第四話「やり遂げてるじゃん」

 先に我に返ったのは、楽だった。


「ジーンの旦那! 助かりました! いや、ホント死ぬかと思った」


 楽は勢いよく立ち上がり、男のもとへと駆け寄る。


「おう、ガク。怪我はないか?」

「はい、おかげさまで!」


 ジーンと呼ばれた男は、そこでヒイロに目を向けた。


「お前も、怪我はないか?」

「あ、はい。大丈夫です。ありがとうございました」


 慌てて頭を下げるヒイロのそばまで、楽が歩み寄る。


「こいつ、ヒロっていいます。ヒロ、この人が俺の今の主人で、ぶっ倒れたお前をここまで運んでくれた人」

「ジーンだ。よろしく」


 差し出された手を、ヒイロは握り返した。


「よろしくお願いします。ジーンさん」

「ジーンでいい。敬語もいらん」


 ジーンは、わずかに口の端を持ち上げる。力みのない、肩の力が抜けるような笑みだった。


「この人、ホントに凄いんだぜ、ヒロ」


 やや興奮気味に、楽が畳みかける。


「コスモス最強の英雄って呼ばれてて、ゼウスとポセイドン、二柱の神の権能を受け継いでて、めっちゃ神器も持ってるし、あと──」

「はいはい、おしゃべりはその辺にして。事後処理するから、散った散った」


 いつの間にかそばに来ていたクラウが、ぱん、と手を叩いた。


「おう、クラウ。お疲れ」

「お疲れ。あと面倒増やすな」

「文句だったら研究棟の連中に言ってくれ。まったく、あの馬鹿どもときたら──」


 ジーンとクラウが会話をしているのを尻目に、楽がヒイロの肩を軽く叩く。


「とりあえず、後のことは任せておいて、俺らは部屋に戻ろうぜ」


 死体となった翼獅子を見ると、いつの間にか駆けつけてきた兵士たちによって運び出されていく。

 ヒイロは、まだ胸の鼓動がうるさいのを自覚しながら、楽の後をついて歩き出した。

 さっき見た「夜空」が、頭から離れなかった。


◆◇◆


 病室に戻ると、さっきまでと変わらない静けさがそこにあった。

 ベッドに腰を下ろすと、全身の力が抜けて、そのまま倒れ込んでしまいそうだった。右腕がずきりと主張する。


「さっきの……ジーンがやったんだよな」


 ヒイロが呟く。


「あの光は一体……?」

「雷だよ」


 楽は窓際の椅子に腰掛けた。


「ジーン以外にも、ゼウスの血族はみんな雷を使う。ゼウスは天空の支配者、雷の神だからな。おまけにそれぞれ、雷の色が違う。ジーンのは綺麗だよなあ」

「雷……」


 凄まじい力だった。あれに比べたら、ミノタウロスとの死闘もただの安っぽい喧嘩だ。

 あれがコスモス最強の英雄。

 いきなり頂点の力を見せつけられて、ヒイロは自信喪失していた。あんな風になれる想像なんて、到底できない。


「……なんか辛気臭いツラしてるけど、あの人を目標になんかしちゃダメだぜ?ただでさえ転移者バルバロイ半神ヘミテオスには種族差があるんだから、仕方ないって」

「種族差?」

「そ、神様の血を引いてるだけあって、元々が強いんだよ、あの人ら。神賦術テウルギアなんて力持ってるし、肉体のスペックとかオリンピック選手が裸足で逃げ出すレベルだし、寿命もめちゃくちゃ長い。あと、みんな顔がいい」


 それを聞いてますます自信がなくなってきた。


「……やっぱ俺なんかが英雄とか、無理じゃない?ただのひ弱な一般市民だし」

「だから比べちゃダメだって。それに、さ」


 楽が伏し目がちになり、声のトーンを一つ落として、言う。


「ヒロはもう、やり遂げてるじゃん」

「何を?」

「ミノタウロスを倒しただろ?俺は、だめだったよ。怪物の一匹も倒せなかった」


 楽は、窓の外に視線を向けて自嘲的に笑った。


「訓練所にいた頃はさ。俺も、英雄になるぞーって張り切ってたんだ。最初の実戦任務で、ちょっとした怪物の群れを相手するはずだったんだけど……」


 あまり話したくないことなのだろう。楽は手を口元に当てる。


「なんていうか、さ。ビビっちゃったんだよね。足がすくんで、剣も抜けなくて……気づいたら、仲間の背中に隠れてた」

「……」

「それからもう、坂道転がり落ちるみたいにさ。訓練についていけない、というか、やる気が全く出なくって、休みがちになって……で、気づいたら奴隷落ち。そんなんだからさ──」


