初日の配達
王宮郵便室の裏口に、朝一番の郵便馬車が滑り込んできた。
車輪に宿った風精の力で、石畳からわずかに浮いている。重い荷を積んでいても音もなく走れるのだ。
荷台には手紙の束が山と積まれ、御者が欠伸をかみ殺しながら手綱を緩めていた。
まだ、誰もいない。
狙い通りだった。
誰よりも早く来て、誰にも見られないうちに着替えを済ませる。厠も、洗面も。父の疑いを晴らすまでは——ずっとこうやって生きていく。
セシルは、支給されたばかりの制服を何度も確かめていた。
深緑のベストに白いシャツ、肩には羽根のエンブレム。中性的な意匠は男装には好都合だった。
「——おや。早いな、新入り」
振り返ると、ルッソ室長が目を丸くしていた。
その後ろから、欠伸をしながらやってくる先輩小姓たちの姿が見える。
「す、すみません、張り切りすぎました」
「いやいや、感心だ。さあ、仕事を始めよう」
荷台から降ろされた手紙の束を、係が魔法秤にかけて重さを記録していく。
王宮郵便室の中央には、記録用の台が置かれ、王宮内外から届いた手紙は全てここを通し、通過記録が残される。
「セシル君、手紙をここに置いて、記録させてから棚に入れてくれ」
ルッソ室長が台を示した。
セシルは手紙を一通、台に置いた。雷雨の前のような、湿り気を帯びた匂いが鼻をくすぐる——魔法の香りだ。
魔導書がひとりでに開き、入れるべき棚を示してくれる。
棚に収めて、次の一通を台に置く。またあの湿った香り。棚の指示。収める。
「その調子だ」
一つ、また一つと手紙を仕分けていく。
棚を示す魔導書に従って手紙を入れていくと、ある棚だけやたらと厚みを増していった。
「室長、この棚だけ多いですね」
「ああ、王立記録院行きだ」
ルッソ室長が眼鏡を直しながら答えた。
「公式書類は全て、書記監の封蝋を経て郵便室を通り、記録院に送られる。誰がいつ送ったか、記録が残る仕組みだ」
「全ての公式書類が……」
では、父の裁判で使われた証拠書類も、ここを通ったのだろうか。
心臓が跳ねた。
「そうだ。だから我々の仕事は、ただの配達ではない。王宮の記録を守る仕事でもある」
羽ペンが紙を走る音、棚に手紙を差し込むさらさらという音——郵便室には、手紙たちが旅立つ前の静かな音楽が満ちていた。
豪華な深紅の封蝋が施された手紙が手元に来たのは、その直後だった。
宛名を見ると「王妃陛下」と記されている。差出人は——第一王子。
「これは……」
「見ての通り。外遊中の第一王子殿下からだ。特別丁寧に扱うように」
セシルは緊張しながら記録台に置いた。
通過記録が刻まれる、かすかな音がした。
そのとき、鼻をくすぐる香りがあった。
潮の香り——。
遠い海の気配。異国の風。宮廷のどの香りとも違う、外の世界の匂いだった。
セシルはその匂いを、頭の奥深くに刻みつけた。
仕分けがひと段落すると、ルッソ室長が手招きした。
「セシル君、こっちへ」
案内されたのは、部屋の隅の小さな机だった。
使い込まれた木の天板に、引き出しがひとつ。
「君の机だ。小姓には一人一台、机が与えられる」
——自分の机。
胸の奥が熱くなった、その瞬間。
抱えていた手紙の束が、するりと滑った。
「あっ——」
拾おうとして、引き出しの取っ手に手をぶつける。ガン、と乾いた音。
「大丈夫か?」
隣の席の赤毛の男が、からかうように笑った。日焼けした腕に、革鞄。使い込んだ革の香りがした。
「新入りは皆そんなもんだ」
ルッソ室長も肩をすくめる。
「午後は配達だぞ、セシル君。それに備えてゆっくり休憩しなさい」
◇ ◆ ◇
「よし、じゃあ行くぞ」
隣の席の先輩——ハンスが、革の鞄を肩にかけながら言った。
「最初の三箇所は俺が回り方を教える。そこから先は一人でやってみろ」
「はい!」
棚へと仕分けられた手紙の束を、中の仕切られた革の鞄に詰め込み、配達先の一覧を確認する。
北棟、東棟、貴族の居住区——今日だけでも相当な数だ。
ハンスの後について、広大な宮廷の廊下を歩く。
先輩の背中から、汗と革鞄の匂いがした。不思議と嫌な感じはしない。
