嘘の香り

 宮廷での生活が始まって一週間が過ぎた。

 セシルは少しずつ、郵便小姓としての生活に慣れ始めていた。


 誰よりも早く起きる。隙間風を堪えながら、火精石を強く握るとだんだんと温かくなっていく。調理に使えるほど熱くはならないが、ないよりましだ。固いパンをそれで温め、噛み砕く。ぱきり、と皮が音を立てた。

 王宮郵便室に着けば、いつも通り、山のような手紙の仕分け。

 忙しさに追い立てられている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。


「おはよう、セシル君。今日も早いね」


 王宮郵便室では、ルッソ室長がいつもの穏やかな笑顔で迎えてくれる。


「おはようございます、室長」


 席についた途端、室長がやや困った顔で棚の方を指した。


「これが戻ってきてね。……受取拒否で返送された手紙だ」


 セシルが棚を見ると、淡いピンクの封筒が一通置かれていた。

 封蝋には薔薇の紋章。触れた瞬間、甘く強い香油の香りが吹き上がる。


「うっ……」


 思わず顔をしかめる。薔薇の香りの奥に、重たく腐った果実のような刺激臭があった。

 甘さに見せかけた、欺瞞の匂い。


「宛先は侍女エレナ嬢。差出人はアルマン男爵だよ」


「アルマン……」


 軽薄な噂の多い青年貴族。

 その名前を聞くだけで、セシルの鼻が嫌な予感を訴える。


「男爵、だ。呼び捨てにすると怒られるぞ。——エレナ嬢が『受け取れません』と言って返したそうだ。男爵の方へ返却に行ってくれないか。急ぎではないから、今日中でいい」


「はっ、はい、分かりました!」


 何だか気が進まない。

 だが、郵便小姓として断る理由はなかった。


     ◇ ◆ ◇


 午後の配達を終えて郵便室に戻ると、集荷を終えた先輩たちも続々と帰ってきた。

 宮廷内各建物の投函箱を回り、手紙を集めてくる仕事だ。

 セシルは仕分けを終えた手紙の束を発送用の木箱に詰めていった。封蝋の色とりどりが、夕日を受けて鈍く光る。

 ハンスが横から覗き込み、帳簿と照らし合わせて数を確認していく。


「よし、合ってる。蓋していいぞ」


 やがて、発送便の馬車が裏口に滑り込んできた。風精で荷重を抜いた車輪が、石畳すれすれで止まる。

 御者に木箱を渡し、受領の印をもらう。馬車を見送ると、蹄の音が遠ざかり、夕暮れの空に溶けていった。


 ——あ。


 朝の返却手紙。まだ届けていなかった。

 「今日中でいい」と室長は言っていたが、もう日が暮れかけている。


 セシルは慌てて鞄を掴む。この時間なら私室だろう。


 足早に向かう途中、東の塔を過ぎた辺りで、鼻がぴくりと反応した。

 手紙と同じ匂いだ。甘ったるいのに冷たい、粘つくような悪臭が、庭園の方から流れてきていた。

 匂いを追って進むと、悪臭がさらに強くなった。


 東屋が見えてきた。

 その影から、声が漏れてくる。


「まあ、アルマン様……そんな……」


「恥ずかしがることはないよ。君は本当に可憐だ」


 侍女服の少女——リリナ嬢が頬を赤らめている。

 男爵は彼女の手を取り、優雅に口づけを落とした。


 その瞬間、空気に甘腐れた匂いがふわりと漂った。

 言葉だけは完璧なのに、その奥に澱んだ黒い欲望の匂いが混じっている。


 セシルは足を止め、拳を握りしめた。

 リリナ嬢は純粋そうな少女だ。

 この手紙と同じ匂いを纏う男に弄ばれれば、きっと泣くことになる。


 心臓がどくどくと脈打つ。

 郵便小姓が口を出すことではない。男爵は貴族で、自分はただの小姓。

 下手をすれば、職を失う。それだけじゃない——男だと偽っている身で、目立つ行動は危険すぎる。


 分かっている。分かっているのに——あの腐った甘さが、鼻の奥にこびりついて離れない。

 男爵の甘い笑顔と少女の無垢な瞳を見た瞬間——

 考えるより先に、セシルの足が動いた。


「失礼します」


 声が少し震えた。

 だが、もう止まらない。


 二人は驚いたように振り向く。

 男爵は、郵便小姓の制服を見るなり不機嫌そうな顔になった。


「なんだ、今は取り込み中だ」


「アルマン男爵様宛ての手紙をお持ちしました。返却分です」


「……なぜここに持ってくる。私室に届ければいいだろう」


「お急ぎかと思いまして」


 セシルは息を吸い、返却された封筒を差し出した。


「先日お送りになったこちらのお手紙ですが……宛先のエレナ嬢が、受取を拒否されたそうです」


 リリナ嬢が、びくりと肩を震わせた。


「エレナ……?」


