沈黙は、長さを測りにくい。
彼女が立ち上がる。
「あ、これ」
指差された先を見ると、
自分のトレイの端に、彼女のスプーンが乗っていた。
いつの間にか。
「すみません」
今度は、こちらが言う番だった。
彼女は首を振り、受け取って、
そのまま行ってしまった。
名前も聞いていない。
聞く理由も、思いつかなかった。
残った甘い匂いが、しばらく消えない。
ようやく、一口食べる。
少し、ぬるい。
(次は、早めに食べよう)
スプーンの跡だけが、テーブルに残っていた。
トレーを返却口に運ぶ途中で、足が止まった。
列が二つに分かれている。
どちらも同じ表示だ。
左は、床が少し濡れている。
右は、誰も並んでいない。
(空いている方が早いとは限らない)
そう思った時点で、もう遅い。
右に並ぶ。
前の人が、立ち止まったまま動かない。
係員と、何か話している。
内容は聞こえない。
声は低く、要点だけが抜け落ちている。
後ろに、人が並び始めた。
左の列は、もう半分ほど進んでいる。
(あっちだったな)
判断は、正しい。
いつも一手遅れて。
ようやく順番が来る。
「こちらでお願いします」
係員は、淡々としている。
トレーを渡す。
皿が一枚、滑った。
受け止められたが、
水が少し、跳ねた。
「すみません」
言われたので、
「いえ」
と答えた。
どちらが言うべきだったのかは、分からない。
戻る途中、さっきの女性を見かけた。
遠い席だ。
目は合わない。
彼女は、携帯を見ている。
画面は暗い。
テーブルには、何もない。
もう食べ終えたのか、
最初から頼んでいないのか。
分からないまま、通り過ぎる。
出口の自動ドアが開く。
外の光は、少し傾いている。
昼でも、夕方でもない。
空調の風が、背中を押した。
《これは、誰も生き残る必要のない話である。》
(列は、早く動く方を選べばよかった)
床の濡れた跡だけが、まだ残っていた。
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