その奥に、かすかに石鹸の香り——誰かに洗ってもらった服の匂いだ。
壁の妖精灯がふわりと明るくなり、二人が通り過ぎると静かに光を落としていく。
階段の前で、ハンスが足を止めた。
壁際に、数人は入れそうな小さな箱がある。真鍮の扉に、淡く光る魔方陣。
「魔導昇降機。宮廷魔術師のクラウス様が作ったやつだ。荷物が重い時は使っていいぞ」
ハンスが扉を開け、中に入った。セシルも続く。
ハンスが壁の水晶に触れると、腹の底に低い唸りが響き、箱がすっと浮き上がった。一瞬で三階分を昇り、静かに止まる。
「便利だろ。階段で息切らして汗だくになると、貴族連中に嫌な顔されるからな」
「宮廷は広いからな。最初は迷う。でも三日もすれば体が覚える」
「はい」
「あと、貴族には丁寧に、でも媚びすぎるなよ。郵便小姓は中立だ。誰の味方でもない」
財務局ではハンスが手本を見せた。
「こう渡して、こう記録を残す。簡単だろ」
典礼官の執務室は不在だったので、机の上に置いて記録を残す。
「不在の時はこうする。勝手に開けるなよ」
西棟の貴婦人にはセシルが渡した。ハンスが後ろで頷く。
「よし、筋はいい。ここからは一人で大丈夫だな」
「え、もう?」
「心配すんな。迷ったら誰かに聞け。郵便小姓の制服を見れば、たいてい教えてくれる」
ハンスは軽く手を振って、別の配達順路へと消えていった。
一人になると、急に廊下が広く感じた。
配達一覧の裏に刷られた略図を見る。北棟は右、東棟は奥——のはずだ。
右へ曲がり、階段を上り、また右へ。
同じ妖精灯が二つ並んでいる。さっきも見た気がする。壁の石の色が層ごとに違う。
古い灰色の石の上に、後から積まれた淡い石が継がれている。下層の石からは、何百年も染みついた湿り気の匂いがした。
階段は一度だけで終わらない。踊り場ごとに向きが変わり、同じ窓が別の高さから覗く。
中庭に出るたび、柱廊のアーチが陽光を切り取り、石床に半月の影を落としていた。中庭かと思えば回廊に囲まれた吹き抜けで、どこかで水盤の滴る音がする。水と苔の匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。
宮廷は古い城塞を何度も増築して作られたと聞いた。略図に描かれているのは、この迷宮のほんの骨格だけだ。
——でも、匂いは覚えている。
さっき通った廊下には、誰かの香水が残っていた。この角を曲がれば、あの甘い残り香に出会うはず。
鼻を頼りに歩くと、見覚えのある妖精灯の並びに出た。
すれ違った侍女に確認のため道を尋ねる。侍女は郵便小姓の制服を見て、親切に教えてくれた。合っていた。
——ハンスさんの言う通りだ。
すれ違う貴族や官僚たちは、郵便小姓のセシルなど眼中にない。
まるで透明人間になったような感覚だった。
いや、それでいい。誰にも警戒されず、どこへでも行ける。
◇ ◆ ◇
宮廷の北西にそびえる賢者の塔。宮廷魔術師筆頭の研究室は最上階にあった。
重厚な扉の前に立つだけで、空気が変わるのが分かる。
ピリピリとした静電気のような気配と、冷たい薬草の匂い。
セシルは意を決してノックをした。
「開いていますよ」
中から聞こえたのは、抑揚のない低い声だった。
恐る恐る扉を開ける。
中は本の迷宮だった。天井まで届く本棚、床に積み上げられた書物。
部屋の隅には、淡い青の光を放つ小さな棚があった。四隅に嵌め込まれた石が冷気を纏い、扉に霜が降りている。薬品か何かを保管しているのだろう。
羊皮紙とインクの匂いに、乾いたハーブと金属の香りが混じっている。
その中心にある執務机に、長い黒髪の男が座っていた。
クラウス・ノエル。さっきの昇降機を作った、宮廷随一の魔術師だ。
クラウスは手元の分厚い魔道書から顔を上げ、セシルを見た。
紫の瞳が、一瞬だけセシルの上で止まる。
何かを測るような——あるいは、何かを思い出そうとするような。
沈黙が重い。背筋に冷たいものが走った。
「ゆ、郵便のお届けです! ここに置きますね!」
手紙を机に置こうとして、セシルは動きを止めた。
机の上には、既に大量の手紙が散乱していた。