 楽がヒイロと目を合わせる。真剣な目つきだった。


「ちゃんと怪物に立ち向かって、勝ったヒロは、ちゃんとすげえ。少なくとも俺より」


 ニヤリと笑う楽。最後の言葉は、さっきまでのトーンに戻っていた。


「だからさあ、そんな不安にならなくても大丈夫だって。いざって時は奴隷落ちして、お仲間!!」

「……」


 いまいち笑いづらいジョークに、ヒイロは沈黙で返すことしかできなかった。

 だが、さっきまで胸の中で固まっていた鉛のような塊が、少しだけ軽くなった気がした。


「……ありがとう、楽。俺、やるだけやってみるよ」

「おう、全力でサポートするぜ!そんで、いつか二人で、今日のこと笑い話にしようや!」

「……ああ」


 お互い小さく笑い合いながら、約束を交わした。


 日が沈み、すっかり暗くなった頃。ヒイロはベッドに横たわりながら考えていた。

 もう元の世界には戻れない。それでも、この世界で、自分を呼んでくれる声がある。

 胸の奥に、夢の中の約束が、静かに浮かび上がってくる。


 あの言葉の通りに生きてゆけるかどうか、分からない。けれど──


 そこまで考えて、思考がふっと途切れた。瞼が落ちる。まどろみの向こうで、遠くどこかから、行進曲のような音が微かに聞こえた気がした。


◆◇◆


 ティリンスには訓練生用の寮とは別に、英雄たちの居住区がある。その中でも一際大きな屋敷の客室で、影が二つ、寝椅子に座って話し込んでいた。部屋の明かりは、魔術を利用した、この世界の間接照明だけだ。


「いよいよヤバいかもな」


 影の一つ。屋敷の主、ジーンがワインの入った杯を揺らしながら呟く。


「お后さまがいなくなって、もう三ヶ月だ。今はまだ我慢できてるけど、限界が近い。もし母親の方がいなくなったら──」

「神話の時代の再来、か」


 もう一つの影であるクラウが、ジーンの言葉を引き継ぐ。


「芽生えず、実らず、飢え、死ぬばかり。永遠の冬。考えただけで恐ろしい。本当にそうなったら何人が死ぬんだろうね」

「攫われたって、本当だと思うか?」

「さあね」


 クラウが、肩をすくめる。


「でも、まだ見つかってないってことは、本当にいるのかもね。あそこに」

「行くのやだなあ。どうせおれに押し付けられるんだし。てかなんで神託はなんも言わねえんだよ」


 ジーンはうんざりしたように顔をしかめ、杯を卓に乱暴に置いた。鈍い音がして、中身が僅かに縁からこぼれた。


「……神託といえば、神託漏れの彼、どう思う」


 クラウがワインを一口飲んでから卓に杯を置き、話題を変える。ジーンの表情を伺う目つきだけが、医者から研究者のそれになっている。


「ヒロか?まあ、正直に言えば──匂う。濃厚な『死』の匂いだ」


 ジーンの声音が少し低くなる。何を思い出しているのだろうか、瞳の焦点が少し遠くなる。


「治癒の術式を施して驚いたよ。あそこまで治りにくいだなんて」


 クラウは指先を組み、親指同士をこつこつと打ち合わせる。


「ただの転移者バルバロイじゃあないよな。祝福エウロギアがなんにせよ、ありゃ厄介そうだ」


 ジーンが鼻で笑う。面倒ごとを嫌う彼が、「面白い玩具」を見つけたときの顔だ。


「もし、脅威になるようなら、どうする。今のうちに消しておく?」


 クラウの問いかけは、声だけ聞けば冗談のように軽い。だが、一瞬だけ瞳に冷たい色が走った。


「いや、大丈夫だろ。多分」


 ジーンは短く答える。


「根拠は?」


 クラウが、僅かに眉を上げる。


「勘」


 即答だった。


「勘、ね」


 半ば呆れたように、半ば諦めを含んだように繰り返すと、クラウは肩の力を抜いた。何度も見てきた光景だ。

 二人の会話は続いていく。

 世界のバランスが、静かに軋む気配とともに。

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