第3話
太陽が天頂を過ぎた頃、カイルは一度作業の手を止めた。
汗が額を伝い、喉が渇いていた。体力も限界に近い。昨夜はほとんど眠れなかったし、狼との戦闘で消耗もしている。
カイルは木の切り株に腰を下ろし、荷物を確認した。
小さな布製の袋の中には、わずかな食料が残っていた。
パンが二切れ。
それだけだ。
カイルは一切れを取り出し、頬張った。
固くて、味気ない。しかし今の自分には、これすら贅沢品だ。
ゆっくりと噛みしめながら、カイルは残りの食料を見つめた。
(あと一切れ……)
明日には、食料が尽きる。
水筒の水も、残りわずかだ。
カイルは空を見上げた。
秋の日差しが、木々の葉の間から差し込んでいる。まだ暖かい。しかし、この暖かさも長くは続かないだろう。
やがて冬が来る。
食料もなく、防寒具もなく、まともな住居もない状態で冬を迎えたら——確実に死ぬ。
(食料を集めないと……)
カイルは立ち上がり、周囲を見回した。
この森には、何か食べられるものがあるはずだ。
果実、木の実、きのこ、野草——何でもいい。口にできるものを見つけなければ。
しかし、問題がある。
どれが食べられて、どれが毒なのか——その判別ができない。
学園の授業で、多少の知識は学んだ。しかし、実際に森で出会う植物は、教科書に載っていたものとは微妙に違って見える。
迂闊に口にすれば、毒に当たって死ぬかもしれない。
(……作物の種を見つけよう)
カイルは決意した。
野生の果実や野草を食べるよりも、安全な作物の種を見つけて栽培した方がいい。時間はかかるが、確実だ。
そして——種なら、図鑑に記録できるかもしれない。
カイルは白紙の図鑑を腰の袋から取り出し、大事に握りしめた。
これがあれば、武器も道具も取り出せる。
これがあれば、生き延びられる。
カイルは森の奥へと足を進めていった。
木々の間を、カイルは慎重に歩いた。
足元には枯れ葉が積もり、踏むたびにカサカサと音を立てる。周囲には蔦や低木が生い茂り、視界を遮っている。
カイルは腰に差した石剣を抜き、行く手を阻む枝を薙ぎ払った。
シュッ、シュッ。
鋭い音を立てて、枝が切断される。
石の刃は思ったよりも切れ味が良かった。少なくとも、細い枝を切るくらいは問題ない。
カイルは周囲に目を配りながら、歩き続けた。
時折、遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。風が吹くと、木々の葉が揺れてザワザワと音を立てた。
森は生きている。
様々な命が、ここで息づいている。
カイルは足を止め、一本の木を見上げた。
幹は太く、樹皮は深く割れている。枝には緑の葉が茂り、その間に——何か果実のようなものが見える。
しかし高すぎて、手が届かない。
カイルは舌打ちをして、先へ進んだ。
さらに十分ほど歩いたとき、カイルは足を止めた。
視線の先——茂みの向こうに、何か青いものが見えた。
カイルは茂みをかき分け、近づいた。
そこには、低木があった。
高さは膝ほど。枝は細く、葉は濃い緑色。そして——枝の先には、青い果実が実っていた。
果実の大きさは親指ほど。表面はつるりとしていて、まるでビー玉のように滑らかだ。色は深い青——いや、紺に近い。
カイルはしゃがみ込み、果実をじっと見つめた。
(これは……食べられるのか?)
見た目は美味しそうだ。しかし、それが罠かもしれない。
毒を持つ植物ほど、鮮やかで魅力的な見た目をしていることが多い。それは自然界の鉄則だ。
カイルは果実を摘み取ろうとして——手を止めた。
(待て……)
もし毒だったら?