机の端には、見たこともない装置が鎮座していた。
魔方陣が刻まれた真鍮の台座に、複数の水晶が組み込まれている。
セシルは思わず鼻をひくつかせた。
魔法の気配——乾いた金属と硝子の、ぴりりとした匂い。
クラウスの紫の瞳が、その仕草を捉えていた。
不意に立ち上がると、こちらへ歩いてくる。
セシルが後ずさる間もなく、クラウスの手がすっと伸びてきた。
長い指先が、セシルの肩に触れる。
心臓が跳ね上がった。
バレた。男装が。女だと気がつかれた。
だが、クラウスは無言のまま、セシルの肩口をつまんで引っ張った。
指先が淡く光る。乾いた金属の香りがした。
次の瞬間、制服の肩幅がすっと縮まり、体に馴染んだ。
「え?」
「肩が合っていませんでした」
クラウスは何でもないように言うと、背を向けて窓辺へ歩いた。
「衣服の拡縮魔法は得意なんです」
それだけ言って、再び魔道書に目を落とす。
この人は、歪みを放っておけない性分なのかもしれない。
セシルは呆然と自分の肩を見た。確かに、さっきまで少し浮いていた肩のラインが、ぴったりと収まっている。
かすかに、硝子と金属の香りが残っていた。
男装だと気がついたわけではない……のか? ただ、サイズが合っていないのが気になっただけ?
「し、失礼します!」
セシルは逃げるように研究室を飛び出した。
背後から、何の反応もなかった。
廊下で息を整えながら、自分の手のひらを見つめる。
何をどこまで見透かされているのか分からない。
あの冷たい目は、何を考えているのか——不気味なざわめきだけが胸に残った。
◇ ◆ ◇
セシルが最後の配達を終えて王宮郵便室に戻ると、室内の空気が張り詰めていた。
小姓たちが険しい顔で集まり、ルッソ室長の机に広げられた大きな帳簿を囲んでいる。
「セシル君、戻ったか」
ルッソ室長が重い表情で近づいてきた。
「どうかしたんですか?」
「……行方不明だ」
その言葉に、周囲の空気が一段重くなった。
「王妃陛下宛ての手紙。午前に記録台を通過した」
室長の指が、魔導書の一行を示す。
セシルは小さく息をのんだ。
よりによって——午前に自分が認証した、あの手紙だ。
深紅の封蝋、豪華な羊皮紙。そして、あの潮の香り。
遠い海の気配。宮廷のどこにもない、第一王子殿下からの手紙。
「だが……王妃宮から『今日届くはずの手紙が届いていない』と連絡があった」
ルッソ室長の表情が曇る。
「盗難扱いにでもなれば、郵便室ごと首が飛ぶ。記録は、いくつ出入りしたかまでは残してくれるが……手紙がどこにあるかまでは教えてくれん」
そのとき、セシルは周囲の匂いの変化に気がついた。
郵便小姓たちの間に、ざらついた不安が混じっていく。
そして——。
セシルはそっと記録台に近づき、縁に指を当てた。
鼻先に寄せる。——潮だ。
午前に嗅いだ、あの手紙の匂い。宮廷のどこにもない、異国の風。
それが、王宮郵便室の外へ向かって細く伸びている。
香りの糸が、北棟の方角へと続いていた。
通り過ぎる人々の匂いにかき消されそうになりながらも、たしかに残っている——しかも、ごく新しい。
宮廷にない香りだからこそ、他の何にも紛れない。
「室長」
セシルは思わず声を上げた。
「その手紙、見つけられるかもしれません」
「何?」
驚きに、室長の眼鏡がわずかに揺れる。
誰も気がつかない香りが、私だけには分かる。
なら、私が行かなきゃいけない。
「僕、探します!」
セシルは拳を握りしめた。
ルッソ室長は少し考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「分かった。だが、無理はするなよ。私はここで他の連絡を待つ。全員配達時に回ったところを再度みてくるように!」
ルッソ室長の声とともに、小姓たちが散っていく。
「何かあったらすぐに戻ってこい」
「はい!」
セシルは駆け出した。
潮の香りの糸が、廊下の奥へと細く伸びている。
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