第4話 神絵師は生活能力ゼロ

 チュン、チュン……。

 爽やかな小鳥のさえずりを模した電子音が、静寂な生徒会室の空気を震わせた。

 ピピピピ、ピピピピ。

 無機質かつ容赦のないアラーム音。それは、地獄の蓋が開く合図だった。


「……んぅ……あと五分……いや、五億年……」


 生徒会室の隅に設置された仮眠用のソファベッド。

 その上に形成された毛布の山から、この世の終わりを嘆くような、怨嗟に満ちた呻き声が漏れ聞こえてくる。

 俺は深く、重い溜息をつき、自分のスマートフォンのアラームを止めた。

 時刻は午前七時ジャスト。

 登校時間の五十分前であり、生徒会長が優雅に登校してくるはずの時間だ。


「会長、起きてください。もう朝ですよ。……いや、朝が来ちまいましたよ」


 俺はブランケットの塊に歩み寄り、その頂点を掴んで揺すった。

 昨夜、俺が自宅から持ち帰った画材と資料、そして俺の的確な進捗管理のおかげか、カレンの筆は驚異的なスピードで進んだ。

 難航していた構図修正を瞬殺し、線画を仕上げ、下塗りの大半を完了させたのが午前四時。

 『もう無理。指が動かない。脳みそが溶ける』と白目を剥いて倒れた彼女を、俺がここまで運び、泥のように眠らせて今に至る。

 睡眠時間は三時間。ブラック企業も真っ青の労働環境だが、クリエイターにとって締め切り前の修羅場は戦場だ。人権などない。


「むりぃ……目が開かない……瞼に接着剤塗られた……」

「寝ぼけてないで起きてください。ほら、今日は全校集会での挨拶があるんでしょう? 原稿読み合わせもしなきゃいけないのに」

「あ……全校集会……滅べばいいのに……」


 カレンがガバッと起き上がる……ことはなく、芋虫のようにモゾモゾと不快そうに蠢くだけだ。

 ブランケットの隙間から、寝癖で爆発した銀髪と、雪のように白い肩が覗く。

 そして、その下は当然のようにTシャツ一枚と、昨夜から変わらぬ淡い水色の下着姿だ。

 朝日が差し込む部屋で見るその姿は、深夜の背徳的な美しさとはまた違い、健康的かつ暴力的なまでの「無防備さ」を俺の網膜に焼き付けてくる。

 この数日で俺の理性も鋼のように鍛えられたつもりだったが、やはり心臓の鼓動は正直だ。朝の生理現象も相まって、直視するのは危険すぎる。


「ほら、蒸しタオルです。まずは顔を拭いて」


 俺は視線を逸らしつつ、給湯室で用意しておいた熱々のタオルを差し出した。

 カレンの顔面に、容赦なくそのタオルを被せる。


「あつっ!? ……あ、でも……きもちい……」


 カレンはタオルを両手で押さえ、ふあぁと猫のような声を漏らした。

 温熱効果で血行が良くなったのか、白磁のような頬にほんのりと赤みが差す。

 その隙に、俺はハンガーにかけてシワを伸ばしておいた制服を手に取った。


「さあ、着替えますよ。自分で着られますか?」

「……ん。無理。ボタンかける指の筋力MPが残ってない」

「おじいちゃんか貴女は。……はぁ、失礼しますよ」


 俺は覚悟を決めて、彼女の背後に回った。

 これは介護だ。老犬介護と同じだ。あるいは、精密機械のメンテナンスだ。

 そう自分に言い聞かせながら、彼女の腕を取り、ブラウスの袖に通していく。


 華奢な腕。折れそうなほど細い手首。

 至近距離に近づくと、昨夜の残り香である柑橘系のシャンプーの香りと、彼女自身の甘い体臭が混ざり合い、脳をくらくらと揺さぶる。

 背中のホックに触れないよう細心の注意を払いながら、ブラウスのボタンを一番下から留めていく。

 一つ、また一つ。

 白い肌が布に覆われていくことに安堵する反面、隠されていくことに一抹の寂しさを覚える自分を、俺は全力で殴り飛ばした。


「……九条くん、手あったかい」

「寝起きで体温が下がってるだけです。……次、スカート」


 カレンが素直に立ち上がる。

 ふらつく体を支えながら、プリーツスカートを履かせ、ウエストのホックを留める。

 最後に、リボンタイだ。

 彼女の正面に立ち、襟元を整え、リボンを結ぶ。

 カレンはまだ半分夢の中なのか、とろんとした瞳で俺の顔をじっと見つめていた。その距離、わずか二十センチ。吐息がかかる距離だ。


「……よし。着替え完了」

「んー」


 されるがままのカレンを椅子に座らせ、次は髪だ。

 寝癖で絡まり、鳥の巣のようになっている銀髪。これをあのサラサラヘアに戻すのは骨が折れる。

 俺は専用のヘアオイルを手に取り、櫛を使って丁寧に、根気よく梳いていく。

 プチッ、と引っかからないように。彼女が痛がらないように。

 指先で髪の感触を確かめながら、時間をかけて整えていく。この髪一本一本まで美しく描画される『カレラ』の絵の秘密は、彼女自身の素材の良さと、こういった手入れにあるのかもしれない。


