第11話 火のまわり、気配のままに
朝。 火を起こし、器に湯を注ぐ。 その隣に、昨日の水草がまだ浮かんでいる。
孝平は、ふと川辺の足跡を思い出した。 あの形。あの場所。 そして、あの気配。
「……気のせい、じゃなかったよな」
立ち上がり、水袋を手に取る。 昨日満たしたはずの水が、思ったより減っている。
「……あれ?」
拠点の隅に置いた器の水も、半分ほどになっていた。 風がふわりと吹いて、草の穂が揺れる。
「……飲んだのか?」
返事はない。 けれど、器の縁に、小さな濡れた跡が残っていた。
孝平は、しばらくそれを見つめていた。 そして、ぽつりとつぶやく。
「……そうか。来たんだな」
昼前。 孝平は、拠点の一角に手を入れていた。
火のそば、少し空いた場所。 そこに、小さな腰掛けを据える。 昨日、川辺で拾った丸い石を並べて、 その上に、器をひとつ置いた。
器の中には、干し実を三つ。 水を少し。
「……ここ、使っていいからな」
誰に向けて言ったのか、自分でもよくわからない。 けれど、言葉にしておきたかった。
風が、そっと吹いた。 枝が揺れ、葉が一枚、器のそばに落ちる。
「……ああ、うん。そういう感じでいい」
孝平は、腰を上げ、火の準備を整える。 薪をくべ、火打ち石を手に取る。 火花が散り、やがて、ぱちりと音がした。
火が灯る。 その周りに、ふたつの器と、ふたつの腰掛け。
「……なんか、変な感じだな」
けれど、悪くはなかった。
夜。 火のそばに、孝平は静かに座っていた。
薪がはぜる音が、ぽつぽつと響く。 器の湯気が、ゆらゆらと立ちのぼる。
ふと、草の揺れる音がした。 風ではない。 もっと、重さのある動き。
孝平は、顔を上げる。 けれど、何も見えない。
ただ、気配があった。 火の向こう側。 もうひとつの腰掛けのあたり。
孝平は、そっと器を手に取り、 干し実を三つ、入れ直す。 そして、それを向こうの器に移した。
「……よかったら、どうぞ」
声は、静かに夜に溶けた。 火が、ぱちりと音を立てる。
孝平は、それ以上何も言わず、 自分の器を手にして、湯をすする。
しばらくして―― ふと見ると、向こうの器の干し実が、ひとつ消えていた。
風は吹いていない。 虫の音も、遠くでかすかに響くだけ。
けれど、確かにそこに、 “誰かがいた”という感覚が残っていた。
火は、ゆっくりと揺れていた。 薪が崩れ、赤い火の粉がひとつ、空へと舞い上がる。
孝平は、器を手にしたまま、 向こうの腰掛けを見つめていた。
そこには、誰もいない。 けれど、器の中の干し実は、ふたつになっていた。
「……食べたんだな」
返事はない。 でも、それで十分だった。
孝平は、火に薪をひとつくべる。 ぱちり、と音がして、炎が少しだけ高くなった。
「……また来てもいいからな」
その言葉に、風がそっと応えた。 草の穂が、やさしく揺れる。
火のまわりに、ふたつの器。 ふたつの腰掛け。 そして、ふたつの気配。
まだ名前も、姿も知らない。 けれど、“ここにいていい”という場が、たしかに生まれた。
夜は静かに更けていく。 火のぬくもりだけが、ふたりを包んでいた。
【後書き】
足跡、水の減り、器に残った濡れ跡。 それはまだ“出会い”ではないけれど、 たしかに“誰かがいた”という気配でした。
孝平は、火のそばにもうひとつの器と腰掛けを置きます。 それは、言葉のないままに「ここにいていい」と伝える場所。
火を囲むふたりの気配。 名前も姿も知らないけれど、 たしかに“場”が生まれた夜でした。
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