 男爵の顔が強張り、次第に怒気を帯びていく。


「余計なことを言うな!」


 リリナ嬢の瞳が揺れた。

 男爵が慌てたように手を伸ばす。


「リリナ、違うんだ。これは——」


 男爵は苛立ちを隠しきれず、セシルに振り返ると手を振り上げた。


「貴様……この無礼者が——」


 頬を打つ音が響くはずだった——

 代わりに、落ち着いた声が空気を裂いた。


「騎士として見過ごせないな」


 夕暮れの空気が、陽だまりの香りに包まれた。


「エドガー様……!」


 近衛騎士の制服を纏ったエドガーが、男爵の腕をがっしり掴んでいる。


「子供相手に取り乱すとは。男爵らしくもない」


「この小僧が余計なことを——!」


「余計なこと? 手紙を届けるのは郵便小姓の仕事だ」


 エドガーの碧眼が鋭く光る。


「そもそも……エレナ嬢とリリナ嬢、どちらにも恋文を送っていたのは誰だ?」


 男爵が青ざめた。

 リリナ嬢は口元を押さえ、涙を浮かべて男爵を見つめる。


「ひどい……そんな……」


「り、リリナ、違うんだ!」


「男爵」


 エドガーが硬い声で言った。


「これ以上彼女の心を乱すな。下がれ」


 男爵は悔しげに唇を噛んだ。


「貴様に何が分かる……!俺の背後にはヴァルダー卿が——」


 ヴァルダー。

 異動通知簿で見た名前。父が失脚した時期に、異様な速さで出世した男。


 だが、セシルの心臓が跳ねるより先に——エドガーから発せられる香りが変わった。

 焼けた鉄の匂い。怒りだ。


「……その名を、俺の前で出すな」


 低く抑えた声に、男爵は口をぱくぱくさせると、顔を真っ赤にして去っていった。


     ◇ ◆ ◇


 静けさが庭園に戻った。冬の風が枯れ枝を揺らす音だけが、かすかに響いている。

 リリナ嬢は涙をぬぐい、頭を下げて去っていった。


 残されたセシルは、安堵の息をついた。

 膝から力が抜けていく。


 ——なぜ、ヴァルダー卿のことを。

 その問いは声にならず、セシルは俯いた。


「……無茶をする」


 隣に腰を下ろされた。


「危ないことをしたのは確かだ。……まあ、結果的には悪くなかったがな」


 驚いて顔を上げた。


「怒って……いないんですか?」


「怒っているさ。無茶をするからな」


 エドガーはため息をついた。

 だが、その横顔はどこか優しい。


「あの男がよくあそこにいるのは見ていた。同じように泣かされた侍女が、何人もいる」


 エドガーの視線が、東の塔の方へ滑った。

 ほんの一瞬——それだけで、すぐに戻る。


「……あの辺りを見回っていたら、声が聞こえてな」


 一瞬だけ言葉が途切れる。


「……人目につかない場所だ。だから、時々通る」


 理由は言っていないのに、何かがある——そんな気配だけが残った。


「……僕、ただ……あの匂いが耐えられなくて……」


「匂い?」


 エドガーが首を傾げる。

 セシルは少し躊躇った後、正直に口を開いた。


「……腐った果実みたいな匂いです。最初は甘い香油で誤魔化しているけど、奥にどろっとした澱みがあって。舌の裏側に絡みついて離れない。誰かが嘘をつくとき、人を傷つけるつもりで甘い言葉を並べるとき——いつもこんな匂いがします」


 言葉が勝手に口をついて出た。

 こんなに詳しく、匂いを言葉にできたのは初めてだった。


 エドガーは黙って聞いていた。

 やがて、小さく頷いた。


「……なるほどな。変わった鼻だ」


 エドガーは空を仰いだ。


「確かに、あいつの言葉は薄っぺらかった。……俺には、そこまで嗅ぎ分けられない」


 口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「悪くない度胸だ。助かった」


 そう言って、エドガーは視線を逸らす。

 日向の温もりが、ふわりと強くなった。


 ——この力を恨んだこともあった。誰の事も疑ってしまう呪いだと。

 でも、エドガーの前でなら、本当のことが言える。


 だが同時に、鼻の奥に残った腐臭がセシルに問いかける。

 身分を隠すという自分の嘘は明かせるのかと。


「ありがとうございます……エドガー様」


 声が少しかすれた。


「……危険なら呼べ。無茶はするなよ」


 エドガーは立ち上がり、東の塔の方へ歩いていった。


 セシルは小さく息を吐いた。

 陽だまりの香りが、まだ残っている。

 それが、腐った甘さの後味を、静かに洗い流していった。

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