第10話 水の気配と、遠くの気配
朝。 火を起こし、器に湯を注ぐ。 その隣に、昨日もらった葉と実が並んでいる。
ふと、かごの中の水袋を持ち上げる。 思ったよりも軽い。
「……あれ、もうこんなに減ってたか?」
拠点の隅に置いた雨水の甕も、底が見えている。 ここしばらく、雨が降っていない。 それに――
外に出ると、 畑の土が、白く乾いていた。
「……やっぱり、広げすぎたか」
精霊たちとのやりとりが増えて、 孝平は、畑を少し広げていた。 干し実の材料を増やすため。 そして、分けあう余裕を持つため。
「……水、探しに行くか」
そのとき、風がふわりと吹いた。 草の穂が、一方向に揺れる。
「……あっち、か?」
風がまた吹く。 まるで「そうだ」と言うように。
孝平は、かごを背負い直した。 水袋をひとつ、空のまま持って。
「じゃあ、行ってみるか。水場探しの旅ってやつだな」
風の向きをたよりに、森の奥へと足を進める。 草の丈が高くなり、足元の土がしっとりとしてきた。
「……近いな」
耳を澄ますと、かすかに水音が聞こえる。 さらさらと、石をなでるような音。
やがて、木々の間から光が差し込み、 その先に、川が流れていた。
幅は広くないが、水は澄んでいて、 底の石まで見えるほどだった。
「……いい場所だな」
孝平は、川辺にしゃがみこみ、 水袋をゆっくりと沈める。
そのとき―― 水面が、ふわりと揺れた。 風もないのに、波紋が広がる。
「……?」
水袋を引き上げると、 その口に、小さな水草がひとつ絡まっていた。
「……お前も、返してくれたのか?」
水草は、まるで“こんにちは”と言うように、 水袋の口にぴたりと寄り添っていた。
孝平は、そっとそれを外し、 川辺の石の上に置いた。
「……ありがとう。もらっていくよ」
水袋を背負い、立ち上がる。 そのとき、川の向こう岸に、 何かの足跡が見えた。
人か、動物か。 それはまだ、わからなかった。
川の向こう岸。 湿った土に、足跡が残っていた。
大きさは孝平のものとあまり変わらない。 けれど、形が少し違う。 つま先が広がっていて、かかとは浅い。
「……裸足、か?」
人かもしれない。 けれど、動物のようにも見える。 それとも、精霊の足跡という可能性もあるのか。
孝平は、しばらくその足跡を見つめていた。 川の流れが、さらさらと音を立てている。 風が吹き、木々が揺れる。
けれど、その足跡だけが、音を持たなかった。
「……誰かが、ここに来てたんだな」
それが“人”だとしても、 “精霊”だとしても、 “動物”だとしても――
この島に、自分以外の気配があることは、 もう疑いようがなかった。
孝平は、川辺の石に腰を下ろした。 水袋の重みが、背中に伝わる。
「……水をもらいに来たのは、俺だけじゃなかったか」
火のそばに座りながら、 孝平は、今日の出来事を思い返していた。
水の精霊の気配。 川辺の足跡。 そして、器に浮かんだ水草。
どれも、言葉はなかった。 けれど、確かに“誰か”がいた。 それだけは、はっきりしていた。
「……この島、やっぱり生きてるな」
湯気が立ちのぼる。 その向こうに、 まだ見ぬ誰かの姿が、ぼんやりと重なる。
孝平は、器を両手で包み込むように持ち上げた。 その温かさが、胸の奥まで染みていく。
「……よし。明日は、もうひとつ水袋を作るか」
暮らしは、少しずつ広がっていく。 見えない誰かと、分けあうように。 気配と気配が、重なるように。
火が、静かに揺れていた。
【後書き】
雨水で足りていた暮らしに、少しずつ“広がり”が生まれてきました。
畑を広げたことで水が足りなくなり、 川を探す旅に出た孝平は、 水の精霊の気配と、見知らぬ足跡に出会います。
それは、まだ“出会い”ではないけれど、 たしかに“誰かがいる”という感覚。
暮らしが広がると、気配も重なっていく。 そんな静かな変化を描いてみました。
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