第09話 Ending1.銀の門――世界に一つだけの、君の名前
霧の向こうに、それはそびえ立っていた。
天を突くほど巨大な、彫刻に覆われた銀色の門。
無数の夢想家たちの溜息で磨かれたかのように、
鈍く、重たい光を放っている。
門の向こうから漂ってくるのは、
懐かしいアスファルトの匂いと、微かな街の喧騒。
――現実のざわめきだった。
「……着いた」ユリナが、震える声で言った。
「あれが、現実への出口……」
歓喜と呆然が入り混じった表情で、
カオリとマサトも門を見上げている。
けれど、俺の隣に立つ彼女だけは、
一歩も前に進めずにいた。
ガイドちゃんの身体は、先ほどよりもさらに透けている。
門から溢れ出す「現実の光」が、
ドリームランドの不確定な存在である彼女を、
削り取ろうとしているかのようだった。
「ほら、早く!」
カオリが振り返り、駆け寄ろうとする。
だが、マサトがその肩を掴んで制した。
「待て。……今の彼女には、
あの門をくぐるための『質量』がない」
「どういう意味よ?」
「彼女には現実での実体がない。
このまま通れば、向こうに着く前に霧散する」
マサトは淡々と言った。
「彼女を繋ぎ止める『
「名前、だろ」俺の言葉に、マサトは静かに頷いた。
門の脇に、いつの間にか白い猫が座っていた。
瑠璃色の瞳が、冷たくこちらを見据えている。
『時は来た』その声が、直接脳内に響く。
『門が完全に開くのは、砂時計が尽きるまでのわずかな間のみ』
『汝は彼女を連れて行くか。
それとも、ここで手を離し、平穏な日常へ戻るか』
『彼女の名を呼べば、彼女は世界の理から解き放たれ、
「一人の少女」として固定される』
『だが同時に――
忘れていたすべての痛みも、記憶も、彼女に返る』
「……いいの」ガイドちゃんが、俺の腕を掴んだ。
「ここでいい。私は、皆を見送る存在だから」声が震える。
「名無しのままで消えるのが、一番きれいなの。
……名前なんて、いらない」
「ふざけるな」俺は即座に言った。
「昨日、お前は言っただろ。俺の隣で迷うって」
「……怖いのよ!!」彼女は叫ぶ。
「名前を思い出したら、 崖から突き落としたあの人の顔も、
捨ててきた思い出も、全部戻ってくる!」
「そんなの背負って、現実なんて歩けない!」
彼女が俺の手を振り払おうとする。
だが、俺はさらに強く、その指を握った。
「背負うって言っただろ」低く、確かに。
「お前の罪も、過去も、これからの未来も。
一人で無理なら、二人で持てばいい」
「……だから、逃げるな」
彼女の目から、真珠のような涙が溢れ落ちた。
俺は彼女の耳元に顔を寄せる。
ウルタールで、猫の廃屋で、霧の中で――
ずっと胸の奥に響いていた、たった一つの呼び名。
役割でも、記号でもない。
彼女自身が、奥底に隠していた『真実』。
「……呼ぶぞ」彼女が、かすかに息を呑む。
俺は、その名を口にした。
「――(ここで彼女の名前)」
瞬間、銀の門が眩い光を放ち、世界が裏返る。
彼女の身体に一気に重みが宿り、血が巡る。
封じられていた記憶が雪崩のように流れ込み、
彼女は絶叫しながら、俺の胸に倒れ込んだ。
『契約は成った』遠ざかる猫の声。
『選ばれた少女と、それを選んだ愚かな男よ。
向こう側で、その名の重さに耐えてみるがいい』
「行くぞ!」
俺は彼女を抱き上げ、門の中へ飛び込んだ。
風圧。光。叫び声。
意識が薄れる中、俺はただ、腕の中の温もりだけを離さなかった。
――気がつくと、駅前の広場だった。
アスファルトの熱。排気ガスの匂い。
電車の警笛。
退屈で、平凡で、それでも確かに『本物』の現実。
「……帰って、これたんだ」
ユリナが空を見上げる。
そこには、澄んだ青空が広がっていた。
俺の腕の中で、少女が眠っている。
派手な衣装ではない、見覚えのある制服姿。
「……ん……」
ゆっくりと、目を開く。
「……ここは?」
「現実だ。お前が、怖がってた場所」
彼女は自分の掌を見つめ、
そして、泣きそうな顔で――笑った。
「……ねえ、もう一度」
「?」
「私の名前。ガイドちゃんじゃない、ここにいる私を呼んで」
俺は少し照れながら、その名を呼んだ。
彼女は嬉しそうに頷き、俺の服の裾を掴む。
もう、不気味な猫も、消える道もない。
あるのは――
これから二人で歩く、長くて、平凡で、自由な現実だけ。
「行こう。今度は俺が、この世界を案内する」
「……ふふ。お手柔らかにね、お客様」
二人で歩き出す。
彼女の足取りは、現実の地面を、確かに踏みしめていた。
▶Ending2へ向かって:第10話へ続く
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