 十五分後。

 そこには、完璧に整えられた制服姿の美少女が完成していた。

 中身はまだ半覚醒状態だが、見た目だけなら学園のアイドル・天王寺カレンそのものだ。


「よし。次は朝食です」

「えー……固形物いらない……ゼリーでいい……」

「駄目です。これから全校生徒の前で喋る人間が、エネルギー不足で倒れるわけにはいきません。脳を動かすには糖分とタンパク質が必須です」


 俺はタッパーから、一口サイズにカットした特製サンドイッチを取り出した。

 具材は、昨夜の買い出しで作った卵サラダと、ハム、そして隠し味のマスタードマヨネーズ。パンの耳は切り落としてある。


「ほら、口開けて。あーん」

「……あーん」


 パクッ。モグモグ。

 完全に餌付けである。

 今の彼女に、自分でサンドイッチを持って口に運ぶという高度な運動機能は備わっていないらしい。

 俺は雛鳥に餌を与える親鳥の心境で、次々とサンドイッチを放り込んでいく。


「……ん」

「どうしました?」

「おいしい」


 カレンが咀嚼しながら、ふにゃりと笑った。

 無防備で、嘘のない笑顔。


「九条くんの卵サンド、世界一かも」

「コンビニのパンとスーパーの卵ですけどね。……ほら、最後の一口」

「んぐ」


 朝食を無理やり胃袋に収めさせ、最後にビタミン剤と常温の水を飲ませる。

 これで最低限の身体機能は維持できるはずだ。

 仕上げに、指紋ひとつない状態に磨き上げた愛用の眼鏡を渡す。


「さあ、行ってください。生徒会長」

「……うん」


 カレンは眼鏡を受け取ると、ゆっくりと装着した。

 そして、ふらりと立ち上がり、生徒会室の大きな姿見の前に立つ。


 深呼吸を一つ。

 スゥー……ハァー……。


 カッ!

 部屋の空気が変わった。

 いや、物理的に音がしたのではない。だが、彼女の中で目に見えない『スイッチ』が切り替わる音が、確かに聞こえた気がした。


 丸まっていた背筋が、糸で吊られたようにスッと伸びる。

 半開きでとろんとしていた瞳に、理知的で冷徹な光が宿る。

 だらしなく緩んでいた口角が完璧な角度で上がり、慈愛と威厳に満ちた『聖女の微笑み』が形成される。


 振り向いた彼女は、もうそこにいない。

 『ポンコツ神絵師』のカレラは消え失せた。

 そこにいるのは、全校生徒が憧れ、教師ですら敬意を払う、絶対的な学園の支配者。

 天王寺カレン、その人だった。


「――おはようございます、九条くん。昨夜は遅くまで、私のサポートお疲れ様でした」


 凛とした声。優雅な所作。

 さっきまで「むりぃ」と呻いていた人物と同一人物とは到底思えない。


「……すごいな。二重人格を疑うレベルだ」

「失礼ですね。これも『演出』の一つですよ。完璧な作品を作るためには、作者自身も完璧な演者でなければならないのです」


 彼女は眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げ、不敵に微笑んだ。

 その瞳の奥に、ほんの少しだけ――俺にしか分からないレベルで――悪戯っぽい『カレラ』の色を残して。


「では、行ってきます。……あ、それと」

「はい?」

「帰ってきたら、続き……お願いしますね? 私の『お世話』」


 言い捨てると同時に、彼女は颯爽と生徒会室を出て行った。

 コツ、コツ、コツ……と、規則正しいローファーの音が廊下に響き、遠ざかっていく。


 俺は、嵐が去った後の静寂の中で、一人取り残された。

 散らかったタッパーやタオルを片付けながら、ふと我に返る。

 俺は一体、何をしているんだろう。

 隠居生活? モブ? 平穏な日常?

 いや、今の俺は完全に、トップアイドルの舞台裏を支える裏方スタッフであり、限界クリエイターの介護士だ。


「……まあ、悪くはない、か」


 空になったタッパーを見つめ、独りごちる。

 「世界一おいしい」と言った時の、あの無防備な笑顔。

 あれを守るためなら、もう少しだけこの苦労を背負い込んでもいいかもしれない。


 そう思っていた、矢先だった。

 俺のポケットの中で、スマートフォンが短く振動した。

 画面を見ると、知らないIDからのメッセージ通知。

 アイコンは、白くて丸い、雪だるまのようなキャラクター。


『ねえ、パパ。……見ちゃったよ?』


 背筋が凍った。

 パパ? 見ちゃった?

 俺が慌てて周囲を見回すと、窓の外、向かいの校舎の屋上に、スマホを構えた小さな人影が揺れているのが見えた。

 ピンク色の髪。大きめのパーカー。

 その人物は、こちらに気づいたのか、スマホを持った手をひらひらと振って見せた。


 心拍数が跳ね上がる。

 カレンのことで手一杯で後回しにしていたが、これは爆弾だ。

 俺とカレンの秘密の関係(ただの介護だが、外から見れば完全にアウトだ)を知る第三者。

 しかも、相手はただの生徒じゃない予感がする。


「……前門の虎、後門の狼ってやつか」


 俺は黒い画面を見つめ、今日一番の重い溜息をついた。

 俺の平穏な学園生活は、やはり夢のまた夢らしい。

 次なるトラブルの足音が、すぐそこまで迫っていた。

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