第3話 箱庭で舞う
庭先から聞こえる不可解な音に、恐怖と好奇心を孕んだ鈍足な歩みを向ける。
勝手口の鍵は、開いていた。
生暖かい湿気を含む空気が頬に触れた。
庭の芝が月明かりで白く見える。
不可解な音は未だ軽快なダンスを続けているが、その正体は、庭の奥――小さな作業スペースの方からだった。
スっ、スっ。
俺は影を踏まないように歩いた。
心臓の鼓動はうるさいし、近づくほど鉄の匂いが濃く不快感があった。雨上がりの土の匂いに混ざって、嫌な匂いもする。
そして俺は出会ってしまった。
月光の下に、白髪の女がいた。
纏っている黒いコートの背中には、見た事もない金色のロゴが入っている。
白い髪は肩より少し長く、月の光を吸って青く見えた。彼女は背中を丸め、地面に置かれた大きなキャンバスに筆を走らせていた。動きは迷いがなく、まるでワルツを踊っているみたいだった。
そして、その隣に――父がいた。
いや、「いた」という言葉が間違っているかもしれない⋯⋯
父は倒れていた。庭の芝に横たわり、微動だにしない。服は暗い色に濡れており、月明かりがそれを赤黒く見せる。
白髪の女は、白金に縁取られた高そうな筆を父の腹部に一瞬だけ触れ、そしてまたキャンバスに戻した。
その光景を見た俺は、胃がねじれ、吐き気が込み上げてくる。何故か分からないが、足が震えた。
けれど、その白髪の女性からどうしても目が離せなかった。
彼女の絵は、赤い線だけでできているのに、不思議なほど鮮やかだった。ただの赤だけでなく、真紅でありドス黒く生きている赤だった。
そして俺は気づいた。本来いるはずの場所に居ない父をここまで移動させたのだ。その間、彼女は家の中を一切汚していない。 庭で、全部済ませている。
その徹底した配慮は、狂気としか呼べない何かだった。
何が発端だったか、俺の息が漏れた。
ほんのわずかな音だったのに、彼女は振り向いた。
ついに目が合った。
黒くて月の光を吸い込むような瞳。
恐怖より先に、妙な落ち着きが来た。俺は「叫ぶ」ことも「逃げる」こともできないまま、そこに立っていた。
白髪の女は笑いもしないし、脅しもしなかった。
「こっちにおいで」
声は静かだった。
ハープのように優しく、夜空に溶ける声。俺の足は動かないが、構わず彼女はもう一度筆を走らせた。
スっ、スっ
その音は俺の中の恐怖を確実に宥めてくれる。
足元に落ちた血の着いたナイフは、二歩先にいる白髪の女性に向けるべきだろうか。
俺は、父を殺した人間を「悪」と呼べばいいのか分からなかった。
父の声が蘇る。搾取。犠牲。大衆は知らなくていい。
この人は――父の悪を止めたのか? それとも、ただ別の悪なのか?
父の死が、俺の中で「悲しみ」にならないことが怖かった。些かどうでもいい、という感覚が湧いてしまう。父が何をしていたのか知りたい気持ちが、父を失った事実より大きかった。
白髪の女は、絵の上に最後の線を引いた。そこで初めて、俺は絵の形を理解した。
逆さまの蝶だった。
蝶は普通、希望や変化の象徴だ。けれど逆さまの蝶は、落ちる前の死体みたいにも見える。ある人には希望に見え、ある人には恐怖に見える――そんな曖昧な形。
白髪の女は筆を置き、俺を見た。
「あなたのお父さんは、たくさんの“命”を踏んで上に立ってた」
命を踏む。
彼女はたしかに「命」と言った。ただの人の死だけではなく、人生のことを指しているみたいに。
「この絵の具が言う会社っていうのは、きれいな言葉で汚いことをする。そういう場所。あなたは知らなかった?」
俺には答えられない。
たしかに何も知らなかったが、未だに言葉が出てこなかった。
白髪の女は淡々と続けた。
「私たちは、醜い人間が嫌い。でもね、血の色だけは美しい。だから――こうして描く」
彼女はキャンバスに視線を落とした。
「そして、全てを大衆に見せつける。『あなた達の上に立っている人間も、等しく同じ色をしてる』って」
ただ、狂ってると思った。思うべきだった。
なのに、俺はその言葉を頭の中で反芻し、他の誰かにも伝えてあげたいと思った。
白髪の女はポケットから小さな紙切れを出した。そこには、住所のような文字の横に『アジト』と書かれていた。
「興味があるなら、ここへ来て。迷うなら、来なくていい」
俺は震える指先で紙を受け取った。
彼女は背を向け、夜の影の中へ消えていった。
俺は月明かりの下に残ったキャンバスを見たが、逆さまの蝶の羽ばたきは激しさを増していった。
俺は、あの女にパレットとして使われていた父をどんな目で見るのが正解なのだろうか。
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