第四章「全ての始まり」 1/2

 アンナが再び占いの館を訪れたのは、それから間もない日のことだった。


「フィーネさん、いますか」


 布扉の向こうから聞こえる声は、前よりも少しかすれていた。

 わたしが応じると、アンナはいつもの椅子に腰かけることもなく、立ったままこちらを見つめてきた。


「……トレーソンさんのこと、聞いてます?」


 胸が、嫌な予感とともに締めつけられる。


「いえ。何かあったの?」


 アンナは唇をかみしめ、一度だけ大きく息を吸った。


「この前、家に来てくれたんです。夫との関係をとりもっていただくために。

 最初は、普通にお茶を飲んで、少し話して……」


 声が震える。


「そこに、夫が帰ってきて。民兵団のところに連れて行かれてたらしくて、すごく機嫌が悪くて……」


 民兵団、という単語が耳に刺さる。

 嫌な予感が、形を持ち始めた。


「トレーソンさん、止めようとしてくれたんです。あたしを庇って、夫に暴力をやめろって言ってくれて」

「……」

「それで、逆上した夫に殴られて……何度も、何度も。床に倒れても、立ち上がって……笑ったんです。血だらけなのに」


 あの日視た未来の断片が、そのまま現実のものとして語られていく。

 殴りつけられる青年。血だまり。なのに、立ち上がろうとする影。


 止められなかった──。

 喉の奥が、きゅっと締めつけられる。


「ねえ、フィーネさん」


 アンナの視線が、じりじりとこちらに向く。


「民兵団に、夫のこと通報したの……フィーネさん、ですよね」


 心臓が、どくりと跳ねた。

 否定しようと思えばできる。けれどその嘘はきっと、すぐに剥がれ落ちる。


「……あなたを守りたかったの。ブラムの暴力が、これ以上ひどくなる前に拘束してもらえればって」


 絞り出すように告げると、アンナはかすかに笑った。


「守る……ね」


 その笑みには、温度がなかった。


「民兵団の人たち、最初は『事情を聞かせてもらうだけだ』って言ってたらしいです。でも結局は、金を巻き上げて終わりで……。


『身に覚えのないことで疑われたうえに、金まで取られた』って、それはもう怒ってました。その腹いせみたいに、あたしにも……前よりずっとひどく当たるようになって」


 わたしの行動が、すべて裏目に出たのだと悟った。


「本当に、あたしのためを思ってやってくれたんですか?」


「わたしは──」


 言葉が、喉で途切れる。


 アンナの夫を止めたいと思ったのは事実だ。

 けれど、その裏で「これで最悪の未来を防げるかもしれない」という、自分本位な計算も働いていた。


 アンナを“救いたかった”のと同じくらい、いやそれ以上に、

 “自分が視た未来が現実になるのを見たくなかった”のだ。


「……ごめんなさい」


 ようやく絞り出したのは、その一言だけだった。


 アンナは、ゆっくりと顔を上げた。


「謝って済む問題じゃありません。……もう、ここには来ませんから」


 その言葉は、覚悟というより疲れ切った諦めのように聞こえた。


「待って。わたしは──」


「さようなら、フィーネさん」


 それ以上、こちらの声を聞くつもりはないというように、アンナは踵を返した。

 弦楽想具を抱え、布扉を押し分けて外へ出る。揺れた布が、やがて静かに落ち着いた。


 追いかけることも、呼び止めることもできなかった。

 ──最初の未来も、二つ目の未来も、わたしは止められなかった。


 その事実だけが、重く胸に沈み込んでいく。


* * *


 あの日のことを思い出すと、今でも頬の奥がじくじくと疼く。


 折れた鼻は治り、傷もふさがったが、殴られたときに全身を駆け巡った

 ――あの焼けつくような感覚だけは、いつまでも鮮やかだった。


 あの瞬間に生まれた衝動は、いまも揺らいでいない。


 恐怖。

 暴力。

 支配。


 アンナとのやり取りで味わった「精神的な支配」による満足感は、ブラムの拳によって上書きされた。


 言葉や気遣いでじわじわと心を絡め取るのではなく、一撃で跪かせる力。


 ──だが、それを実現させるには決定的な問題があった。

 私は、どうあがいても戦士にはなれない。


 筋肉質でもなければ、剣の才覚があるわけでもない。

 あのブラムのように、殴るだけで人間を黙らせる腕力もない。


 だからこそ、この衝動を叶える別の手段を探す必要があった。

 そうして私は領主会議の合間を縫いながら、「力」についての調査を少しずつ進めていった。


 それからしばらくのあいだ、私は首都アーサットとその周辺にある図書館や文書庫、古い教会の地下書庫に至るまで、とにかく「力」という言葉にかすりそうな場所を片っ端から巡った。


