王都の休日

「珍しいな。食堂帰りか」


 陽だまりの奥に、鉄と石鹸の清潔な匂い。


「は、はい」


「ちゃんと食べてない顔だな」


 エドガーの声は低く、有無を言わさぬ響きがあった。


「少しは食べました」


 この人には、隠し事ができない。


「あの……エドガー様」


 気がつくと、口が動いていた。


「明後日、財務卿は終日会議で執務室を空けるそうです」


 低い声で、そう伝える。

 エドガーの目が鋭くなった。


「本当か」


「はい。それと……建国祭の招待状が届く日なんです。本人指定配達が、ちょうど明後日に——」


「会議の日と重なる」


「不在の執務室に入れます」


 二人は顔を見合わせた。


「……焦るな」


 エドガーがぽつりと言った。


「焦っても仕方ない。明日、非番だろう」


「……はい」


「俺も非番だ。……よかったら、付き合わないか」


「え、でも——」


「遠慮するな。腹が減っては戦ができんと言うだろう?」


 ——あの日と、同じ言葉。

 王都の広場で、飢えていた自分にパンをくれた時と。


 あの日から、この人は変わらない。


「……はい。お供します」


    ◇ ◆ ◇


 翌日。

 セシルは王都の市場に来ていた。


 俺の指を守ってくれたお礼だ、とハンスがくれた新品のズボンとシャツは、少し大きいが動きやすい。

 初めての配達の日に、クラウスが服の大きさを直してくれた、あの魔法のことを思い出す。

 いや、敵か味方かもわからない魔術師に今頼ることはできない。


 胸ポケットには、リラ夫人からもらったラベンダーを押し花にして忍ばせている。お守りのつもりだった。


 古い石畳の大通りには、朝から人々が行き交っている。靴底に伝わる石の凹凸が、宮廷の滑らかな廊下とは違う。

 赤煉瓦の建物が軒を連ね、窓辺には冬咲きの花が鉢植えで飾られていた。

 宮廷の静謐とは正反対の世界だった。


 王都に来た日、この街を歩いたはずなのに、何も覚えていない。あの時は、街を見る余裕なんてなかった。


「……すごい人」


 活気あふれる大通り。

 色とりどりの露店が並び、香辛料の鮮烈な香り、焼きたてパンの甘く香ばしい匂い、草花の瑞々しい青さが渦巻いている。

 店というより、布を広げた台や、木箱を積んだだけの売り場。荷車の荷台がそのまま店先になっている。石畳に張られた天幕の影が、風に揺れては形を変える。

 呼び込みの声と笑い声が、路地の奥まで反響していた。


 宮廷では、香りは人の本性を暴く道具だった。

 けれどここでは、ただの——生活の匂いだ。

 誰かの今日の夕食、誰かの小さな幸せ、誰かの何気ない一日。そういうものが重なって、この街の空気になっている。

 不思議と、肩の力が抜けた。


 人混みに酔いそうになった時、背後から声がかかった。


「早いな」


 振り返ると、エドガーが腕を組んで立っていた。

 私服姿だ。ゆったりとした麻のシャツに、よく着慣れた革の上着、動きやすそうなズボン。騎士の制服姿とは違う、少しだけ柔らかい印象。

 金髪が朝の光を受けて、淡く輝いている。


「す、すみません! 仕事の癖で……」


「……ならしかたない、行こう」


 歩き出してから気がつく。エドガーも、早く来ていたのだと。


 エドガーの買い物は、意外にも生活感に溢れていた。

 野菜を手に取り、軽く握って鮮度を確かめる。葉がしゃきりと鳴る。無愛想な騎士のイメージからは想像できない、手慣れた動きだった。


「エドガー様って、自炊されるんですか?」


「ああ。寮の飯は……まあ知っているだろう?」


 肉を売る露店では顔馴染みらしく、「いつものね」と良い部位を包んでもらっている。

 エドガーが懐から銀貨を取り出し、店主に渡した。釣りの銅貨を受け取る所作が、どこか洗練されている。市場に慣れているのに、育ちの良さが隠しきれない——不思議な人だ。


 こうして一緒に市場を歩いていると、不思議と居心地がいい。

 宮廷では「騎士」と「郵便小姓」だが、ここでは「エドガー」と「セシル」だ。


「宮廷の空気より、こっちの方が息できるだろ」


 エドガーがぽつりと言った。自分も同じだと、そう言っているように聞こえた。


 エドガーが案内してくれたのは、大通りから一本入った路地だった。

 石畳の細い道の両側に、職人の店が軒を連ねている。

 額縁を並べた絵画店、革の鞄を吊るした皮革屋、色とりどりの絵具が窓辺に並ぶ画材店——どの店も古びているのに、どこか洗練された空気を纏っていた。


「何か買うものはないか? せっかく来たんだ」


 その路地の奥に、ひときわ小さな文具屋があった。

 苔むした石畳を抜けた先に、古びた木の扉がひっそりと佇んでいる。

 扉を開けた瞬間、懐かしい匂いに包まれた。インクの甘い苦み、羊皮紙の乾いた香り、封蝋の蜜のような匂い。そして、鞣した革の重厚な香り。

 暗い色の木の棚には、革装丁の手帳や便箋帳がぎっしりと並んでいる。硝子棚の中には、様々な羽ペンが整然と収められていた。壁際には色とりどりの封蝋が瓶に詰められている。

