第9話
翌日は、久しぶりに雨が上がっていた。
濡れた舗道がまだ鈍く光っていて、空気はひんやりとしている。
瑠奈はいつもの図書館の窓際の席に座り、ノートを開いていた。
昨日の出来事が、どうしても頭から離れなかった。
(……夢、だったのかな)
白夜が語り出した「三千年」という言葉。
あまりにも現実離れしているのに、どこか嘘に聞こえなかった声音。
ページをめくる手が止まる。
そのとき――
足音が近づいた。
「おはようございます、瑠奈さん」
白夜だった。
いつもの穏やかな声。
けれど今日は、その後ろに“影”があった。
「……今日は、少し人数が増えます」
「え?」
瑠奈が顔を上げると、白夜の背後から二人の男性が現れた。
一人は、少し癖のある黒髪で、どこか落ち着かない様子の青年。
もう一人は、眼鏡をかけた理知的そうな男性で、周囲を静かに観察している。
「こちらは颯さん。
そして、朔さんです」
「……は、はじめまして」
瑠奈が戸惑いながら挨拶すると、颯と呼ばれた青年は一瞬だけ視線を彷徨わせ――
次の瞬間、胸元を押さえた。
「……っ」
「え、だ、大丈夫ですか?」
「……すんません」
颯は困ったように笑った。
「わからんのですけど……
ここ来た瞬間、なんか……胸が、ぎゅってして」
「胸が?」
「はい。
理由もないのに……泣きそうになるんです」
瑠奈は言葉を失った。
(……なに、この人)
作り話にしては、反応が生々しすぎる。
一方、朔は何も言わず、瑠奈のノートに視線を落としていた。
そして、ページの一角を指で示す。
「……この辻斬り事件の描写」
「はい?」
「感情の流れが、妙に具体的だ。
恐怖だけじゃない。
“止められなかった後悔”が先に来ている」
瑠奈の背中に、冷たいものが走る。
「……それ、変ですか?」
「いえ。
創作としては、むしろ優秀です」
朔は一拍置き、続けた。
「ただ――
実体験を知らなければ、
この順番にはならない」
「……」
瑠奈は笑おうとした。
冗談だと思いたかった。
「……皆さん、
私の話、信じすぎじゃないですか?」
その言葉に、颯が小さく首を振る。
「信じてる、とも違うんですけど……
読んでると、
“忘れてたはずの何か”が、
勝手に反応する感じで」
白夜はその様子を、黙って見ていた。
「白夜さん」
瑠奈は堪えきれず、声を上げる。
「……どういうことですか。
昨日の話も、今日のこの状況も」
白夜は一瞬だけ目を伏せ、静かに答えた。
「……あなたの物語は、
“誰かの記憶”を呼び起こす力がある」
「それって……」
「だから、
あなたは一人で書いているようで、
一人ではないんです」
その言葉が、胸に落ちる。
(……怖い)
けれど同時に、
不思議と――拒絶できなかった。
颯はまだ胸を押さえたまま、ぽつりと呟く。
「……なあ、俺、
この話の中の誰かに、
謝らなあかん気がするんです」
「誰に?」
「……わからん。
でも……
めっちゃ、大事な人やった気がして」
朔は静かに息を吐いた。
「……記憶はなくても、
感情は残る。
厄介だな」
瑠奈はノートを閉じ、三人を見回した。
「……私、
とんでもないものを書いてるんでしょうか」
白夜は首を振った。
「いいえ」
そして、はっきりと言った。
「あなたは――
“失われた物語”を、
正しい場所に戻しているだけです」
その瞬間、
瑠奈の胸の奥で、かすかな鈴の音が鳴った気がした。
りん……
彼女は、まだ気づいていない。
この四人がそろったこと自体が、
もう“偶然ではない”ということに。
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