 軍事の戦術書。

 金と取引に関する指南書。

 古い宗教儀礼の記録。


 どれも、「人を動かす」手段ではある。

 だが、私が求めているのはもっと根本的なものだった。


 そしてある日、貴族だけが利用できる文書庫で、一冊のやけに薄い年代記に指が止まった。


『アスタロト家の記録』


 その名は、よく知っている。

 ヒノーデルで出会った占い師──フィーネ・アスタロト。


「……ただの占い師ではなかったわけか」


 ページをめくるたび、古びた紙から乾いた音がした。


 そこには、アスタロト家がかつて「上位存在」と交信し、

 大飢饉の折に未来を見通して人々を導いたことが淡々と記されている。


 そして、その「上位存在」の名。


 ──監視者。


 フィーネの口からも聞いた名前だった。


 無数の世界一つひとつに存在し、先を見通し、世界を監視し続ける存在。

 また、この世界においては生命の「想い」から生じるエネルギーを管理する役割も担っているらしい。


 ページの一部には、こんな一節があった。


『監視者は、“自然の摂理に反する事象”がこの世に満ちたとき、

 均衡を取り戻すべく、現世に姿を現す』


(自然の摂理に反する事象……)


 そこから先の記述は、あいまいだった。

 具体的な条件はぼかされ、象徴めいた比喩ばかりが並んでいる。


 ページを閉じ、しばし瞑目する。

 しかし一方で、胸の奥に薄い興奮が灯っていた。


 自然の摂理に反する事象を、この世界に満たすことができれば──監視者は降りてくる。


 そしてアスタロト家は、その監視者と交信できる血筋。


(ならば、あの占い師は私の鍵になりうる)


 仮説は、急速に形を成し始める。


 世界の均衡を司る上位存在。

 それに干渉し、自分の望む形で「支配」することができれば──


 人の心や、拳で届く範囲など比べ物にならない規模で、この世界を意のままにできるのではないか。


(だが問題は、“自然の摂理に反する事象”か)


 そこだけが、どうにも掴めなかった。

 戦争か。疫病か。天候を狂わせるほどの大規模な儀式か。


 どれも現実味が薄い。

 貴族として多少の権力はあれど、世界そのものを揺るがすほどの出来事を、今の私が起こすことはできない。


 考えあぐねていたその時、ふと別の記憶がよみがえった。


 薄暗い占いの館。

 水晶玉越しに、泣きそうな顔でこちらを見ていた女の声。


『あなたが、支配することに魅入られ、数えきれないほどの人々を死へと追いやり……その果てに、“監視者”をこの世界へと降ろしてしまう──そんな未来が、視えてしまったのです』


 あのときは、作り話だと笑い飛ばした。

 だが今、あの言葉はまったく別の響きを持って胸に落ちてくる。


(数えきれないほどの人々を、死へと追いやる……)


 自然の摂理。

 生まれ、老い、死ぬ。

 それが生命の当たり前の流れだ。


 では、「自ら死を選ぶ」者たちが、同じ時期に、同じ場所で、雪崩のように現れたとしたらどうだろうか。

 それは、摂理から外れた「歪み」として、監視者の目に映るのではないか。


(自殺……)


 口の中で、その言葉を転がす。


 この世界には、絶望している者がいくらでもいる。

 貧困にあえぐ者、暴力に慣らされた者、未来を諦めた者。

 そうした人の「心の弱さ」を利用することなら、私はすでに経験済みだ。


 “自然の摂理に反する大量の死”を、この世界に満ちさせることも不可能ではないのかもしれない。


 ページの上で、指先が無意識に震えていた。


 監視者を呼び出し、その力を私の望むままに振るう。


 その先にある光景を想像すると、

 胸の奥で、ぞわりと甘い震えが走った。


「……なるほど」


 静かな文書庫の中で、誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

 唇の端が、自然と吊り上がっていくのを感じた。

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