第3話
今日は少し天気の悪い、窓際の席に座る。
外では雨が降り続いていて、窓ガラスを叩く音が一定のリズムを刻んでいた。
そのせいか、図書館の中はいつもより暗く、静かで、落ち着いている。
瑠奈はノートを広げ、ペン先を止めたまま、しばらく文字を眺めていた。
――里からの逃亡。
そんな見出しをつけたページ。
しばらくして、足音が近づく。
「あ、白夜さん。今日も来てくれたんですね」
顔を上げると、彼はいつもの席に腰を下ろし、
穏やかに、柔らかく微笑んだ。
「ええ。一緒に物語を描きたい、ですから」
その笑みを見て、なぜか胸の奥が落ち着く。
どこかで見たことがあるような、懐かしい安心感。
瑠奈は再びノートへ視線を戻した。
「里からの逃亡シーンですか……」
「はい。プロローグにしようかなって思って」
白夜はページを覗き込み、少し考えてから口を開く。
「そうですね……ここ、
もう少し“音”について描写するといいかもしれません」
「音、ですか?」
「ええ。この夜は、音がよく響いたでしょうし。
それに……狐族は音に敏感なんですよ」
「言われてみれば……」
瑠奈は一瞬考えてから、ふと思い出したように顔を上げる。
「あれ? 白夜さんも狐族、ですよね。
お耳、ありますし」
白夜は一瞬だけ間を置いてから、うなずいた。
「そうですよ。
なので、私も音には敏感です。とてもよく聞こえます」
そう言った瞬間、
彼の耳が、ぴこ、と小さく動いた。
「……動きましたよ?」
「……あ」
白夜は少し困ったように笑う。
「感情の変化に伴って、無意識に動くんです。
悲しい時は伏せられたり、
嬉しい時は……こうして」
また、ぴこぴこ、と動く。
「じゃあ、今は……嬉しかったんです?」
瑠奈がからかうように言うと、
白夜は一瞬言葉に詰まった。
「え、ええと……どうでしょう……」
耳が、今度は気まずそうに伏せられる。
「……今考えると、感情が耳で分かるのは恥ずかしいですね。
忘れてください」
「ふふ」
瑠奈は思わず笑ってしまう。
「でも……つばきは、耳に感情が出やすい子ですし。
しっかり描写した方が、いいのかもしれませんね」
そう言いながら、
白夜の耳はまた、わずかに揺れていた。
瑠奈はその様子にもう一度笑い、
ノートへ視線を戻す。
――つばきが、天使に抱えられ、人間界へ連れていかれる場面。
「あ、ここ」
白夜が静かに声をかける。
「なにかありましたか?」
「天使の存在は……一度、ぼかした方がいいかもしれません」
「どうしてです?」
白夜は少し言葉を選ぶようにして答えた。
「つばきは、里から出ざるを得なかったショックで、
一時的に……記憶を少し失ってしまったんです」
「……失って、しまった?」
「あ、いえ。
それだけ大きな出来事があれば、
記憶に齟齬が起きるのは、不自然ではないかな、と」
瑠奈はペンを持ったまま考え込む。
「確かに……そうですね。
じゃあ、どう描きましょう?」
「“光に攫われた”くらいの表現で、どうでしょう」
「なるほど……」
瑠奈は書き直し、少ししてからまた尋ねる。
「この時の、守り人さんの動きって……これで合ってます?」
白夜はページを見て、ゆっくり首を振った。
「大体は。
ただ……守り人は、つばきを抱え上げるよりも」
「よりも?」
「……手を引いて、走ると思います。
彼の性格なら、その方が自然です」
「確かに……」
瑠奈は頷き、表現を直す。
「じゃあ、こんな感じで」
「はい。いいと思います」
静かな雨音の中、
二人は並んでノートを覗き込む。
瑠奈は、ふと不思議に思った。
(……どうしてこの人、
ここまで“分かっている”んだろう)
けれど、理由を尋ねることはしなかった。
白夜の耳が、ほんの少しだけ、嬉しそうに揺れていたから。
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