幕間 ガイドちゃんの努力
距離を取る。
それは、彼女が数え切れないほどの「観光」を重ねる中で、
もっとも洗練させ、もっとも信頼してきた生存戦略だった。
相手が踏み込んでこようとしたら、
笑って一歩下がる。空気が重くなりそうなら、意
味のない冗談を投げて、核心から逸らす。
誰かが優しさを向けてきた瞬間には、
その感情が形になる前に、冷たい透明な線を引く。
そうしていれば、壊れずに済む。
そうしていれば、選ばれずにいられる。
「……あーあ」
崩れた神殿の裏手。一行からほんの少し離れた瓦礫の影で、
彼女は力なく腰を下ろした。
「練習、足りなかったかな」
頭上の空は、相変わらず煮え立つ
空気には、焦げたインセンスと、
古い羊皮紙のような乾いた匂いが混じっている。
さっきの彼の言葉が、耳の奥で何度も反芻される。
『聞きたい相手が、他にいないんだ』
――そんなこと、言われるはずじゃなかった。
そんな目で、見られる予定でもなかった。
彼女は細い膝を抱え、そこに顎を乗せる。
ドリームランドにおいて、
ガイドという存在は「舞台装置」でなければならない。
特定の誰かにとっての「個人」になった瞬間、
彼女を形作っている魔法は、静かに霧散する。
選ばれたら、終わりだ。
誰かに恋をした瞬間。
あるいは、誰かに決定的な恋をされた瞬間。
彼女は「観光ガイド」という普遍的な記号ではいられなくなる。
存在の輪郭は曖昧になり、役割は壊れ……
やがてこの歪んだ世界の一部――
名もなき石ころや、空を舞う影と同じものへと溶けていく。
それを、彼女はかつて一度、経験しかけていた。
――あの日。
今回と同じように、逃げ場のない絶望の中にいたパーティー。
彼女は自分を犠牲にして、
仲間全員を現実世界へと繋がる「門」へ送り出した。
閉じる直前の門の向こうから、
一人の少年が必死に手を伸ばしてきた。
『一緒に来い! 名前を教えてくれ!』
でも、彼女はその手を取らなかった。
名前も、教えなかった。
もしあの時、彼に選ばれて「一人の少女」として、
現実へ戻っていたら、彼女は自分以外の何かを身代わりにして、
生き延びた後悔に、一生焼かれていたはずだから。
だから、あの時も笑った。
『私はガイドだから大丈夫!』
最高の営業スマイルで、門の向こうを見送った。
――今回も、同じでいいはずだった。
「……なんなのよ、あいつ」
彼は、こちらを「見て」くる。
マサトのような観察でもない。
ユリナのような依存でもない。
カオリのような警戒でもない。
ただ、そこに一人の人間が立っていることを、
当たり前のように尊重する目。
それが、彼女にとってはどんな怪物よりも厄介だった。
冷たく拒絶する隙を与えず、
じわじわと心の防壁を溶かしてくる。
彼女は重い腰を上げ、服についた埃をパンパンと払った。
「……次は、猫の街」
ウルタール。
古き掟が支配し、無数の猫が静かに監視する街。
あそこなら、ドリームランドの美しさと恐ろしさ、
その「真実の半分」だけを見せられる。
その毒にあてられて、
彼が自分に幻滅し、自然と距離を取ってくれればいい。
そうすれば、この関係は「安全」なまま終わる。
彼を、元の世界へ帰してあげられる。
「選ばれない。選ばせない……よし」
自分に言い聞かせるように呟く。それが彼女の役目であり、
この悪夢の中で自分を保つための、たった一つの生き残り方。
彼女は誰もいない瓦礫の影で、水たまりを覗き込んだ。
鏡代わりの揺れる水面に向かって、いつもより少しだけ――
痛々しいほど明るい笑顔を作る練習をする。
次に彼と目が合ったとき。
今より、もう一歩だけ遠い場所に立っているために。
▶第4話へ続く
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