素手で触れただけで、皮膚から毒が染み込む植物もある。
カイルはしばらく悩んだ。
そして——図鑑を取り出した。
(もしかして……)
カイルは図鑑を開き、白紙のページを広げた。
それから、慎重に果実を一つ摘み取った。
手のひらに乗せる。ひんやりとした感触。特に痛みや痺れは感じない。少なくとも、触れただけで毒が回るタイプではないようだ。
カイルは果実を図鑑のページの上に置いた。
すると——
図鑑が、反応した。
ページの上で、文字が綴られ始めたのだ。
「おぉ……!」
カイルは思わず声を上げた。
ひとりでに、滑らかに、文字が浮かび上がっていく。
そして、果実の絵も描かれていく。まるで水彩画のように、色が滲み、形が整っていく。
カイルは息を呑んで、その様子を見つめた。
やがて——記録が完成した。
カイルは、綴られた内容を読んだ。
【アオニガリの実】
[分類] 毒性植物の果実
[危険度] ★★★★★(極めて危険)
[説明]
アオニガリと呼ばれる低木の果実。深い青色が特徴的で、一見美味しそうに見えるが、猛毒を含む。毒の種類は神経毒で、摂取すると数分以内に痙攣、呼吸困難、意識混濁を引き起こし、致死量はわずか一粒程度。解毒は困難で、摂取後の生存率は極めて低い。
果実だけでなく、葉や根にも毒が含まれており、接触による皮膚炎を引き起こすこともある。
味は名前の通り強烈な苦味を持つが、毒の作用速度が速いため、吐き出す前に致命的なダメージを受ける。
古くから暗殺に用いられてきた歴史があり、「青い死神」の異名で恐れられている。
[特性]
- 成長速度:極めて速い(種から一ヶ月で結実)
- 魔力保有:果実には微量の魔力が含まれており、適切に精製すれば魔法薬の材料として利用可能(ただし高度な技術が必要)
- 繁殖力:旺盛で、放置すると周囲に広がる
[利用法]
毒の抽出材料、魔法薬の原料(上級者向け)、魔物除け(臭いを嫌う魔物が多い)
[注意]
絶対に口にしてはならない。取り扱いには細心の注意が必要。
カイルは、ゆっくりと息を吐いた。
背筋に冷たいものが走った。
(……食べなくてよかった)
もし、図鑑で確認せずに口にしていたら——
カイルは死んでいた。確実に。
一粒で致死量。しかも数分で死に至る。
カイルは改めて、果実を見つめた。
こんな小さな、美しい果実が——人を殺す。
自然というのは、本当に恐ろしい。
しかし——
(待てよ)
カイルは説明文を読み返した。
「魔力保有」
「成長速度:極めて速い」
「魔法薬の原料」
つまり、使い方次第では価値がある、ということか。
カイルは低木を見回した。果実は、まだたくさん実っている。十個以上はあるだろう。
カイルは慎重に、すべての果実を摘み取った。
それを布で包み、カバンの中に入れる。毒があるとはいえ、いつか役に立つかもしれない。
魔物除けになるなら、拠点の周りに撒くこともできる。
(もうちょっと探索しよう)
カイルは立ち上がり、再び歩き始めた。
さらに森の奥へ。
太陽の位置から判断すると、もう午後三時を過ぎている。
そろそろ引き返さないと、日が暮れてしまう。
カイルが引き返そうと振り返ったとき——
聞こえた。
ちょろちょろ、ちょろちょろ。
水の流れる音。
カイルは耳を澄ました。
確かに、水音がする。川か?
(水場を確保できれば……!)
カイルは音の方向へ向かった。
茂みをかき分け、木々の間を縫って進む。
水音が、だんだん大きくなってくる。
そして——
「あった!」
カイルは茂みを切り開き、開けた場所に出た。
そこには——川ではなく、湧水があった。
地面から水が湧き出し、小さな水溜まりを作っている。
水溜まりの直径は二メートルほど。深さは——覗き込むと、底が見えるので、そう深くはないようだ。
そして——水が、輝いていた。
いや、正確には「輝いている」というよりも、「光を帯びている」という表現が正しいだろうか。
綺麗に透き通った青。
まるで宝石のような色。
カイルは水溜まりの縁にしゃがみ込み、水を見つめた。
「これって……」
カイルは恐る恐る、水を手のひらで掬った。
冷たい。
しかし、ただの冷たさではない。何か——不思議な感触がある。
まるで水が、生きているかのような。
そして、手のひらの上で、水が微かに発光している。
カイルの心臓が高鳴った。
「魔法水だ!」
カイルは思わず声を上げた。
魔法水——魔力を帯びた特殊な水。
浄化作用を持ち、汚れや毒を中和する効果がある。また、魔法薬を作る際の基材として、あるいは魔法の杖や道具を作る際の素材として、大量に使われる。
通常、魔法水は魔石を水に浸すことで人工的に作られる。しかし、稀に——自然界で、湧水として湧き出ることがある。
そして、そのような天然の魔法水は、人工のものよりも遥かに質が高いとされている。
カイルは興奮を抑えきれなかった。
(これは……すごいものを見つけた!)