 店の奥では、白髪の老人が小さな作業机に向かっていた。


 父の書斎と、同じ香りがした。


「ここは穴場なんだ。昔、何度か来ていた」


「手紙を書くために?」


「……書類仕事は嫌いだが、こういう店は嫌いじゃない」


 エドガーは質問には答えなかった。けれど、その横顔が少しだけ柔らかくなっていた。


 店の奥から、古いインクの匂いが漂ってくる。

 羽ペンを削る音が、静かに響いている。


 あの夜に知った真実が、心の奥で静かに重みを増していた。

 王族の血を引きながら、ただの騎士として生きることを選んだ人。

 母の「自由に生きろ」という言葉を、肌身離さず抱えている人。


 その母の言葉が偽りかもしれないと、この人に伝えたのは私だから。

 だから今日は、ただ一緒にいよう。


 エドガーは棚の羽ペンを一本手に取り、穂先を確かめていた。

 その指先が、上品に滑る。


 棚の隅に、場違いなものが並んでいた。

 可愛らしい髪飾り。銀細工の蝶、ガラス玉の花、琥珀の雫。

 文具屋に似つかわしくない、小さな装飾品たち。


 その中に、あの絵本の蒼い伝書鳩を模した髪留めがあった。


 セシルは思わず見入った。

 繊細な細工で作られた小さな鳩。翼を広げた姿が、まるで大切な手紙を届けに飛び立つ瞬間のようだ。深い蒼色が、夜明け前の空を思わせる。

 鳩の瞳には、小さな橙色の石が嵌め込まれていた。西日を受けて、きらりと光る。

 小さな灯火を閉じ込めたみたいな、あたたかい光だった。


 手に取りたい。

 髪に挿してみたい。

 鏡で見てみたい。


 それを髪に挿した自分を想像して、胸がきゅっと鳴った。

 そんなもの、今の私には許されないのに。


 セシルは視線を引き剥がし、歩き出そうとした。


「どうした?」


 エドガーが戻ってきた。


「な、何でもありません」


 セシルは慌てて首を振り、歩き出した。


    ◇ ◆ ◇


「ここ……」


「覚えているか」


 バターと小麦の甘く芳ばしい匂いは、あの日と全く変わらない。

 ガラスに映るのはあの日のみすぼらしい姿ではなかった。

 ——それでも、この姿は本当の私ではない。


 エドガーが店主に声をかけ、焼きたてのパンを受け取った。

 一つをセシルに差し出す。


「……ほら。温かいうちに」


 あの日と同じ、パンを齧る。

 ——隣に誰かがいると、こんなに温かいものだったのか。


 広場のベンチに並んで座る。

 西日が石畳を橙色に染め、噴水の水飛沫が金色に輝いている。


 建物の窓には色とりどりの旗が飾られ、露店には金銀の飾り紐が揺れていた。


「建国祭の準備だ。もうすぐだからな」


「すごい賑わいになりそうですね」


「ああ……毎年この時期は憂鬱でな」


 エドガーは遠くを見つめた。その横顔に、一瞬だけ影が差す。


「なんでですか?」


「その日が誕生日だからだ。二十歳になる。成人だ」


「それは……おめでとうございます」


「面倒が増えるだけだ」


 エドガーは吐き捨てるように言って、すぐに口を噤んだ。


 ——王族の成人には、意味がある。

 継承権を正式に放棄したとはいえ、王家の血を引く者が成人すれば、政治的な重みが生まれる。望まなくても、周囲が放っておかない。


「まあ、その話は今日はいい」


 エドガーはポケットから何かを取り出した。


「やるよ」


「え?」


 渡されたのは、あの蒼い伝書鳩の髪留めだった。


 エドガーの指先は、剣を握り慣れた硬さがあった。

 その無骨な指が、壊れ物を扱うように慎重に、セシルの掌に髪留めを乗せた。

 指先が触れた。ほんの一瞬。けれど、その熱が髪留めの冷たさと混じり合って、掌に不思議な感触を残した。


 深い蒼が透き通って見える。

 ——温かい。

 さっきまでエドガーのポケットに入っていたから。彼の体温が、まだ残っている。


「これ……!」


「さっき見てただろう。……知り合いへの土産にでもすればいい」


 彼の視線が、私の短い髪の先を彷徨った。

 何かを想像したのか——視線を逸らして、喉仏が動いた。


 セシルは小さく首を振った。

 エドガーは背を向けている。首筋まで赤い。


「……いつ買ったんですか」


「騎士の秘密だ」


 あの時、気がついていたのだ。自分が髪留めを見つめていたことに。


「……ありがとうございます、エドガー様」


 声が少し震えた。

 嬉しいのに、胸が痛む。

 この人は、私が女だと知らないのに。

 父の疑惑のことも知らないのに。


 手の中の蒼い鳩が、静かに輝いている。


 建国祭の日は、彼の誕生日でもある。

 その日に——何か、返したい。


「大切にします」


 エドガーは小さく手を振った。

 夕暮れの風が、香辛料と花と、焼きたてのパンと、陽だまりの匂いを撫でた。

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