第04話 猫の街ウルタール ――選ばれるという罪
4.1 猫たちからの目
石畳の坂を下りきった先で、俺たちは足を止めた。
視界に広がっていたのは、
中世ヨーロッパの古い絵画から抜け出してきたような街並み。
――ウルタール。
ドリームランドの中でも、もっとも平穏で、
同時にもっとも厳格な法が支配する街。
「……ねえ」
ユリナが、俺の背中に半分隠れるようにして小声で囁いた。
「ここ、ちょっと……気味悪くない?
猫、多すぎない……?」
言われて改めて気づく。異常なほどの数だった。
屋根の上。窓枠。
路地の石垣。噴水の縁。
数え切れない猫たちが、まるで彫像のように鎮座している。
鳴かない。逃げない。瞬きすらしない。
ただ、黄金色の瞳で――
俺たちを、いや、正確には俺を見つめていた。
「多いですよ」
ガイドちゃんが、前を向いたまま事務的に答える。
「ここは猫を殺すことが禁じられた、聖なる街ですから。
……もっとも、法を破る愚か者がもう残っていない、
という意味でもありますけど」
「殺すのが禁止、ね」
マサトが眼鏡を押し上げ、足元の三毛猫を覗き込む。
「それなら平和でいいじゃないか。
うっかり踏んづけたら……さすがに謝れば――」
その瞬間だった。
マサトが一歩、足を出した途端。周囲の猫たちが一斉に、
カチリと音が鳴ったような正確さで首を傾けた。
空気が凍る。
「……踏めませんよ」
ガイドちゃんの声が、わずかに冷気を帯びる。
「踏んだ瞬間、その人は 『いなかったこと』になりますから」
「……消える、ってこと?」
カオリの顔が引き攣る。
ガイドちゃんは微笑んだ。
「はい。魂の最後の一片まで、猫のおやつです」
それ以上、冗談を言う者はいなかった。
街を進むにつれ、視線の圧力は増していく。
路地の奥、建物の影、屋根の縁。
数千、数万の瞳が、針のように俺の肌を刺す。
理由は分かっていた。
俺が、この世界で――
「あってはならない選択」を始めてしまったからだ。
ガイドちゃんは、俺のすぐ隣を歩いている。
触れそうなほど近いのに、
彼女の気配だけが霧のように薄い。
そして、さっきから一度も、俺と目を合わせない。
「……あのさ」
耐えきれずに声をかけると、
彼女は反射的に一歩、距離を取った。
「なんです?
観光ガイドへの個人的な質問は、別料金ですよ?」
「ウルタールって、そんなに危ないのか。
雰囲気が他と違う」
「危ないですよ」即答だった。
「ドリームランドに『安全』なんて言葉はありません。
……でも、ここは少し特別」
一瞬だけ、声が沈む。
「命じゃなくて。心が暴かれる場所ですから」
その意味を理解する前に、夜は唐突に訪れた。
4.2 猫たちによる裁判
紫色の空が墨を流したように暗転し、
街全体が息を潜める。人間の気配が消え、
猫たちの呼吸音だけが、潮騒のように重なり始めた。
「……囲まれてる」
カオリが、震える声で呟く。
路地の出口。石壁の上。噴水の縁。
無数の猫が、完璧な円を描いて俺たちを包囲していた。
その中心。影の中から、
一匹の巨大な猫が音もなく歩み出る。
黒と金の斑模様。知性の光を宿した瞳。
他の猫とは、明らかに格が違う存在感。
『人間よ』
古びた鐘のような声が、脳内に直接響いた。
ユリナが短い悲鳴を上げて蹲り、
マサトは言葉を失って立ち尽くす。
『我らは問う。汝は、選んだか』
裁定猫の視線が、俺の心臓を貫く。
「……何をだ」
『この世界を旅する者として、何に心を与え、
何を代償にするのか。汝の瞳には、既に歪みが混じっている』
逃げ場はなかった。
俺は、隣で硬直しているガイドちゃんの横顔を見る。
彼女は幽霊のように青白く、地面だけを見つめている。
「……選び始めてる。でも、それが正しいかは分からない」
『未熟な答えだ。だが、魂は既に鳴動している』
裁定猫の視線が、ガイドちゃんへ移る。
『では問おう。汝、この名もなきガイドを、どう思うか』
「やめて……!」
ガイドちゃんが、悲鳴に近い声で割って入った。
「それは裁きじゃない! 私を巻き込まないで……!」
『否。彼女は既に汝の旅の一部。
これは、汝の心が刻む刻印である』
俺は、深く息を吸った。
マサトの驚愕も、カオリの刺すような視線も、
今はどうでもよかった。
ここで嘘をつけば、
彼女が一番恐れている「曖昧な終わり」が来る。
それだけは、嫌だった。
「……好きだ」
声は、思ったよりもはっきり出た。
「ガイドとしてじゃない。
一人の人間として、あんたに惹かれてる」
時間が止まった。
猫たちの尻尾が、不気味なほど完璧に静止する。
「……馬鹿」
ガイドちゃんの手が、俺の袖を強く掴む。
氷のように冷たく、激しく震えていた。
「言わなくていいって言ったのに……
そんなこと言ったら、もう戻れないじゃない……!」
「言わなきゃ、この悪夢は終わらない。
……俺は、あんたを連れて帰りたい」
『裁定は下された』
巨大な猫が、厳かに告げる。
『この娘を「個」として選ぶならば、汝は代償を払う。
彼女を縛る契約、その運命の一部を汝の身に刻むのだ』
「代償って……何だ」
『汝の「現実」が、少しずつ削れる。 彼女を愛すれば愛するほど、
汝は向こう側の住人ではなくなる』
「だめ!」
ガイドちゃんが、初めて真正面から俺を睨んだ。
その瞳に、涙に似た光が滲む。
「そんなの、絶対だめ! 私はいいの!
ここに残るために生まれてきたんだから!
あなたには、帰る場所があるでしょ!?」
『否。選ばれたのだ』
猫たちは一斉に背を向け、影の中へ消えた。
裁きは終わった。
残されたのは、静まり返ったウルタールの夜と、
取り返しのつかない告白の残響だけだった。
夜が明ける。
街は何事もなかったかのように平穏を取り戻し、
朝の光が石畳を照らす。
誰も、口を開かない。カオリもユリナも、
俺から少し距離を取って歩いている。
「……ほら」
ガイドちゃんが、無理に明るい声を作った。
「だから言ったでしょ?
選ばないでって。……私を好きになるなんて、
この世界で一番コストの高い買い物なんですよ?」
「……後悔はしてない」
「謝らないで」即座に遮られる。
「謝られると、そこに『意味』が確定しちゃう。
……私は、ただの観光ガイド。
それ以上には、なれないんですから」
彼女は三歩、距離を取った。
その境界線は、昨日よりも深く、険しい。
「次、行きますよ。ぐずぐずしてると、本当に
『帰れなく』なっちゃいますから」
振り返らずに歩き出す背中は、
昨日よりもずっと小さく、今にも消えてしまいそうだった。
猫の街は、何も奪わなかった。
ただ、明らかにしただけだ。
――俺が彼女を選んだ瞬間から、
現実へ続く道が、確実に崩れ始めていることを。
それでも。
俺は、もう立ち止まらない。
▶第5話へ続く
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