魔法水があれば、様々なことができる。
飲料水としても使えるし、傷の治療にも使える。そして、将来的には魔法薬を作ることもできるかもしれない。
カイルは図鑑を取り出し、開いた。
そして、掬った水を図鑑のページの上に垂らした。
すると——やはり、文字が綴られ始めた。
カイルは見守った。
文字が完成していく。
そして——
カイルは、ふと気づいた。
図鑑を開いたとき、ページの順番が——変わっていた。
石剣のページの次は、アオニガリのページだった。
しかし今——石剣とアオニガリの間に、新しいページが出現していた。
「順番が……?」
カイルは図鑑をパラパラとめくった。
確かに、ページが増えている。
最初は、石斧と石剣の二ページだけだった。
次に、アオニガリが追加された。
そして今——魔法水のページが、石剣とアオニガリの間に挿入された。
(順番があるのか……?)
カイルは考えた。
もしかして、図鑑は自動的に——カテゴリーや種類ごとにページを整理しているのだろうか?
武器は武器のセクション。
植物は植物のセクション。
素材は素材のセクション。
そして、新しい項目が追加されるたびに、適切な場所に自動的に挿入される——
(信じがたいけど……実際に目の前で起こってる)
カイルは納得した。
変に考えても無駄だ。これは神器なのだから、常識では測れない。
カイルは魔法水のページを読んだ。
【魔法水】
[分類] 特殊素材(液体)
[希少度] ★★★★☆(非常に希少)
[説明]
魔力を帯びた特殊な水。自然界では極めて稀にしか発見されない天然資源。地脈の魔力が集中する場所で湧き出ることがあり、その質は人工的に作られた魔法水を遥かに凌ぐ。
透明度が高く、微かに青白く発光する。味は清涼で、飲用すると疲労回復や軽度の傷の治癒効果がある。
主な用途は、魔法薬の調合、魔法道具の製作、魔法陣の描画など。また、汚染された水や毒を中和する浄化作用も持つ。
長期保存が可能で、魔力は数年間保持される。
[効果]
- 疲労回復(飲用時)
- 軽度の治癒(外用・飲用)
- 浄化作用(汚れ、毒の中和)
- 魔力供給(魔法道具への注入)
[魔力含有量] 高
[採取場所] 嘆きの原生林・湧水地点
カイルは説明をざっと読み、それから——試しに、ページに手を突っ込んでみた。
ずぶり。
手が、ページの中に沈んでいく。
カイルは水を探った。
冷たい感触が、指先に触れる。
それを掴み——引き抜いた。
手がページから出てくる。
そして、カイルの手には——何かが握られていた。
青白く光る、固形物。
まるで氷のような。いや、氷よりも透明で、美しい。
「……え?」
カイルは困惑した。
液体のはずの魔法水が——固形になっている?
カイルはそれを手のひらの上に乗せ、まじまじと見つめた。
大きさは、鶏卵ほど。
重さは——意外と軽い。
形は不定形で、少しいびつだ。
そして——
じわり。
固形物が、溶け始めた。
ゆっくりと、形を失っていく。
やがて——完全に液体に戻った。
魔法水が、カイルの手のひらから滴り落ちる。
「すげぇ……!」
カイルは思わず呟いた。
図鑑から取り出すときは固形化する。
しかし、しばらくすると液体に戻る。
つまり——持ち運びができるということだ。
液体のままでは、容器が必要になる。しかし、固形化すればそのまま持ち運べる。
そして必要なときに、液体として使える。
(これは……本当に便利だ!)
カイルは改めて、図鑑の凄さを実感した。
この神器は——ただの記録装置ではない。
作ったものを保存し、いつでも取り出せる。
そして、その形態すら変化させることができる。
カイルは立ち上がり、湧水を見つめた。
ここは——貴重な資源の宝庫だ。
定期的にここへ来て、魔法水を採取しよう。
そして、図鑑に記録しておけば、いつでも使える。
カイルは満足げに頷き、それから空を見上げた。
太陽が、さらに傾いていた。
そろそろ引き返さないと、暗くなる。
カイルは湧水の場所を記憶し、来た道を戻り始めた。
今日の収穫は——アオニガリの実と、魔法水。
どちらも、貴重なものだ。
そして何より——図鑑の新しい能力を発見できた。
カイルは図鑑を胸に抱きしめた。
この白紙の本。
最初は「何の役にも立たない」と思っていた。
しかし今は違う。
これは——最強の神器かもしれない。
カイルの心に、希望の灯が灯っていた。
辺境に追放された無能は白紙の本で無双する。 Dr.cat @ryo20130124
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