第36話
城の中枢区画は、静寂に満ちていた。
音がないわけではない。
歩哨の靴音も、書類を置く微かな気配も、確かに存在している。
それでも、この区画に流れているのは、音よりも濃い沈黙だった。
英雄が、そこに立っている。
その姿は、周囲の空間と微妙に噛み合っていなかった。
長身で、均整の取れた肢体。
美麗でありながら、この世界の美の尺度から、わずかに外れている。
まるで、異なる法則の中で完成した存在が、強引に当てはめられたかのようだった。
生産された兵士とは、明確に違う。
発している気配の質が、決定的に異なっていた。
完成度が高い、という言葉では足りない。
兵士はあくまで「設計された存在」だ。
だが英雄は、その設計の枠を静かに逸脱している。
――それが、問題だった。
「命令を復唱しろ」
側近の一人が、硬い声で告げる。
本来であれば、英雄は国家に帰属する存在だ。
命令系統は明確であり、管理上の例外は存在しない。
英雄は、答えなかった。
視線は正面。
だが、その焦点は、側近に向いていない。
「再度命じる。配置につけ」
沈黙。
それは拒否ではない。
反抗でもない。
ただ、応答が存在しない。
空気が、わずかに張り詰める。
兵士であれば、ありえない挙動だ。
兵士は命令を理解し、判断し、実行する。
そこに迷いはない。
英雄は、違った。
彼は、ゆっくりと首を巡らせる。
その視線が向いた先にいるのは――
セラフィナだった。
その瞬間、すべてが理解された。
英雄は、側近を見ていない。
国家を見ていない。
城も、制度も、命令系統も、認識していない。
彼が見ているのは、
創造主ただ一人だった。
「……下がりなさい」
セラフィナは、静かに言った。
声を荒げる必要はない。
命令として出す必要もない。
それでも、英雄は動いた。
一歩。
彼女の前へ。
守るべき距離を、正確に保ち、立つ。
それは護衛配置として完璧だった。
だが、その判断を下したのは、国家ではない。
英雄自身だ。
英雄の意識には、命令よりも先に刻まれた優先事項があった。
それは国家でも、制度でもない。
この場に存在する一人の存在を、損なわれてはならないものとして認識する――
その判断が、すでに成立していた。
側近の一人が、息を呑む。
「……統治者様。これは――」
「ええ」
セラフィナは頷く。
否定しない。
驚きも、怒りも、表に出さない。
だが、内側では、明確な異常が記録されていた。
(命令系統が、分断されている)
英雄は、国に帰属する。
それが仕様だった。
創造主への忠誠は、設計上、存在しないはずだった。
それなのに。
(これは……エラー)
システムの誤作動。
想定外の挙動。
再現性のない例外。
完璧を志向するセラフィナにとって、
それは最も忌避すべき事象だった。
管理できないものは、排除する。
制御できない要素は、切り離す。
それが、これまでの判断基準だった。
だが――
彼女は、英雄を見る。
静かだ。
過剰な忠誠表現もない。
跪きもしない。
ただ、
「守る」という選択を、当然のように実行している。
(危険性は……)
即座に数値が浮かぶ。
戦闘力。
影響範囲。
最悪想定。
英雄が暴走した場合の被害は、計算できる。
止める手段も、存在する。
だが、次の問いが浮かぶ。
(この忠誠は、排除すべきか)
英雄は、国家に反旗を翻していない。
敵対行動も取っていない。
ただ、自らの存在理由を国家ではなく私に置いただけだ。
セラフィナは、ほんの一瞬だけ、視線を伏せる。
これまで、国家のために人を使い、制度のために命を配置してきた。
だが今、
初めて逆の構図が現れている。
国家ではなく、個人を守るために存在する力。
(……これは)
危険だ。
同時に、極めて貴重だ。
「配置命令は、保留します」
セラフィナは告げた。
側近たちが、わずかにざわめく。
「代わりに、英雄は私の
公式な言葉を選ぶ。
私的な判断ではなく、暫定措置として。
英雄は、何も言わない。
だが、立ち位置を微調整し、より自然な護衛位置に収まる。
それを見て、セラフィナは確信する。
この存在は、命令では動かない。
だが、敵でもない。
(管理不能……いいえ)
彼女は、内心で言葉を修正する。
(管理の前提が、違う)
英雄は、制度の内側に置く存在ではない。
ならば。
(制度の外に置いたまま、管理する)
完璧ではない。
美しくもない。
それでも、最適解だった。
「下がってください」
側近たちは、従う。
英雄だけが残る。
セラフィナの背後、半歩。
その距離が、彼女の絶対的な忠誠の証だった。
セラフィナは、歩き出す。
城は、いつも通り機能している。
兵士は配置につき、
制度は動き、
国は揺らいでいない。
ただ一つだけ。
この国に、管理不能な忠誠が生まれた。
そしてそれを、セラフィナは排除しなかった。
それが何を意味するのか。
まだ、答えは出ていない。
だが、確かなことが一つある。
この英雄は、国のために存在するのではない。
――彼女を守るために存在している。
それを理解した瞬間、セラフィナの胸に、
これまで感じたことのない感覚が生まれていた。
それは、誤算だった。
そして同時に、初めての――個人的な感情だった。
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